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カテゴリ:制令
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{{Plain sister|wikipedia=カテゴリ:日本統治時代の朝鮮の制令}}
[[w:朝鮮総督府|朝鮮総督府]]が制定した[[w:制令|制令]]のカテゴリ。
{{DEFAULTSORT:せいれい}}
[[カテゴリ:日本の法令 (種類別)]]
[[カテゴリ:朝鮮総督府の法令]]
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利用者:村田ラジオ
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2022-08-27T04:55:50Z
村田ラジオ
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祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)
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{{resize|120%|この利用者が投稿したもの}}(入力中を含む)
* [[イェルサリム大主教聖キリール教訓]](キュリロス)
* [[聖金口イオアン教訓下]](ヨハネ・クリソストモス)
* [[シリヤの聖エフレム教訓]]
* [[シリヤの聖イサアク全書]]
* [[正教要理問答]]
* [[通俗正教教話]]
* [[聖詠講話上編]](ヨハネ・クリソストモス)
* [[聖詠講話中編]]
* [[新約聖書譬喩略解]]
* [[祈祷惺々集]](フェオファン編著){{註|将に祈りと教訓の金言集。イチオシ。}}
*#[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(1)]]
*#[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(1)]]
*#[[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)]]
*#[[祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)]]
*#[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(1)]]
:(ヨハネ・クリマクス、修道士ヘシュキオス、フィロテオス、イサアク、バルサヌフィオス)
* [[埃及マカリイ全書]](擬マカリオス)
* [[信経]](正教会)
* [[ニケア信経]](ニケア・コンスタンチノープル信経)
* [[使徒信経(天主公教会1911年)]]
* [[使徒信経(日本聖公会1941年)]]
* [[アタナシオ信経]]
* [[信経問答]]
* [[十誡問答]]
* [[さんぺいとろの御作業]]
* [[さんゑうすたきよの御作業]]
* [[こんてむつすむんぢ抄]](『キリストに倣いて』)
* [[詩四篇・三十一篇・九十一篇(日本聖公会訳)]](+詩百三十四)
* [[詩九十二篇・九十五篇・九十八篇・百篇(日本聖公会訳)]]
* [[詩七十一篇・百十六篇(日本聖公会訳)]](+詩百二十七、詩百三十)
* [[詩二十三篇・三十九篇・九十篇(日本聖公会訳)]]
* [[詩五十一篇]](詩篇第五十一、第五十聖詠)
* [[ミサ通常文・キリエ・グロリア]](カトリック)
::(+サンクトゥス・ベネディクトゥス・アニュスデイ)
* [[人類の忘恩に対する償の祈祷]]
* [[神聖なる聖体礼儀の歌章の次第]](正教会)
* [[大齋の晩課及び先備聖体礼儀の「主よ爾に籲ぶ」]](正教会)
* [[八調の品第詞(ステペンナ)]](正教会){{註|聖詠119~133を題材にした祈りの金言集。}}
* [[マトフェイ伝06]]
* [[マトフェイ伝07]]
* [[正信念仏偈 (意訳聖典)]]
* [[蓮如上人御文章 (意訳聖典)]]
* [[七箇條の起請文 (浄土宗全書)]]
* [[横川法語]]
* [[十二問答]]
* [[十二箇條問答]]{{註|法然上人の人柄が優しい。}}
* [[黒田の聖人へつかはす御文]](別名:一紙小消息)
* [[或女房に示されける法語]]
* [[常に仰られける御詞 (法然上人全集)]]
* [[平重衡に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[甘糟太郎忠綱に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[元强盜の張本なりし教阿に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[御臨終の時門弟等に示されける御詞 (法然上人全集)]]
* [[消息法語 (一遍上人語録)]]
* [[門人伝説 (一遍上人語録)]]{{註|一遍上人は凄い人だった。}}
{{resize|120%|この利用者が加筆したもの}}
* [[聖詠経]](ふりがなを付加)
** [[第一「カフィズマ」]]
** [[第二「カフィズマ」]]
** [[第三「カフィズマ」]]
** [[第四「カフィズマ」]]
** [[第五「カフィズマ」]]
** [[第十七「カフィズマ」]]
** [[第十八「カフィズマ」]]
** [[第十九「カフィズマ」]]
** [[第二十「カフィズマ」他]]
* [[コンチリサンの略]]
* [[白骨の御文]]
* [[主の祈り]]
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2022-08-26T15:58:59Z
村田ラジオ
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{{Pathnav|Wikisource:宗教|祈祷惺々集|hide=1}}
{{header
| title = 祈祷惺々集
| section = シリヤの聖イサアクの教訓(1)
| year = 1896
| 年 = 明治二十九
| override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|フェオファン]] (19世紀)
| override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}}
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| previous = [[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(2)|克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(2)]]
| next = [[祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(2)|シリヤの聖イサアクの教訓(2)]]
| notes =
*発行所:正教会編輯局
}}
<b>シリヤの聖イサアクの教訓</b>
::<b>祈祷と清醒の事</b>
一、 世より遠ざからずんば誰も神に近づくことあたはざるべし。
二、 人に於て五官が勢力を有する間は心は{{r|寧静|ねいせい}}に{{r|止|とど}}まり妄想なくして居ること{{r|能|あた}}はざるべし。
三、 霊魂が神を信ずるによりて安静に達せざる間は五官の弱きを{{r|治|ぢ}}せざるべく内部に属する者の為めに妨げとならんとする有形物体を力をもて{{r|打|うち}}{{r|負|ま}}かすこと{{r|能|あた}}はざるべし。
四、 五官につとむるによりて神をもて楽むを自ら失ひ心は散乱するなり。
五、 もし欲願はいはゆる五官の生む所なりとせば娯楽{{註|なぐさみ}}に由りて心の平安を守らんと自ら己を保証する者は{{r|終|つい}}に黙止すべし。
六、肉体に於て生ずる所の{{r|騒擾|そうじょう}}なる想起を除くが為には心を潜め好んで神の書を学び又其の意味の深きを理会するを学ぶ程充分なるものはあらざるなり。{{r|思|おもい}}が言中に隠るゝ所の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を理会するの楽みに入る時はこれにより鮮明を引出すの量に{{r|随|したが}}ひて人は世を後に{{r|棄|す}}つべくすべて世にある所のものを忘るべくしてもろ〳〵の想起と世の実体を成す所のもろ〳〵有勢なる形像とは心中に消滅せん。
七、 {{r|秤衡|はかりのさを}}はもし其の盤に甚だ重き荷物を負はす時は風の吹くによりて{{r|易|たやす}}く動揺することのあらざる如く智識も神を畏るゝの畏れと{{r|耻|はぢ}}とを負ふに於てはこれを動揺せしめんとする者の為めに転向さるゝこと難からん。されども智識に畏れの乏くなるに{{r|随|したが}}ひて転変と反乱とはこれを占領し始まるなり。されば其の進行の{{r|基|もとい}}に神を畏るゝの{{r|畏|おそれ}}を{{r|据|す}}ゑんことを習ふべし。さらば途上に逡巡するなく日ならずして天国の門にあらん。
八、 汝は{{r|夫|か}}の五官に使役せられざる楽みを感受して自己の智識をもて神と体合せんと欲するか。{{r|施済|ほどこし}}につとめよ。{{r|施済|ほどこし}}が汝の内部に得らるゝ時は其の神に{{r|匹|ひつ}}{{r|似|じ}}せらるべき聖なる美は汝の{{r|中|うち}}に書かるゝなり。{{r|施済|ほどこし}}の行のすべてを包括せざる無きは心霊に於て神との体合を中保無くして生ずべし。
九、 霊神上の体合{{註|神との}}は感銘し易からざるの記憶なり、此の記憶は誡命に{{r|違|たが}}はざるにより天然に又は天然ならざるも{{r|強逼|きょうひつ}}を以てせずして結合に固く{{r|止|とど}}まるより力を借りつゝもゆるが如くなる愛をもて心中に不断に熱するなり。
十、 受くる者の感謝は與ふる者をして前に比ぶれば更に大なる{{r|賜|たまもの}}を與へしむるなり。小なる者の為めに感謝せざる者は大なるものに於ても偽りなり不義なり。
十一、 病んで己の病状を知る者は必ず療法を尋ぬべし。己の病状を人に告ぐる者は其の療法に{{r|殆|ほとん}}ど近づくべく{{r|易|たや}}すくこれを発見せん。悔いざる罪の{{r|外|ほか}}に赦すべからざるの罪はあらじ。
十二、 汝に卓越する者の徳行を常に記憶に存すべし、彼等の{{r|量|ます}}に対して己れの欠乏を{{r|断|た}}えず見んが為なり。
十三、 有力者の陥りしを{{r|憶|おも}}ふて己が徳行を謙遜すべし。古昔陥りて悔改したる者の重き墜堕を記憶すべし、されど墜堕の後に彼等が賜りたる高きと栄誉とをも記憶せよ、さらば己の悔改に於て勇気を得ん。
十四、 みづから己を専ら攻めよ、さらば汝の敵は汝の近づくによりて逐はれん。自ら己れと和せよ、さらば天と地とは汝と和せん。汝が内部の第宅に入らんことを勉めよ、さらば天の第宅を見ん、何となれば彼と此とは同一なるにより一に入りて二を見るべければなり。彼の國の{{r|梯子|はしご}}は汝の内部に於て汝の霊中に秘さるゝなり。
十五、 憂愁の心と{{r|與|とも}}に{{r|交|まじは}}るべし、又祈祷の勤苦及び中心よりの愛慕と{{r|與|とも}}に{{r|親|したし}}むべし、さらば汝の{{r|願|ねがい}}の為めにあはれみの泉は開かれん。
十六、 感動を充たさるゝ清潔の{{r|思|おもい}}を心に懐抱して行ふ所の神の前の祈祷にて常に己を労せよ、さらば神は汝の智識を不潔汚穢の念より守りて神の途は汝の為めに辱められざらん。
十七、 神の書を充分に了解して読みつゝ己を常に黙想に練習せしめよ、汝の智識の閑散なるに乗じて汝の視覚{{註|智覚}}が無用なる思念の為めに汚されざらん為なり。
十八、 【欠】
十九、 智識が{{r|蔽|おほ}}はれたるの始めはまづ第一の奉事と祈祷とを怠るに於て{{r|窺|うかがい}}{{r|知|し}}らるゝなり。けだしもし心霊が首として此れより離れ落ちることあらずんば他に心霊上の誘惑を来すべき途はなければなり、心霊は神の助けを奪はるゝ時は{{註|祈祷に怠るが為めに}}{{r|容易|たや}}すく其の敵の手に落ちん。
二十、 己の弱きを神の前に間断なく開示すべし、さらばもし己の保護者{{註|守護神使}}なしに独り居るも他の為めに誘はれざらん。
二十一、 苦行と己を守るとをもて思念の清潔は流し出さるべく又思念の清潔をもて想考の光は流し出されん、されば此よりして智識は恩寵により五官が権を有せざる所のものに誘導さるゝなり。
二十二、 徳行は体にして直覚は霊なることと彼れと是れとは五官に属すると霊智に属するとの二の部分よりして精神をもて結合せらるゝ一の完全の人なることを自ら想ふべし。さらば霊魂は身体及び四肢の完全なる成形なしに存在する{{註|己を現はす}}能はざるが如く道徳の行を成すなうして直覚に達することも霊魂の為めにあたはざるなり。
二十三、 世といふ言は{{r|所謂|いはゆる}}諸欲と名つくる所のものを己れに包括するの集合名辞なり。もし人は先づ世のいかなる者たるを認識せずんば何の肢体にて世に遠ざかるか又何の肢体にて世と結ばるゝかを認識するに達し得ざるべし。二三の肢体にて世より脱しこれをもて世と交通するを避けたらんに既に自ら其の生活に於て世に遠ざかれりと思ふ者多し、これ彼等はたゞ二三の肢体にて世に死して其他の肢体の世に生くるを{{r|了会|りょうかい}}せず又窺知せざりしによる。彼等は己の情欲を認識するあたはざりき、而して既にこれを認識せざればこれが治療のことをも慮らざるなり。
二十四、 諸欲を合併してこれに名称を下さんとする時はこれを{{r|世|よ}}と名づけ又其の名称の区別によりてこれを{{r|分|わか}}たんとする時はこれを{{r|諸欲|しょよく}}と名づくるなり。此の諸欲なるものは{{r|左|さ}}の如し、富みと汁物とに{{r|恋々|れんれん}}たるなり、身体の{{r|楽|たのし}}みなり、尊敬と権柄と名誉との望みなり、修飾の望みなり、猜忌怨恨及び其他是なり。此等の欲が進行を{{r|止|や}}むる処に於ては世は死するなり。人あり諸聖人の事をいへらく彼等は{{r|猶|なほ}}生きながら死せり、何となれば彼等は肉身にて生きつゝ肉身に依らずして生きたるによると。汝も此等の部分中いづれの部分にて生くるかを見よ、其時はいづれの部分にて世に死するを悟らん。
二十五、 諸欲は或る{{r|附|ふ}}{{r|添物|てんぶつ}}にして霊魂は自らこれ等に於て本原たり。けだし霊魂は天性無欲なるものなり。我は信ず神が己の像に依りて造成せる所の者を無欲に造りしことを。されば像によりて造らるゝとは知るべし身体に関するにあらずして見えざる霊魂に関するを。故に諸欲は霊魂の天性にあるにあらざることと{{r|随|したがつ}}て欲の動き{{r|来|きた}}るや霊魂は其の天性の外にあることとは此れによりて確信せらるべし。
二十六、 もし徳行は天然に霊魂の健全なりとせば諸欲は{{r|最早|もはや}}霊魂の{{r|病|やまい}}なるべし、{{r|即|すなはち}}霊魂の天性に入り来りてこれを其固有の健全より引離す偶有的のものなり。かゝれば{{r|敢|あえ}}ていふべし欲は決して霊魂に天然なるものにあらずと、何となれば{{r|病|やまい}}は健全の後にあればなり。もし欲は霊魂に於て天然のものたらば何故霊魂はこれより害をうくるにや。本来天然に属するものは彼れに害を{{r|加|くは}}へざるべし。
二十七、 智識の{{r|潔|いさぎよ}}きとは徳行に実験的練習を為すによりて神に属するものをもて照らさるゝ是なり。されば思念の誘惑なしに誰かこれを獲たるものありとは{{r|余|わ}}れ{{r|敢|あえ}}て言はざるべし。さりながら思念の誘惑とはこれに{{r|従|したが}}はしめらるゝをいふにあらずしてこれと{{r|闘|たたか}}ふの{{r|基|もとい}}を置くをいふなり。
二十八、 思念の動くは人に四つの原因によりて生ず、第一は天然なる肉身に属するの望願によりて生ず{{註|天然の要求によりて生ず}}、第二は人が聞かんと{{r|欲|ほつ}}し見んと欲する世の事物を想像するによりて生ず、第三は預占せられたる観念により及び心の偏向{{註|旧習}}によりて生ず、第四は先にいへる{{r|諸|もろもろ}}の原因によりすべての欲に引入れて我等と戦ふ所の{{r|魔鬼|まき}}の侵撃によりて生ずるなり。是故に人は此の肉身にて生活する間は死に至る迄{{r|思|し}}{{r|念|ねん}}と{{r|戦|たたかい}}とを{{r|有|ゆう}}せざる{{r|能|あた}}はざるなり。
二十九、 すべて人は顕然且連綿として人に働く所の或る一の欲より己を{{r|衛|まも}}るのみならず又二つの欲より{{r|衛|まも}}るのみならず悉くの欲より{{r|衛|まも}}らんこと緊要なり。徳行をもて自ら欲に勝てる者はたとひ思念の為めに{{r|擾|み}}ださるゝとも自ら勝利を{{r|譲|ゆづ}}らず、何となれば力を有せばなり、而して彼等が智識は善なる且神妙なる記憶に於て大喜するなり。
三十、 {{註|智識の清潔は空虚なる、無益なる{{r|且|かつ}}は有罪なる思念に代へて清潔なる、聖なる及び神出なる思念を充たさるゝの時にあるべし、心の清潔は情欲の主眼たる物に対するもろ〳〵の同感同情より免るゝを得てたゞこれに反対なるものを愛するの時にあり}}。もし智識にして神の書をよむに{{r|拮据|きっきょ}}{{r|黽勉|びんべん}}し{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|儆醒|けいせい}}に及び静黙に多少の尽力を為すあらば己が従前の生活{{註|及び以前の思念}}を忘れて清潔に{{r|達|たつ}}し{{r|得|う}}べし{{註|神の書より借り又神の書にて保持せらるゝ善良なる思念に充たされつゝ}}。されども彼は堅牢なる清潔を有するあらざらん、何となれば彼は{{r|速|すみやか}}に{{r|潔|きよ}}めらるゝも{{r|亦|また}}{{r|速|すみやか}}に{{r|汚|けが}}さるべければなり{{註|されば至要なるは智識の清潔が心の清潔にかゝるにあり、心にして清潔ならざる間は智識に於て善良の思念は堅牢ならざるなり。もし或る情欲に対し心と共に同感のあらはるゝや直ちに智識にも不良なる思想の{{r|沓|くつ}}{{r|至|し}}<ref>投稿者注釈:沓至とは、あとからあとから続いて来ること。</ref>するあるなり}}。されば多くの憂患と剥奪と凡そ世俗に居る所の人々と世の交際を為すを避くるとにより、又此のすべての為めに己を殺すによりて心は清潔に達し得べし。{{r|一言|いちごん}}をもてこれを言はゞ勤労と苦行とをもて己れより諸欲を逐ひ去りてこれと反対の徳行を己れに{{r|樹|た}}つるによりて達し得るなり。もし誰か心にして{{註|此の方法により}}清潔に達し得るあらば其者の清潔は{{註|堅牢にして}}或る小なるものに汚されず大なる{{r|戦|たたかい}}をも{{r|畏|おそ}}れざらん、けだし連綿たる勤労により長久の間に得たるなればなり。
{{Reflist}}
三十一、 貞潔なる{{r|且|かつ}}一に収束せられたる感覚は心に平安を生ず{{r|而|しか}}して心をして事物を試むるに入らしめざるなり。されば心霊が事物の感触を己れにうけざらん時には勝利は戦はずして成るなり。されどもし人が漸く怠慢を生じて侵撃の己れに近づき来るを許すあらば{{r|戦|たたかい}}を支ふるの{{r|已|や}}む能はざるあるべし。されば{{r|最|いと}}単純にして{{r|且|かつ}}{{r|最|いと}}正平なる所の元始の清潔は{{r|攪擾|かくじょう}}せられん。けだし此の怠慢により人類の大半将た全世界も天然なる且清潔なるの景状を失ふべければなり。此に因り世の人々と密なる関係を有して世に居る所の者は邪悪を多く認むるの故に智識を潔むる能はざるべし。故にすべての人は必ず戒慎して己の感覚と智識とを打撃より常に守らんことを要す、けだし清醒と不眠と預戒とは{{r|大|おほい}}に要用なり。
三十二、 人の天性には神に{{r|順|したが}}ふの界限を守るが為めに畏れを要するなり。神に対するの愛は人に於て徳業に対するの愛を起すべくして人は此れをもて作善に誘引せらるゝなり。霊神上の自覚は自然に徳業を行ふの後にあり。されども{{r|畏|おそれ}}と愛とは彼れと此れとに先だつべくして畏れは又愛に先だつなり。
三十三、 すべてより{{r|最|いと}}{{r|寳|たから}}なる者を己の内部に獲んことを心掛くべし。大なる者を得んが為めに小なる者を棄てよ。大価値の者を得んが為めに残剰なるもの及び小価値のものを軽んぜよ。死して{{r|後|のち}}生きんが為めに汝の生命に於て死すべし。功労に死して怠慢に生きざるに己れを委ねよ。けだし<u>ハリストス</u>を信ずるが為めに死をうけし者のみ致命者にあらず<u>ハリストス</u>の誡命を守るが為めに死する者も致命者なり。
三十四、 汝は認識の小なるをもて神を辱めざらんが為めに己の{{r|願|ねがい}}に於て無智なるなかれ。汝は栄誉をうけんが為めに己の祈祷に於て智なるべし。其の賢明なる{{r|望|のぞみ}}によりて名誉をうけんが為めにこれを{{r|猜|そね}}みなくして與ふる所の者に{{r|最|いと}}尊貴なる者を願へよ。<u>ソロモン</u>は自ら{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}たらんことを願ひ{{r|且|かつ}}大なる王に{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を願ひしにより{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}なると共に地上の国をもうけたりき。<u>エリセイ</u>は師が有したる霊神上の恩寵を二倍して願ひしに{{r|其|その}}{{r|願|ねがい}}は成るなうして{{r|了|おは}}らざりき。けだし王に軽微なるものを願ふは王の尊貴を{{r|卑|いやし}}んずるものなればなり。汝の価値が神の前に高まりて神の汝を喜ぶを致さんと欲せば己の願を神の栄光に順じて献ぐべし。視よや神使及び神使長即ち王の此の高貴者等は汝の祈祷する時に爾に注意して汝がいかなる請願をもて{{r|其|その}}主宰に向ふを観察し而して{{r|汝|なん}}ぢ地に属する者にして己の肉体をすてゝ天に属する者を願ふを見るや驚き{{r|且|かつ}}喜ぶなり。
三十五、 神が自ら其照管により我等の願を{{r|俟|ま}}たずして{{r|與|あた}}ふる所の者又は汝と其の至愛者とに與ふるのみならず神を{{r|識|し}}るの認識に遠き所の者にも與ふる所の者を神に願ふなかれ。子は其父に自ら{{r|麵包|ぱん}}を{{r|願|ねが}}はざるべし、其の父の家に於て最大なるもの及び高上なるものを切願するなり。けだしたゞ人智の弱きによりて主は日用の糧を願ふことを命じ給へり。
三十六、 もし神に願ふ所あらんに神が汝に{{r|速|すみやか}}に聴くを延引する時は{{r|哀|かなし}}むなかれ、何となれば汝は神より智ならざればなり。さて汝に此れあるは{{r|或|あるい}}は汝が願ふ所の者をうくるに{{r|當|あた}}らざるに依り或は汝が願ふ所の{{r|賜|たまもの}}をうくるの{{r|速|すみやか}}なるによりこれをして無結果たらしめざらんが為に我等は時に先だちて大なる量に手出しを為すべからず、何となれば{{r|易|たや}}すく受けたる者は又{{r|速|すみやか}}に失ふべければなり。されどもすべて中心の辛苦をもて得たる所のものは又戒慎をもて守らるべし。
三十七、 心霊上の誘惑に陥らざらんが為めに祈祷すべし、而して身体上の誘惑には其の全力を{{r|尽|つく}}して備ふべし。けだし誘惑を{{r|外|ほか}}にして神に近づく能はざればなり、何となれば神出なる平安は誘惑の{{r|中|うち}}に準備せらるゝによる。誘惑より逃ぐる者は徳行よりも逃げん。されどこは希望の誘惑に非ずして患難の誘惑を指すと知るべし。
三十八、 信仰に関係して誘惑に陥らざらんやうに祈祷すべし。汝の心の自負により{{r|誹|ひ}}{{r|謗|ぼう}}及び{{r|驕傲|きょうごう}}の{{r|魔鬼|まき}}と共に誘惑に陥らざらんやうに祈祷すべし。神の寛容により{{r|汝|なん}}ぢ己の智識にて思ふ所の悪なる思想の為めに魔鬼にゆるさるゝ顕然たる誘惑に陥らざらんやうに祈祷すべし。汝の貞潔の{{r|使|つかい}}が汝より離れざらんやうに又罪が汝に対して{{r|最|いと}}猛烈なる{{r|戦|たたかい}}を起さずして汝を貞潔より離さざらんやうに祈祷すべし。二心と疑念{{註|希望の動揺}}の誘惑、即ち心霊が大なる{{r|戦|たたかい}}に{{r|誘|いざな}}はるべき所のものに陥らざらんやうに祈祷すべし、――さて身体上の誘惑は{{r|霊|たましい}}を全うしてこれをうくるに準備すべく{{r|且|かつ}}己の全体をもてこれを{{r|游|およぎ}}{{r|渡|わた}}るべくして其の両眼は涙にみたさるべし、汝の守護者の汝より離れざらむが為めなり。けだし誘惑の{{r|外|はか}}に於て神の{{r|照管|しょうかん}}は{{r|窺|うかが}}ひ{{r|知|し}}られず、神の前に{{r|侃々|かんかん}}たるを{{r|得|う}}るあたはず、聖神の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を学ぶあたはず、神出の愛の汝が{{r|霊|たましい}}に確立せんことも{{r|亦|また}}能ふべきなし。誘惑の{{r|先|さ}}きには人は神に祈祷すること別人の如し。されども神を愛するに依り誘惑に陥らんに自ら違変をゆるさゞる時は神に帰すること恰も神をもて負債者たらしむる者の如くし又其の忠実なる友の如くするなり、何となれば神の旨を行ふに於て神の敵と{{r|戦|たたかい}}を{{r|交|まじ}}へてこれを克服したればなり。
三十九、 我等が主は身体上の誘惑の為めにも祈祷すべきを命じ給へり。けだし我等が天性は土造泥製的なる身体の故に{{r|荏弱|じんじゃく}}にして{{r|偶々|たまたま}}誘惑の来るあるやこれに抵抗する能はず{{r|随|したがつ}}て真理より失墜し背走して憂患の勝つ所となるべきを知ればなり、これ誘惑なくしても神に悦ばるゝを得るならば我等{{r|俄|にはか}}に誘惑に陥るを免れん様に祈祷すべきを命じ給へるなり。
四十、 今より全力を{{r|尽|つく}}して身体をいやしめ霊魂を神に{{r|托|ゆだ}}ねて主の名の為めに誘惑と開戦せん。そも〳〵<u>イオシフ</u>を{{r|埃及|エジプト}}の地に救ひて貞潔の標準をあらはし<u>ダニイル</u>を獅穴に無害をもて守り三人の少者を火炉に守り、<u>イェレミヤ</u>を泥溝より助け{{二重線|ハルディヤ}}の軍営に於て彼に{{r|憐|あわれ}}みを{{r|賜|たま}}ひ<u>ペートル</u>を戸の{{r|閉|とざ}}されたる獄より引出し<u>パウェル</u>を{{r|猶太|ユダヤ}}人の集会より救ひし者、これを略言すれば常に{{r|何|いづれ}}の処何れの地にも其の僕と{{r|同|おなじ}}く在りてこれに其力と勝利をあらはしこれを多くの非常なる場合に守り其のあらゆる憂愁に於てこれに助けをあらはせる者は我等をも堅むべく又我等を取巻く所の波浪の内より救ふべし。
四十一、 {{r|願|ねがは}}くは我等の{{r|霊|たましい}}にも{{r|魔鬼|まき}}と其の{{r|宰|つかさ}}たる者に対して<u>マッカウェイ</u>及び聖なる諸預言者及び使徒及び致命者及び{{r|克肖者|こくしょうしゃ}}と義人等が有したる如きの熱心あらんことを、彼等は{{r|最|いと}}危険なる誘惑の時に{{r|當|あた}}り世と身とを背後に投げすてゝ義に堅立し其の霊魂と共に身体をもめぐる所の危きに自から勝利を譲らずして勇気にこれを克服したりき。彼等の名は其の一代記に録されて其の教道は我等の教訓となり又堅固となるが為めに守らる、これ彼等の履歴を目前に有してこれを生活なる且激励せらるべき{{r|亀|き}}{{r|鑑|かん}}となし彼等の{{r|途|みち}}を歩みつゝ智者となりて神の途を認識せんが為めなり。されば諸義人の{{r|傳|でん}}は温良なる者の耳に渇想せらるゝこと{{r|猶|なほ}}{{r|夫|か}}の近頃植えたる植物に要する不断なる滋潤の如し。
四十二、 太初より今に至る迄一切を保護し給へる神の照管を智識に{{r|蓄|たくは}}ふること{{r|猶|なほ}}弱き目の為めに或る善良なる療法の如くすべし。此れが記憶をいづれの時にも守り此を回想し此を{{r|掛|け}}{{r|念|ねん}}して己の為めに教訓を此より引出すべし、汝をして神の尊貴の大なるを{{r|憶|おも}}ふの記憶を己の心中に守るに練習せしめんが為めなり、又我等が主<u>ハリストス</u> <u>イイスス</u>に於ける永遠の生命を己の心中に得しめんが為めなり、けだし彼は神とし又人として神と人との{{r|仲保者|ちゅうほしゃ}}となり給ひし者なればなり。
四十三、 {{r|何|いづれ}}の情欲にか打負かさるゝ者にして{{r|仆|たふ}}るゝある時は己が天父の愛を忘れざるべし、さりながらもし彼れ種々の犯罪に陥るの場合ある時には善事に熱心して{{r|息|や}}まざるべし。己の進行を{{r|礙|ささ}}へられざるべし、{{r|然|しか}}のみならず{{r|新|あらた}}に征服せらるゝ者も{{r|起|た}}ちて己の敵と戦ふべく自ら此世を{{r|逝|さ}}るに至るまでは{{r|預言者|よげんしゃ}}の{{r|言|ことば}}を口に有して日々に其の破壊せられたる家に{{r|基|もとい}}を置くを始むべし、曰く『我が敵よ我が為めに悦ぶことなかれ、{{r|仆|たふ}}るゝも{{r|復|ま}}た起きん、もし{{r|暗|くら}}きに{{r|居|お}}るも主は光となり給ふ』〔[[ミカ書(口語訳)#7:8|ミヘイ七の八]]〕而して自己の死に至るまで呼吸のあらん間は少しくも休戦せざるべし、たとへ敗北の時といへども己の{{r|霊|たましい}}を勝利に渡さゞるべし。然れどももし其の小舟が毎日打砕かれ積荷は{{r|悉皆|しつかい}}破壊するの難に逢ふある時には自ら{{r|慮|おもんばか}}り自ら{{r|貯|たくは}}ふるを{{r|止|や}}めざるべく借り集むるだになして他の舟に移り希望をもて{{r|浮|うか}}ばんことを{{r|止|や}}めざるべし、以て主が己の苦行を{{r|眷|かえり}}み己の悲嘆に憐みを垂れ己れに其の仁慈を{{r|降|くだ}}して己れに敵の{{r|火箭|ひや}}を{{r|逢|むか}}ひ且忍耐するの強き奨励を與ふるの時に及ぶべし。己の希望を失はざる智なる病者はかくの如し。
四十四、 或る慈善なる神父のいへらく『{{r|子輩|こら}}よもし汝等は{{r|真|まこと}}に徳行に志すの苦行者にして汝等に真実の熱心あらば汝等の心を<u>ハリストス</u>の前に清潔なるものとしてあらはし其の意に適する所の{{r|行|おこない}}を為さんとの{{r|望|のぞみ}}を起すべし。けだし我等はこれが為めに天然の諸欲と此世の抵抗と常に{{r|止|や}}まざる魔鬼の謀慮と其の悉くの悪計とによりて起る所のもろ〳〵の{{r|戦|たたかい}}を必ず防ぎ守らざるべからざればなり。{{r|戦|たたかい}}の猛烈なるが連綿として長く続くを畏るなかれ、{{r|慄|おのの}}くなかれ、もし或は汝等に一時失脚して罪を犯すの変事あらんも失望の淵に陥るなかれ。さりながらたとへ此の大なる戦に於ていかなる害をうけ面を撃たれ傷を負ふことあらんもそは汝等の善良なる目的に進行するを少しくも妨げざるべし。されば汝等が既に選びし所の行為を殊に{{r|大|おほい}}に固く守りて其の希望したる且賞讃すべきの終りに達せしむべし、即ち戦に於て堅固にして勝たれざる者となり己が負傷の血に染まる者とならざらんが為めなり。されば如何にしても其の敵と闘ふを{{r|廃|や}}むるなかれ』。
四十五、 我が約束を偽り又我が良心を蹂躙して魔鬼に手を貸し彼れをして小となく大となく{{r|何|いづれ}}の罪にか我を引誘したるをもて自ら誇らしめ其の霊魂の挫折せられし部分をもて敵の面前に{{r|復|ふたた}}び立つ能はざる所の修道士{{註|及びすべての「ハリステアニン」}}は{{r|禍|わざわい}}なり。彼は其の親友の既に清潔に達して{{r|互|たがい}}に逢迎する時何の顔をもて裁判者の前にあらはれんとするか。彼は其途上に於て親友と相別れて滅亡の{{r|逕|こみち}}を行き{{r|克肖者|こくしょうしゃ}}が神前に有する所の勇気を失ひ又清き心より{{r|出|い}}でて神使の軍よりも高く昇さるべき所の祈祷を失へり、即ち其の願ふ所を未だうけずして其の献ぐる所の口に喜びと共に帰らざる迄は何物を以ても禁ぜられざる所の祈祷を失へり。且や{{r|最|もつとも}}怖るべきは彼は{{r|茲|ここ}}に其の途上に於て親友と相別れし如く<u>ハリストス</u>主が其の潔白をもて光り輝く所の体を清明の雲に乗せて其の{{r|巓|いただき}}に持ち去りこれを天上の門に立たしむるの日に於て彼を其親友と別れしむること是れなり。
四十六、 己の心を欲より守る者は毎時主を見ん。神を常に思念する者は己れより魔鬼を{{r|逐|お}}ひそが憎悪の種子を{{r|絶|たや}}さん。毎時己の霊魂に目在する者の心は啓示をもて{{r|楽|たのし}}まん。智慧の視覚を自ら内部に集中する者は己れに於て霊神上の{{r|天映|ゆふやけ}}を見ん。智識のもろ〳〵の飛揚を軽んずる者は自己の心内に於て己の主宰を見ん。
四十七、 もし其の由りて以て萬物の主宰を見るを得べき所の清潔を愛するならば誰をも議するなかれ、其兄弟を議する者の{{r|言|ことば}}を聴くなかれ。もし他の人々が汝の側に於て紛争するあらば己の耳を{{r|蔽|おほ}}ふて其処より逃ぐべし{{r|汝|なん}}ぢ怒れる者の{{r|言|ことば}}をきかざらんが為めなり、又汝の霊魂が生命を奪はれて死せざらんが為なり。{{r|忿然|ふんぜん}}として怒れる心は己れに神の奥旨を{{r|容|い}}れず、されども温良謙遜なる者は新世界の奥旨の泉なり。
四十八、 もし汝は潔きを得ば汝の内部に天ありて諸神使と其の光とを自ら己れに於て見ん、且彼等と共に彼等によりて神使の主宰をも見ん。
四十九、 己の舌を守る者は終生舌の為めに盗み去られざらん。沈黙の口は神の奥旨を解釈す、されども{{r|言|ことば}}に{{r|急遽|きゅうきょ}}なるは自己の造成者より遠ざかる。舌を{{r|噤|つぐ}}む{{r|者|もの}}はすべて己の外部に於て謙遜と秩序とを得ん、且彼は労なうして情欲を統御せん。
五十、 物体の海の寂然として{{r|静|しずか}}なる時は{{r|海豚|いるか}}躍りて浮ぶが如く心の海に於ても憤激と怒気の寂黙穏静なるあるや毎々奥旨と神出なる啓示とは彼れに躍るありて心を楽ましむるなり。
五十一、 間断なく{{r|思|おもい}}を神に{{r|潜|ひそ}}むるにより欲は根を{{r|絶|たや}}さるべく且背走すべし。これ欲を殺すの{{r|劒|つるぎ}}なり。己れの内部に於て主を見んと願ふ者は神を絶えず記憶するが為めに己の心を{{r|潔|きよ}}むるに尽力するを為す、かくの如くなれば其智識の目の明瞭なるによりて彼は毎時主を見ん。水より出たる魚に有るべき所のものは神の記憶を失ひ世の記憶にて飛揚する所の智識にもこれ有らん。
五十二、 人々と会談するより遠ざかる程は人は己の智識にて{{r|敢|あえ}}て神と会談するを{{r|賜|たまは}}るべく又此世の慰めを自ら絶つの量に{{r|随|したが}}ひて聖神に於ける神の悦楽を賜はるなり。魚は水の{{r|乏|とぼし}}きが為めに{{r|隕|お}}つる如く神の{{r|助|たすけ}}に由りて生ずる所の聡明なる感動も世の人々と{{r|数々|しばしば}}交際して時を消費する所の修道士の心に尽きん。
五十三、 もゆるが如き熱心をもて己の心に日夜神を尋ね敵によりて起る所の附着を心に{{r|剿絶|しょうぜつ}}する者は{{r|魔鬼|まき}}の{{r|怖|おそ}}るゝ所となり神と其の{{r|使|つかい}}とに{{r|望|のぞみ}}を属さるゝなり。心霊の{{r|潔|きよ}}き者には其の内部に思想の域あり彼れに光り輝く所の太陽は{{r|至|し}}{{r|聖三者|せいさんしゃ}}の{{r|光|ひかり}}なり、此域の住者の呼吸する空気は{{r|撫恤|ぶじゅつ}}なる{{r|且|かつ}}至聖なる{{r|神|しん}}なり。彼の域に同く坐する者は聖にして無形なる造物なり、然して彼等の生命と喜びと{{r|楽|たのし}}みとは<u>ハリストス</u>なり即ち光よりの光、父よりの光なり。かくの如き者は其の心霊の視覚をもて太陽の光明よりも実に百倍光輝く所の美麗を毎時楽み且これを奇とせんとす。これ{{二重線|イェルサリム}}なり主の{{r|言|ことば}}にいふ如く我等が内部に{{r|隠|かく}}るゝ所の{{r|神|かみ}}の{{r|國|くに}}なり。此の域は即ち神の光栄の雲にしてたゞ心の清き者は入りて其の主宰の顔を見るべく主宰の光の光線にて其の{{r|諸|もろもろ}}の智識を照らさん。
五十四、 {{r|慍|いきどお}}る者、{{r|怒|いか}}る者、名誉を好む者、得るを好む者、腹を悦ばす者、世と交際する者、我意を遂げんと欲する者、短慮にして欲に充たさるゝ者、すべてかくの如き者等は生命と光の域の{{r|外|そと}}にあらん、けだし此の域は其の心を清潔になしゝ者の領分なればなり。
五十五、 己を{{r|卑|ひく}}うして自ら抑損する者を神は{{r|極|きわめ}}て{{r|賢|けん}}ならしむるなり。されども自ら己を{{r|極|きわめ}}て賢なりと思ふ者は神の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}より離れ落ちん。
五十六、 貞潔謙遜にして{{r|言|ことば}}を{{r|恣|ほしいまま}}にするを{{r|嫌|きら}}ひ{{r|忿|ふん}}{{r|怒|ど}}の気を心より{{r|逐|おい}}{{r|出|いだ}}す者は祈祷に立つや己の心中に於て聖神の光を見るべく其の光にて照らさるゝ光輝によりて躍るべく且此の{{r|照|てら}}し輝くの{{r|栄|さかえ}}を見るにより変化して自ら彼れと相似る迄に至るをもて{{r|楽|たのし}}まん。神に観る現象の如く{{r|汚鬼|おき}}の軍勢を{{r|打|うち}}{{r|負|ま}}かすべき所の行為は他にある無し。
五十七、 此の生涯より{{r|逝|さ}}るべきを記憶して此世の{{r|楽|たのし}}みに{{r|恋々|れんれん}}たるを節する者は{{r|福|さいわい}}なり、何となれば彼は其の{{r|逝|さ}}る時に於て二倍の尊崇を数回うくべければなり。彼は神によりて生まるゝ者にして聖神は彼れの傳育者たり、彼は生命の糧を聖神をもて心に吸収し其の{{r|香|かおり}}を{{r|嗅|か}}ぎて自ら{{r|楽|たのし}}まん。
五十八、 聖神をもて心に吸収して心霊を聖ならしむ所の火を{{r|冷|ひややか}}にするは世の人々と交際すると多言と百般の談話とに過ぐるはあらじ、神を{{r|識|し}}るの認識を増すと神に親近するとに{{r|資|たす}}くべき所の神の奥旨を{{r|子輩|こら}}と談話するは此の{{r|限|かぎり}}にあらず。けだしかくの如き談話は霊魂を生命に鼓舞し欲の根を絶ち不潔の思念を{{r|寝|いね}}らしむることすべての徳行より{{r|猶|なほ}}有力なればなり。此等の{{r|苦行者|くぎょうしゃ}}と{{r|同|おなじ}}く在りて共に交際するは神の奥旨をもて{{r|富|と}}まさん。
五十九、 常に祈祷に{{r|止|とどま}}る者の食物はすべて{{r|麝香|じゃこう}}の良香よりも又香油の{{r|薫香|くんこう}}よりも{{r|甘|かん}}{{r|美|び}}なり、神を愛する者は此の食物を{{r|価|あたい}}すべからざる珍宝の如く願欲するなり、禁食して固く{{r|警醒|けいせい}}を守り主の為めに労する者の食物より生命の療法を借るべく且其の{{r|霊|たましい}}を死せるが如くなるより{{r|呼|よ}}び{{r|醒|さま}}すべし。けだし至愛者は彼等の{{r|中|うち}}にありて彼等を聖にしつゝ席坐し彼等が災難の{{r|苦|くるし}}みは其の説明すべからざる甘味によりて{{r|鎔解|ようかい}}すべくして{{r|夫|か}}の無形なる天の{{r|奉侍者|ほうじしゃ}}は彼等の聖なる食物とを{{r|庇|かば}}ふべければなり。且我れ一の兄弟が其の己の目をもて{{r|明|あきらか}}に{{r|此|これ}}を見たりしを知る。
六十、 人あり其の実験の一を余に語ること左の如し、曰く『{{r|何|いづ}}れの日ぞや我れ某と談話を為すに日に{{r|乾|かん}}{{r|麵包|ぱん}}三つ或は四つを{{r|喫|きつ}}せり、さて自ら己を{{r|強|つと}}めて祈祷に立つあるや我の智識は神に対して勇気を有せず{{r|思|おもい}}を神に{{r|向|むか}}はしむること能はざりき。さるを我れ会話者と別れて{{r|静黙|せいもく}}に{{r|入|い}}るや初日は我れ{{r|自|みづか}}ら{{r|強|つと}}めて{{r|乾|かん}}{{r|麵包|ぱん}}一と半を{{r|喫|きつ}}し{{r|次|じ}}{{r|日|じつ}}は一を{{r|喫|きつ}}す、されど我が智識の静黙に確立するや{{r|強|つと}}めて一の{{r|乾|かん}}{{r|麵包|ぱん}}を全く喫せんとするに余は能はざりき、されど我が智識は我れ自から{{r|強|つと}}めずといへども{{r|断|た}}えず{{r|侃々|かんかん}}として神と談話し神性の{{r|光耀|こうよう}}は乏しからず我れを照らして{{r|神出|しんしゅつ}}なる光の美を見せしめこれをもて自ら悦楽せり。されども{{r|静黙|せいもく}}の時に{{r|當|あた}}り誰か不意に{{r|来|きた}}るありて一時間といへども我れと小談話を為すや其時余は食を{{r|加|くは}}へざらんことも規則を廃せざらんことも此の光を直視するに智識の弱らざらんことも能はざりき』。
六十一、 我れ{{r|一|いつ}}の{{r|兄弟|けいてい}}の所に在りて目撃したる所次の如し。此の兄弟は夜起きて甚だ長く詩を{{r|誦|しょう}}しぬそれより{{r|俄|にわか}}に規則を{{r|罷|や}}めて己の{{r|面|おもて}}を{{r|俯|ふ}}{{r|伏|ふく}}し而して恩寵が彼の心に燃やしたる熱愛と共に地に{{r|叩頭|こうとう}}すること百回或は{{r|其|その}}{{r|餘|よ}}に至れり。かゝりし{{r|後|のち}}{{r|起|た}}ちて主の十字架に接吻し更に{{r|叩拝|こうはい}}を行ひ又同く十字架に接吻して{{r|重|かさね}}て又其面を{{r|俯|ふ}}{{r|伏|ふく}}したりき。そもかくの如きの常例を彼は{{r|畢生|ひつせい}}守りたりしが其の{{r|屈膝|くつしつ}}の多きこと我れ数にて{{r|言|いひ}}あらはすこと能はざるなり。然り此の兄弟が毎夜なしたる叩拝は誰かこれを{{r|数|かぞ}}へ得んや。畏れと熱愛とをもて及び{{r|虔恭|けんきょう}}にて鎔解せられたる愛をもて彼は二十次十字架を接吻し更に{{r|復|ま}}た叩拝と誦詩とをなし始めたり、されど或る時には彼れ此の熱愛にて{{r|灼|や}}く所の思念の大なる奮熱により其の火焔の烈しきに堪へ得ざりしや喜びの勝服する所となり自ら禁ずる能はずして{{r|俄|にわか}}に{{r|叫|さけ}}びたりき。さて彼れ{{r|晨|あした}}に読誦の為めに坐したる時は恰も囚人の如くなりき、而して{{r|其|その}}読む所の連章の間に於て一回ならず己が{{r|面|おもて}}を俯伏し且其の{{r|許多|あまた}}の節條の間に於て其の手を天に挙げて神を讃栄したりき。
六十二、 我れ一の老人よりきけり、曰く『すべて身体を{{r|労|つか}}らすことなく心を砕くことなきの祈祷は流産したる胎実と一に帰す、何となればかゝる祈祷は己に精神を有せざればなり』。
六十三、 「ヘルウィム」に似たるものとなれ、而して汝と神との{{r|外|ほか}}他に地上に於て汝を{{r|慮|おもんばか}}らんとする所の者ありと思ふなかれ。
六十四、 {{r|或|あるい}}は祈祷上の歓楽あり、或は祈祷上の直覚あり、後者の前者より高き数等なるは成全なる人の不成全なる童子より高きが如し。時として詩句が極めて口に甘美にして他の句に移るをゆるさず祈祷に於て一句の{{r|言|ことば}}を{{r|算|かぞ}}ふ{{r|可|べか}}らざる程反復するに祈祷者{{r|飽|あ}}くを知らざることあり。又時として祈祷により或る直覚の生ずるありて其の口頭の祈祷を{{r|断|た}}たんに其直覚によりて祈祷する者身体の麻痺するだも{{r|暁|さと}}らざることあり。かゝる形状を我等は名づけて祈祷上の直覚といふ、されどもこは{{r|示|じ}}{{r|現|げん}}及び{{r|大悦|エクスターズ}}に非ず又は或物の妄想的幻像にもあらざるなり。
六十五、 凡そ神が人類に賜ふ所の律法と誡命の旨趣は諸父の{{r|言|ことば}}によるに心の清きをもて限度{{註|かぎり}}とするが如く祈祷の悉くの種類及び形状、即ち人々がこれをもて神に祈願する所のものも{{r|亦|また}}清き祈祷をもて限度とはするなり。けだし慨嘆も{{r|跪坐|きざ}}も熱心なる{{r|願|ねがい}}、{{r|最|いと}}甘美なる{{r|呼籲|こゆ}}も祈祷の悉くの形状も清き祈祷をもて限度と為すべくして{{r|唯|たゞ}}此の祈祷に至る迄に拡充するを得るのみなればなり。祈祷に{{r|於|おけ}}るの苦行は即ち{{r|唯|たゞ}}此の祈祷に至る迄なり、されば此の限度の外にありては{{r|最早|もはや}}大悦にして祈祷にはあらざるべし何となれば祈祷に属するものは{{r|悉皆|しつかい}}終りて或る直覚の{{r|来|きた}}り{{r|到|いた}}るあればなり。
六十六、 誡命を行ひそれによりて心霊の清きに達せし者は数千人中{{r|僅|わづか}}に一あるが如く大なる勉励と{{r|儆醒|けいせい}}とにより清き祈祷に達するを賜はりし者も数千人中一あるのみなり、されども最早此の祈祷の外にある所の奥密に達したる者は世より世に入りて{{r|僅|わづか}}にこれを見るべし。
六十七、 祈祷とは{{r|或|あるい}}は求望或は感謝或は讃栄を包含するの祈願是なり。祈祷の動作は此の{{r|三|みつ}}の動作をもて限らるゝなり。されば祈祷の{{r|潔|きよき}}と{{r|不|ふ}}{{r|潔|けつ}}とは{{r|繋|つなぐ}}る所{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}し、智識が此動作の一を{{r|献|ささ}}ぐるに準備せらるゝ時に{{r|當|あた}}りてこれに或る他の意思又は或る他の思慮の{{r|来|きた}}り{{r|混|こん}}ずるある時は其の祈祷は{{r|潔|きよ}}きものと名づけられざるなり。
六十八、 諸聖人は其の智識を聖神にて{{r|渦入|まきこま}}るゝ所の来世に於ては祈祷にて{{r|禱|いの}}るあらず、彼等を{{r|楽|たのし}}ましむるの光栄に{{r|大悦|たいえつ}}と共に定住するなり。我等にもかくの如きあらん。もし智識が来世の福楽を感ずるを{{r|賜|たま}}はるや彼は自己をも忘れ、すべて{{r|此処|ここ}}にある者をも忘れて己れに於ては{{r|最早|もはや}}何物にも感動を有するあらざらん。通常智識は感覚と思念の摂理者にして情欲の王たるなり、さりながら聖神の統治の彼れに主たる時は其の権を{{r|取上|とりあげ}}らるゝにより{{r|最早|もはや}}導かるゝあるべきも導くことあらざらん。されば天然が己れの上に権を有するあたはずして他の力をもて導かれ自ら{{r|何処|いづこ}}に行くを知らざるやこれと同時に其の天然を捕へたる力の占有する所となり其の力をもて{{r|何処|いづこ}}に導かるゝを覚知せざるに{{r|當|あた}}りては其時何処に祈祷あるべけんや。其時人は{{r|体|からだ}}の{{r|中|うち}}にあるか{{r|将|は}}た{{r|体|からだ}}の{{r|外|そと}}にあるだも知らざるなり〔[[コリント人への第二の手紙(口語訳)#12:2|コリンフ後十二の二]]〕。されば{{r|最早|もはや}}{{r|夫|か}}{{r|程|ほど}}心の奪はるゝありて自から己を意識せざる者に於ては祈祷は{{r|豈|あに}}あるべけんや。
六十九、 かゝる形状は祈祷の通常の動作を有せずといへどもさりながらこは神の前に立つものなるに{{r|因|より}}ても又此の恩寵を祈祷の時に於て堪能者に{{r|與|あた}}へられて其の{{r|始|はじめ}}を祈祷に於て有するものなるに{{r|因|より}}ても亦同く祈祷と名づけらるゝなり、けだしかくの如きの時を{{r|除|のぞき}}て此の栄誉ある恩寵の降るべき位置あらざればなり。他時に於ては恩寵は位置を有せず。けだし{{r|許多|あまた}}の聖人が一代記に録する如く祈祷に立ちて心を奪はれしことは汝の知る所なり。さりながらもし誰か汝に向つて何故此の時に於てのみ{{r|此|かか}}る大なる{{r|且|かつ}}言ふ可らざる{{r|賜|たまもの}}ありやと問ふあらば答へていふべし此の時に於てはすべて他時に於るよりも人は自ら己の心を集中し神に注意するに準備するありて神よりの仁慈を願望{{r|企|き}}{{r|待|たい}}するによるなりと。これを略言すればこは王に嘆願せんが為めに王門に立つの時なり、されば嘆願し且呼ぶ者の{{r|願|ねがい}}を此時に於て充たしめらるゝこと{{r|適當|てきとう}}なり。けだし人がかくの如く準備しかくの如く自己を看守するを得るは祈祷の時を{{r|除|のぞき}}ていかなる時あるべけんや。けだし諸聖人は其のすべての時を霊神上の事にて占領せらるゝにより閑散の時を有するあらずといへども彼等にも祈祷に準備せざるの時あるべし。けだし{{r|或|あるい}}は生活上遭遇する所のものを思念するが為め或は萬物を観察するが為め或は他の実に有益なる所の者の為めに占有せらるゝこと稀なるにあらざればなり。然れども祈祷の時に於ては智識の直覚力は独一の神に注ぎ其のすべての進行を彼れに向け勉励と連綿たる熱愛とをもて中心より彼れに祈願を{{r|献|ささ}}げんとす。故に心に唯一の配慮あるの時に於て神の慈愛の流れ出づることは{{r|適當|てきとう}}なり。
七十、 凡て諸聖人にあらはるゝの現象は祈祷の時にこれありき。けだし人が神と談話する祈祷の時の如く聖にして又其の聖なるが為め{{r|賜|たまもの}}をうくるに敵當なる他のいかなる時あるべけんや。此の神の前に祈祷と嘆願とを行ひ神と談話する時に於て人は力を{{r|尽|つく}}してあらゆる感動と思念とを{{r|処々|しょしょ}}{{r|方々|ほうぼう}}より一に収束して{{r|思|おもい}}を独一の神に潜め其の心は神にて充たさるゝなり因りて人は及ばざる所のものを会得するなり。けだし聖神は各人の力に応じて其者に働き且や{{r|其|その}}{{r|働|はたらき}}の端緒を其の祈祷する所の者より借りつゝ働くなり、よりて心の動きは祈祷の注意をもて奪はるべく智識は{{r|駭|がい}}{{r|異|い}}の為めに打たれ{{r|且|かつ}}呑まれて{{r|最早|もはや}}此の世にあらざらんとす。
【以下未入力】
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門人伝説 (一遍上人語録)
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2022-08-27T05:43:00Z
村田ラジオ
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*底本:『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172327/146?viewMode=1 国訳大蔵経 : 昭和新纂. 宗典部 第8巻]』pp.270-296
*書誌情報:国訳大蔵経編輯部 編(東方書院 1932年)
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{{resize|130%|{{r|上|しやう}}{{r|人|にん}}{{r|或時|あるとき}}、しめして{{r|曰|い}}はく、{{r|聖|しやう}}{{r|道|だう}}{{r|淨|じやう}}{{r|土|ど}}の{{r|二|に}}{{r|門|もん}}を{{r|能|よ}}く{{r|分別|ふんべつ}}すべきものなり。{{r|聖|しやう}}{{r|道|だう}}{{r|門|もん}}は{{r|煩惱|ぼんなう}}{{r|即|そく}}{{r|菩|ぼ}}{{r|提|だい}}、{{r|生|しやう}}{{r|死|じ}}{{r|即|そく}}{{r|涅|ね}}{{r|槃|はん}}と{{r|談|だん}}ず。{{r|我|われ}}も{{r|此|この}}{{r|法門|ほふもん}}を{{r|人|ひと}}にをしへつべけれども、{{r|當|たう}}{{r|世|せ}}の{{r|機|き}}{{r|根|こん}}においてはかなふべからず。いかにも{{r|煩惱|ぼんなう}}の{{r|本執|ほんしふ}}に{{r|立|たち}}かへりて<ref>【煩惱の本執に立かへり】煩惱即菩提ぞと聞て罪をば造り、生死即涅槃ぞと言へども命を惜むなり。これ即ち煩惱に立還る所以なり。</ref>{{r|人|ひと}}を{{r|損|そん}}ずべき{{r|故|ゆゑ}}なり。{{r|淨|じやう}}{{r|土|ど}}{{r|門|もん}}は{{r|身心|しんじん}}を{{r|放|はう}}{{r|下|げ}}して、{{r|三界|さんがい}}{{r|六道|ろくだう}}の{{r|中|なか}}に{{r|希|け}}{{r|望|まう}}する{{r|所|ところ}}ひとつもなくして{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}を{{r|願|ぐわん}}ずるなり。{{r|此界|このかい}}の{{r|中|なか}}に{{r|一物|いちもつ}}も{{r|要|えう}}{{r|事|じ}}あるべからず。{{r|此|この}}{{r|身|み}}をここに{{r|置|おき}}ながら、{{r|生|しやう}}{{r|死|じ}}をはなるる{{r|事|こと}}にはあらず。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|三心|さんじん}}といふは{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}なり<ref>【三心といふは名號なり】三心は能信の安心。念佛は所信の起行。三心はただ是念佛を信ずる心なれば、念佛を離て此心發ることなし。此心詞にあらはるる時に南無阿彌陀佛と唱ふるなり。故に三心と念佛とは相即して離れざるものなり。</ref>。この{{r|故|ゆゑ}}に{{r|至|し}}{{r|心|しん}}{{r|信樂|しんげう}}{{r|欲|よく}}{{r|生|しやう}}{{r|我|が}}{{r|國|こく}}を{{r|稱|しよう}}{{r|我|が}}{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}と{{r|釋|しやく}}せり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|稱名|しようみやう}}する{{r|外|ほか}}に{{r|全|まつた}}く{{r|三心|さんじん}}はなきものなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|至|し}}{{r|誠|じやう}}{{r|心|しん}}は{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|心|こころ}}を{{r|捨|す}}て{{r|彌陀|みだ}}に{{r|歸|き}}するを{{r|眞實|しんじつ}}{{r|心|しん}}の{{r|體|たい}}とす<ref>【自力我執云云】我等凡夫の自力我執の心は貪瞋邪僞にして眞實の心に非ず、故に我が不眞實の心を捨て彌陀の眞實に歸命するを眞實心の體とするなり。</ref>。{{r|其故|そのゆゑ}}は{{r|貪瞋|とんじん}}{{r|邪|じや}}{{r|僞|ぎ}}{{r|奸|かん}}{{r|詐|さ}}{{r|百|ひやく}}{{r|端|たん}}を{{r|釋|しやく}}するは{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}の{{r|意地|いぢ}}をきらひすつるなり。{{r|三毒|さんどく}}は{{r|三業|さんごふ}}の{{r|中|なか}}には{{r|意地|いぢ}}{{r|具|ぐ}}{{r|足|そく}}の{{r|煩惱|ぼんなう}}なり。{{r|深心|じんしん}}とは、{{r|自身現是罪惡|じしんはげんにこれざいあく}}{{r|生死凡夫|しやうじのぼんぶ}}と{{r|釋|しやく}}して、{{r|煩惱|ぼんなう}}{{r|具|ぐ}}{{r|足|そく}}の{{r|身|み}}を{{r|捨|す}}て{{r|本|ほん}}{{r|願|ぐわん}}の{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}に{{r|歸|き}}するを{{r|深心|じんしん}}の{{r|體|たい}}とす。{{r|然|しか}}れば{{r|至|し}}{{r|誠|じやう}}{{r|心|しん}}{{r|深心|じんしん}}の{{r|二|に}}{{r|心|しん}}は{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}の{{r|身心|しんじん}}のふたつをすてて、{{r|他|た}}{{r|力|りき}}の{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}に{{r|歸|き}}する{{r|姿|すがた}}なり。{{r|囘|ゑ}}{{r|向心|かうしん}}とは、{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|時|とき}}<ref>【自力我執の時】未だ他力名號に歸せざる時なり。</ref>の{{r|諸善|しよぜん}}と{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}{{r|所|しよ}}{{r|具|ぐ}}の{{r|諸善|しよぜん}}と{{r|一|いち}}{{r|味|み}}{{r|和|わ}}{{r|合|がふ}}<ref>【一味和合等】自他の萬善と彌陀の萬德とは同一性なるが故に回向の義を感ず。</ref>するとき、{{r|能|のう}}{{r|歸|き}}{{r|所|しよ}}{{r|歸|き}}{{r|一體|いつたい}}と{{r|成|なつ}}て、{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}とあらはるるなり、{{r|此|この}}うへは{{r|上|かみ}}の{{r|三心|さんじん}}は{{r|即|そく}}{{r|施|せ}}{{r|即廢|そくはい}}<ref>【即施即廢】未だ自力我執を捨ざる者の爲に即ちこれを施說し、既に他力の名號に歸する者の爲に即ちこれを廢捨すべし。</ref>して{{r|獨一|どくいち}}の{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}なり。{{r|然|しか}}れば{{r|三心|さんじん}}とは{{r|身心|しんじん}}を{{r|棄|す}}て{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|申|まを}}すより{{r|外|ほか}}に{{r|別|べつ}}の{{r|子|し}}{{r|細|さい}}なし。{{r|其|その}}{{r|身心|しんじん}}を{{r|棄|す}}てたる{{r|姿|すがた}}は{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}{{r|是|これ}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|常|つね}}に{{r|長|なが}}{{r|門|と}}{{r|顯|けん}}{{r|性|しやう}}{{r|房|ばう}}<ref>【長門顯性房】西山上人の弟子。</ref>を{{r|稱|しよう}}{{r|美|び}}して{{r|云|いはく}}、{{r|三心|さんじん}}{{r|所廢|しよはい}}の{{r|法門|ほふもん}}はよく{{r|立|たて}}られたり。されば{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}を{{r|遂|とげ}}られたり。}}
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{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|上|じやう}}{{r|六品|ろつぽん}}の{{r|諸善|しよぜん}}<ref>【上六品の諸善】觀無量壽經の上三品には行福を說き、中上品と中中品には戒福を說き、中下品には世福を說く。</ref>は{{r|他|た}}{{r|力|りき}}{{r|所|しよ}}{{r|成|じやう}}の{{r|善體|ぜんたい}}をとき、{{r|下|げ}}{{r|三品|さんぼん}}は{{r|煩惱|ぼんなう}}{{r|賊害|ぞくがい}}のすがたを{{r|說|とく}}なり。その{{r|實|じつ}}は{{r|行|ぎやう}}{{r|福|ふく}}<ref>【行福】發心讀經して人をも勘化する大乘の行なり。</ref>の{{r|者|もの}}は{{r|上|じやう}}{{r|三品|さんぼん}}ととき、{{r|戒福|かいふく}}<ref>【戒福】小乘、大乘の戒律威儀を云ふ。</ref>の{{r|者|もの}}をば{{r|中三品|ちうさんぼん}}ととき、{{r|世|せ}}{{r|福|ふく}}<ref>【世福】世俗に於ける忠孝仁義の道德のこと。</ref>の{{r|者|もの}}をば{{r|下|げ}}{{r|三品|さんぼん}}と{{r|說|とく}}べし。そのゆへは{{r|一明|いちみやう}}{{r|三福|さんぷく}}{{r|以爲|いゐ}}{{r|正因|しやういん}}{{r|二明|にみやう}}{{r|九|く}}{{r|品|ほん}}{{r|以爲|いゐ}}{{r|正行|しやうぎやう}}と{{r|釋|しやく}}して、{{r|九|く}}{{r|品|ぼん}}ともに{{r|正行|しやうぎやう}}の{{r|善|ぜん}}あるべきなり。{{r|囘|ゑ}}{{r|向心|かうしん}}の{{r|諸善|しよぜん}}は{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}{{r|所|しよ}}{{r|具|ぐ}}の{{r|諸善|しよぜん}}と、{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}の{{r|時|とき}}の{{r|諸善|しよぜん}}と{{r|一|いち}}{{r|味|み}}になる{{r|時|とき}}をいふなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|隨緣|ずゐえん}}{{r|雜善|ざふぜん}}{{r|恐|く}}{{r|難|なん}}{{r|生|しやう}}といへる{{r|隨緣|ずゐえん}}<ref>【隨緣】緣に隨ひて事を起すこと。</ref>といふは、{{r|心|こころ}}の{{r|外|ほか}}に{{r|境|きやう}}ををいて{{r|修|しゆ}}{{r|行|ぎやう}}するなり。よその{{r|境|きやう}}にたづさはりて{{r|心|こころ}}をやしなふ。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|境|きやう}}{{r|滅|めつ}}すれば{{r|成|じやう}}{{r|就|じゆ}}せず。{{r|是|これ}}{{r|卽|すなはち}}{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|善|ぜん}}なり。これを{{r|隨緣|ずゐえん}}{{r|雜善|ざふぜん}}といふ。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|我|が}}といふは{{r|煩惱|ぼんなう}}なり。{{r|所|しよ}}{{r|行|ぎやう}}の{{r|法|ほふ}}と{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|機|き}}と{{r|各別|かくべつ}}する{{r|故|ゆゑ}}に、いかにも{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}あらば{{r|修|しゆ}}{{r|行|ぎやう}}{{r|成|じやう}}ずべからず。{{r|一代|いちだい}}の{{r|敎法|けうぼふ}}{{r|是|これ}}なり。{{r|隨緣|ずゐえん}}{{r|治|ぢ}}{{r|病|びやう}}{{r|者|じや}}{{r|各|かく}}{{r|依|え}}{{r|方|はう}}といふも、{{r|是|これ}}{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}の{{r|善|ぜん}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|今|いま}}{{r|他|た}}{{r|力|りき}}{{r|不思議|ふしぎ}}の{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}は{{r|自|じ}}{{r|受用|じゆゆう}}<ref>【自受用】功德利益を自ら受用すること。受得したる法樂を自ら味ふこと。</ref>の{{r|智|ち}}なり。{{r|自|じ}}{{r|受用|じゆゆう}}といふは、{{r|水|みづ}}が{{r|水|みづ}}をのみ<ref>【水が水をのみ】唯佛與佛の境界は聲聞菩薩の所知に非ざるに譬ふるなり。</ref>{{r|火|ひ}}が{{r|火|ひ}}を{{r|燒|やく}}がごとく、{{r|松|まつ}}は{{r|松|まつ}}、{{r|竹|たけ}}は{{r|竹|たけ}}<ref>【松は松竹は竹】法法本來無生無滅なる是れ即ち自受用の智慧なり。</ref>、{{r|其體|そのたい}}をのれなりに{{r|生|しやう}}{{r|死|じ}}なきをいふなり。{{r|然|しかる}}に{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|一念|いちねん}}にまよひしより{{r|已來|このかた}}{{r|既|すで}}に{{r|常|じやう}}{{r|没|もつ}}の{{r|凡|ぼん}}{{r|夫|ぶ}}たり。{{r|爰|ここ}}に{{r|彌陀|みだ}}の{{r|本|ほん}}{{r|願|ぐわん}}{{r|他|た}}{{r|力|りき}}の{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}に{{r|歸|き}}しぬれば、{{r|生|しやう}}{{r|死|じ}}なき{{r|本分|ほんぶん}}にかへるなり。これを{{r|努|ぬ}}{{r|力|りき}}{{r|飜迷|ほんめい}}{{r|還本|げんぼん}}{{r|家|げ}}といふなり。{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}に{{r|歸|き}}する{{r|外|ほか}}は{{r|我|われ}}とわが{{r|本分|ほんぶん}}{{r|本|ほん}}{{r|家|け}}に{{r|歸|かへ}}ること{{r|有|ある}}べからず。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|能|のう}}{{r|歸|き}}といふは{{r|南無|なむ}}なり。{{r|十方|じつぱう}}{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}なり。{{r|是|これ}}すなはち{{r|命|みやう}}{{r|濁|ぢよく}}{{r|中夭|ちうえう}}の{{r|命|みやう}}なり。{{r|然|しかる}}に{{r|常|じやう}}{{r|住|ぢう}}{{r|不|ふ}}{{r|滅|めつ}}の{{r|無|む}}{{r|量|りやう}}{{r|壽|じゆ}}に{{r|歸|き}}しぬれば、{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|迷|めい}}{{r|情|じやう}}をけづりて、{{r|能|のう}}{{r|歸|き}}{{r|所|しよ}}{{r|歸|き}}{{r|一體|いつたい}}<ref>【能歸所歸一體】機法一體生佛一如の事なり。</ref>にして、{{r|生|しやう}}{{r|死|じ}}{{r|本|もと}}{{r|無|む}}なるすがたを{{r|六|ろく}}{{r|字|じ}}の{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}と{{r|成|じやう}}{{r|就|じゆ}}せり。かくのごとく{{r|領|りやう}}{{r|解|げ}}するを{{r|三心|さんじん}}の{{r|智慧|ちゑ}}<ref>【三心の智慧】身心を放下して一向に南無阿彌陀佛に成たるを云ふなり。</ref>といふなり。その{{r|智慧|ちゑ}}といふは、{{r|所詮|しよせん}}{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|情|じやう}}{{r|量|りやう}}を{{r|捨|すて}}うしなふ{{r|意|い}}なり。}}
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{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|本|もと}}より{{r|已來|このかた}}{{r|自己|じこ}}の{{r|本分|ほんぶん}}は{{r|流|る}}{{r|轉|てん}}するにあらず、{{r|唯|ただ}}{{r|妄執|まうしふ}}が{{r|流|る}}{{r|轉|てん}}するなり。{{r|本分|ほんぶん}}といふは{{r|諸佛|しよぶつ}}{{r|已|い}}{{r|證|しよう}}の{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}なり。{{r|妄執|まうしふ}}は{{r|所因|しよいん}}もなく{{r|實體|じつたい}}もなし。{{r|本|ほん}}{{r|不|ぶ}}{{r|生|しやう}}なり。}}
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{{resize|130%|{{r|此|この}}{{r|義|ぎ}}しからず。{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}{{r|他|た}}{{r|力|りき}}は{{r|初門|しよもん}}の{{r|事|こと}}なり。{{r|自他|じた}}の{{r|位|くらゐ}}を{{r|打捨|うちすて}}て{{r|唯|ただ}}{{r|一念|いちねん}}{{r|佛|ほとけ}}になるを{{r|他|た}}{{r|力|りき}}とはいふなり。{{r|熊|くま}}{{r|野|の}}{{r|權現|ごんげん}}<ref>【熊野權現】上人三十七歲、健治元年乙亥十二月十五日曉更の御示現なり。</ref>の{{r|信|しん}}{{r|不|ふ}}{{r|信|しん}}をいはず。{{r|有|う}}{{r|罪|ざい}}{{r|無|む}}{{r|罪|ざい}}を{{r|論|ろん}}ぜず。{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}が{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}するぞと{{r|示|じ}}{{r|現|げん}}し{{r|給|たま}}ひし{{r|時|とき}}より、{{r|法|ほふ}}{{r|師|し}}は{{r|領|りやう}}{{r|解|げ}}して、{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}の{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}を{{r|打捨|うちすて}}たりと。これは{{r|常|つね}}の{{r|仰|おほせ}}なり。}}
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{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|阿彌陀|あみだ}}{{r|經|きやう}}の{{r|一心|いつしん}}{{r|不|ふ}}{{r|亂|らん}}といふは{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}の{{r|一|いつ}}なり。もし{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}の{{r|外|ほか}}にこころを{{r|求|もと}}めなば、{{r|二|に}}{{r|心|しん}}{{r|不|ふ}}{{r|亂|らん}}といふべし、{{r|一心|いつしん}}とはいふべからず。されば{{r|稱|しよう}}{{r|讃|さん}}{{r|淨|じやう}}{{r|土|ど}}{{r|經|きやう}}には{{r|慈悲|じひ}}{{r|加|か}}{{r|祐|ゆう}}<ref>【加祐】加は益なり。祐は助なり。</ref>、{{r|令|りやう}}{{r|心|しん}}{{r|不|ふ}}{{r|亂|らん}}ととけり。{{r|機|き}}がおこす{{r|妄分|まうぶん}}の{{r|一心|いつしん}}にはあらず。}}
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{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|決|けつ}}{{r|定|ぢやう}}{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}の{{r|信|しん}}たらずとて{{r|人|ひと}}ごとに{{r|歎|なげ}}くはいはれなき{{r|事|こと}}なり。{{r|凡|ぼん}}{{r|夫|ぶ}}のこころには{{r|決|けつ}}{{r|定|ぢやう}}なし。{{r|決|けつ}}{{r|定|ぢやう}}は{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}なり。しかれば{{r|決|けつ}}{{r|定|ぢやう}}{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}の{{r|信|しん}}たらずとも、{{r|口|くち}}にまかせて{{r|稱|しよう}}せば{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}すべし。{{r|是故|このゆゑ}}に{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}は{{r|心|こころ}}によらず。{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}によりて{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}するなり。{{r|決|けつ}}{{r|定|ぢやう}}の{{r|信|しん}}をたてて{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}すべしといはば、{{r|猶|なほ}}{{r|心品|しんぼん}}にかへるなり。わがこころを{{r|打|うち}}すてて{{r|一向|いつかう}}に{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}によりて{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}すと{{r|意|こころ}}{{r|得|う}}れば、をのづから{{r|又|また}}{{r|決|けつ}}{{r|定|ぢやう}}の{{r|心|しん}}はおこるなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|決|けつ}}{{r|定|ぢやう}}といふは{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}なり。わが{{r|身|み}}わがこころは{{r|不|ふ}}{{r|定|ぢやう}}なり。{{r|身|み}}は{{r|無|む}}{{r|常|じやう}}{{r|遷|せん}}{{r|流|る}}の{{r|形|かたち}}なれば{{r|念念|ねん{{ku}}}}に{{r|生|しやう}}{{r|滅|めつ}}す。{{r|心|しん}}は{{r|妄心|まうしん}}なれば{{r|虛|こ}}{{r|妄|まう}}なり。たのむべからず。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{註|飾萬津別時結願の仰なり。}}{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}は{{r|信|しん}}ずるも{{r|信|しん}}ぜざるも、となふれば{{r|他|た}}{{r|力|りき}}{{r|不思議|ふしぎ}}の{{r|力|ちから}}にて{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}す。{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|心|こころ}}をもて{{r|兎|と}}{{r|角|かく}}もてあつかふべからず。{{r|極樂|ごくらく}}は{{r|無我|むが}}の{{r|土|ど}}なるが{{r|故|ゆゑ}}に、{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}をもては{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}せず。{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}をもて{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}すべきなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|萬法|まんぼふ}}<ref>【萬法】諸善を指すなり。</ref>は{{r|無|む}}より{{r|生|しやう}}じ<ref>【無より生じ】無我より生ずるなり。</ref>、{{r|煩惱|ぼんなう}}は{{r|我|が}}より{{r|生|しやう}}ず。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}に{{r|心|こころ}}をいるるとも、こころに{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}をいるべからず。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|生|しやう}}{{r|死|じ}}といふは{{r|妄念|まうねん}}なり。{{r|妄執|まうしふ}}{{r|煩惱|ぼんなう}}は{{r|實體|じつたい}}なし。{{r|然|しか}}るに{{r|此|この}}{{r|妄執|まうしふ}}{{r|煩惱|ぼんなう}}の{{r|心|こころ}}を{{r|本|もと}}として、{{r|善惡|ぜんあく}}を{{r|分別|ふんべつ}}する{{r|念想|ねんさう}}をもて、{{r|生|しやう}}{{r|死|じ}}を{{r|離|はな}}れんとする{{r|事|こと}}いはれなし。{{r|念|ねん}}は{{r|卽|すなは}}ち{{r|出|しゆつ}}{{r|離|り}}のさはりなり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|念|ねん}}{{r|卽|そく}}{{r|生|しやう}}{{r|死|じ}}と{{r|釋|しやく}}せり。{{r|生|しやう}}{{r|死|じ}}を{{r|離|はな}}るるといふは{{r|念|ねん}}をはなるるなり。こころはもとの{{r|心|こころ}}ながら、{{r|生|しやう}}{{r|死|じ}}を{{r|離|はな}}るるといふ{{r|事|こと}}またくなきものなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|漢|かん}}{{r|土|ど}}に{{r|徑山|けいざん}}といふ{{r|山寺|やまでら}}あり。{{r|禪|ぜん}}の{{r|寺|てら}}なり。{{r|麓|ふもと}}の{{r|卒都婆|そとば}}の{{r|銘|めい}}に{{r|念|ねん}}{{r|起|き}}{{r|是病|ぜびやう}}{{r|不|ふ}}{{r|續|ぞく}}{{r|是|ぜ}}{{r|藥|やく}}。{{resize|small|云云}}。{{r|由良|ゆら}}の{{r|心|しん}}{{r|地|ち}}{{r|房|ばう}}は{{r|此|この}}{{r|頌文|じゆもん}}をもて{{r|法|ほふ}}を{{r|得|え}}たりと。}}{{resize|small|云云}}。
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}を{{r|念佛|ねんぶつ}}といふ{{r|事|こと}}{{r|意地|いぢ}}の{{r|念|ねん}}<ref>【意地の念を呼て】念佛といへばとて意業に佛を思ふと云ふには非ず。南無阿彌陀佛と唱ふるを、念佛と名くるなり。</ref>を{{r|呼|よん}}で{{r|念佛|ねんぶつ}}といふにはあらず。ただ{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}の{{r|名|な}}なり。{{r|物|もの}}の{{r|名|な}}に{{r|松|まつ}}ぞ{{r|竹|たけ}}ぞといふがごとし。をのれなりの{{r|名|な}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|念|ねん}}{{r|聲|しやう}}{{r|是|ぜ}}{{r|一|いち}}<ref>【念聲是一】選擇集に十念と云ふは釋して十聲と云ふなりと。卽ち念は唱ふるなり。</ref>といふ{{r|事|こと}}、{{r|念|ねん}}は{{r|聲|しやう}}の{{r|義|ぎ}}なり。{{r|意|い}}{{r|念|ねん}}と{{r|口|く}}{{r|稱|しよう}}とを{{r|混|こん}}じて{{r|一|いつ}}といふにはあらず。{{r|本|もと}}より{{r|念|ねん}}と{{r|聲|しやう}}と{{r|一體|いつたい}}なり。{{r|念|ねん}}{{r|聲|しやう}}{{r|一體|いつたい}}といふはすなはち{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|三昧|ざんまい}}といふ{{r|事|こと}}、{{r|三昧|さんまい}}といふは{{r|見佛|けんぶつ}}の{{r|義|ぎ}}なり。{{r|常|じやう}}の{{r|義|ぎ}}には、{{r|定|ぢやう}}{{r|機|き}}<ref>【定機】定心の機根、想を凝らして定善を修し得る人をいふ。</ref>は{{r|現身|げんしん}}{{r|見佛|けんぶつ}}。{{r|散|さん}}{{r|機|き}}<ref>【散機】心ちりうごきて定善を修する能はざる人。</ref>は{{r|臨終|りんじう}}{{r|見佛|けんぶつ}}する{{r|故|ゆゑ}}に{{r|三昧|さんまい}}と{{r|名|な}}づくと。{{resize|small|云云}}。{{r|此|この}}{{r|義|ぎ}}しからず。{{r|此|この}}{{r|見佛|けんぶつ}}はみな{{r|觀佛|くわんぶつ}}{{r|三昧|ざんまい}}の{{r|分|ぶん}}なり。{{r|今|いま}}の{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|三昧|ざんまい}}といふは、{{r|無始|むし}}{{r|本|ほん}}{{r|有|う}}{{r|常|じやう}}{{r|住|ぢう}}{{r|不|ふ}}{{r|滅|めつ}}の{{r|佛體|ぶつたい}}なれば、{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}{{r|卽|すなはち}}これ{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|見佛|けんぶつ}}、{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|三昧|さんまい}}なり<ref>【名號卽これ云云】吉水大師曰はく、至極大乘の意は、體の外に名なく名の外に體なし、萬善の名體は名號の六字に卽し、恆沙の功德は口稱の一行に備はるとあり。</ref>。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|念佛|ねんぶつ}}を{{r|王三昧|わうざんまい}}といふなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|稱名|しようみやう}}の{{r|外|ほか}}に{{r|見佛|けんぶつ}}<ref>【見佛】佛身をみること。自己の佛性をさとること。</ref>を{{r|求|もとむ}}べからず。{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}すなはち{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|見佛|けんぶつ}}なり。{{r|肉眼|にくげん}}をもて{{r|見|み}}るところの{{r|佛|ほとけ}}は{{r|眞佛|しんぶつ}}にあらず。もし{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|當|たう}}{{r|時|じ}}の{{r|眼|げん}}に{{r|佛|ほとけ}}を{{r|見|み}}ば{{r|魔|ま}}なりとしるべし。{{r|但|ただ}}し{{r|夢|ゆめ}}にみるには{{r|實|じつ}}なる{{r|事|こと}}も{{r|有|ある}}べし。{{r|夢|ゆめ}}は{{r|六識|ろくしき}}を{{r|亡|ばう}}じて{{r|無|む}}{{r|分別|ふんべつ}}の{{r|位|くらゐ}}にみる{{r|故|ゆゑ}}なり。{{r|是|この}}ゆへに{{r|釋|しやく}}には{{r|夢|む}}{{r|定|ぢやう}}といへり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|魔|ま}}に{{r|付|つ}}く{{r|順魔|じゆんま}}<ref>【順魔】妻子珍寶等なり。</ref>{{r|逆魔|ぎやくま}}<ref>【逆魔】病患災難等なり。</ref>のふたつあり。{{r|行|ぎやう}}{{r|者|じや}}の{{r|心|こころ}}に{{r|準|じゆん}}じて{{r|魔|ま}}となるあり。{{r|行|ぎやう}}{{r|者|じや}}の{{r|違|ゐ}}{{r|亂|らん}}となりて{{r|魔|ま}}となるあり。ふたつの{{r|中|なか}}には{{r|順魔|じゆんま}}がなを{{r|大|だい}}{{r|事|じ}}の{{r|魔|ま}}なり。{{r|妻|さい}}{{r|子|し}}{{r|等|とう}}{{r|是|これ}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|攝取|せつしゆ}}{{r|不|ふ}}{{r|捨|しや}}の{{r|四字|よじ}}を{{r|三緣|さんえん}}を{{r|釋|しやく}}するなり。{{r|攝|せふ}}に{{r|親緣|しんえん}}<ref>【攝に親緣】彼此の三業互相に攝入するなり。</ref>の{{r|義|ぎ}}あり。{{r|取|しゆ}}に{{r|近緣|ごんえん}}<ref>【取に近緣】現に目前に在つて握手交接し給ふを云ふ。</ref>の{{r|義|ぎ}}あり。{{r|不|ふ}}{{r|捨|しや}}に{{r|增|ぞう}}{{r|上|じやう}}{{r|緣|えん}}<ref>【增上緣】色心萬法に通じ一法の結果に對して總て皆增上の用あるを云ふ。</ref>の{{r|義|ぎ}}あるなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|如來|によらい}}の{{r|禁戒|きんかい}}をやぶれる{{r|尼|あま}}{{r|法|ほふ}}{{r|師|し}}の{{r|行|ぎやう}}{{r|水|ずゐ}}をし、{{r|身|み}}をくるしむるは、またくこれ{{r|懺|さん}}{{r|悔|げ}}にあらず<ref>【尼法師云云】懺悔するは滅罪の爲なり。然るに行水をし身を苦しむるは因果の理を信ずるのみにて、全く滅罪の義あるべからず。故にこれ懺悔に非ずと云へるなり。</ref>。ただ{{r|自|じ}}{{r|業|ごふ}}{{r|自|じ}}{{r|得|とく}}の{{r|因果|いんぐわ}}のことはりをしるばかりなり。{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|懺|さん}}{{r|悔|げ}}は{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}{{r|他|た}}{{r|力|りき}}の{{r|懺|さん}}{{r|悔|げ}}なり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|念念|ねん{{ku}}}}{{r|稱名|しようみやう}}{{r|常|じやう}}{{r|懺悔|さんげ}}と{{r|釋|しやく}}せり。{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|心|こころ}}をもて{{r|懺|さん}}{{r|悔|げ}}を{{r|立|たつ}}べからず。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|他|た}}{{r|力|りき}}{{r|稱名|しようみやう}}の{{r|行|ぎやう}}{{r|者|じや}}は、{{r|此|この}}{{r|身|み}}はしばらく{{r|穢土|ゑど}}に{{r|有|あり}}といへども、{{r|心|こころ}}はすでに{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}を{{r|遂|とげ}}て{{r|淨|じやう}}{{r|土|ど}}にあり。{{r|此旨|このむね}}を{{r|面面|めん{{ku}}}}にふかく{{r|信|しん}}ぜらるべしと。}}{{resize|small|云云}}。
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|慈悲|じひ}}に{{r|三種|さんじゆ}}あり。いはく{{r|小|せう}}{{r|悲|ひ}}{{r|中|ちう}}{{r|悲|ひ}}{{r|大|だい}}{{r|悲|ひ}}なり。{{r|大|だい}}{{r|悲|ひ}}といふは{{r|法身|ほつしん}}の{{r|慈悲|じひ}}なり。{{r|今|いま}}の{{r|別|べつ}}{{r|願|ぐわん}}{{r|成|じやう}}{{r|就|じゆ}}の{{r|彌陀|みだ}}は{{r|法身|ほつしん}}の{{r|大|だい}}{{r|悲|ひ}}を{{r|提|ひつさ}}げて{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}を{{r|度|ど}}したまふ。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|眞實|しんじつ}}にしてむなしからざるなり。これを{{r|經|きやう}}には{{r|佛心者|ぶつしんしや}}{{r|大|だい}}{{r|慈悲|じひ}}{{r|是|ぜ}}、{{r|以無|いむ}}{{r|緣|えん}}{{r|慈|じ}}{{r|攝|せつ}}{{r|諸|しよ}}{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}ととけり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}といふ{{r|事|こと}}。{{r|往|わう}}は{{r|理|り}}なり。{{r|生|じやう}}は{{r|智|ち}}なり。{{r|理智|りち}}{{r|契當|けいたう}}するを{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}といふなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|唯信|ゆゐしん}}{{r|罪福|ざいふく}}のものは{{r|佛|ほとけ}}の{{r|五智|ごち}}を{{r|疑|うたが}}ひてみづからが{{r|情|じやう}}をもて{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}を{{r|願|ぐわん}}ずる{{r|故|ゆゑ}}に。{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}はしながら{{r|花合|くわがふ}}の{{r|障|さはり}}あり。{{r|六識|ろくしき}}の{{r|凡|ぼん}}{{r|情|じやう}}をもてたとひ{{r|功|く}}{{r|德|どく}}を{{r|修|しゆ}}し{{r|觀|くわん}}{{r|念|ねん}}を{{r|凝|こら}}すとも、{{r|能緣|のうえん}}の{{r|心|こころ}}{{r|虛|こ}}{{r|妄|まう}}なれば、{{r|所緣|しよえん}}の{{r|淨|じやう}}{{r|土|ど}}も{{r|亦|また}}{{r|實體|じつたい}}なし。{{r|極樂|ごくらく}}は{{r|無我|むが}}{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|土|ど}}なれば、{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|善|ぜん}}をもてはまたく{{r|生|しやう}}ずべからず。{{r|唯|ただ}}{{r|弘|ぐ}}{{r|願|ぐわん}}の{{r|一行|いちぎやう}}をもて{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}を{{r|得|う}}べし。しかれば{{r|凡|ぼん}}{{r|夫|ぶ}}の{{r|意|い}}{{r|樂|げう}}をもては{{r|生|しやう}}ずべからず。{{r|畢|ひつ}}{{r|命|みやう}}{{r|爲期|ゐご}}の{{r|稱名|しようみやう}}の{{r|外|ほか}}に{{r|種種|しゆ{{gu}}}}の{{r|意|い}}{{r|樂|げう}}をもとむるは、{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|佛法|ぶつぽふ}}をしらざる{{r|故|ゆゑ}}に{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}すべからず。}}
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{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|法照|ほつせう}}{{r|禪|ぜん}}{{r|師|じ}}の{{r|云|いはく}}、『{{r|念|ねん}}{{r|卽|そく}}{{r|無|む}}{{r|念|ねん}}{{r|聲|しやう}}{{r|卽|そく}}{{r|無|む}}{{r|聲|しやう}}。』と。されば{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}は{{r|卽|すなはち}}{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}なし。{{r|龍樹|りうじう}}{{r|菩|ぼ}}{{r|薩|さつ}}は{{r|爲|ゐ}}{{r|衆|しゆ}}{{r|說法|せつぽふ}}{{r|無|む}}{{r|名|みやう}}{{r|字|じ}}といへり。{{r|無|む}}{{r|名|みやう}}{{r|字|じ}}とは{{r|是|これ}}{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}なり。{{r|又|また}}{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}は{{r|壽|じゆ}}の{{r|號|がう}}なり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|阿彌陀|あみだ}}の{{r|三|さん}}{{r|字|じ}}を{{r|無|む}}{{r|量|りやう}}{{r|壽|じゆ}}といふなり。{{r|此壽|このじゆ}}は{{r|無|む}}{{r|量|りやう}}{{r|常住|じやうぢう}}の{{r|壽|じゆ}}にして{{r|不|ふ}}{{r|生|しやう}}{{r|不|ふ}}{{r|滅|めつ}}なり。すなはち{{r|一切|いつさい}}{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}の{{r|壽|じゆ}}{{r|命|みやう}}なり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|彌陀|みだ}}を{{r|法界身|ほつかいしん}}といふなり<ref>【彌陀を法界云々】法界の衆生を佛の壽命と爲し給へる佛身なれば法界の身と云ふなり。</ref>。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|無|む}}{{r|量|りやう}}{{r|壽|じゅ}}とは、{{r|一切|いつさい}}{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}の{{r|壽|じゆ}}{{r|不|ふ}}{{r|生|しやう}}{{r|不|ふ}}{{r|滅|めつ}}にして{{r|常|じやう}}{{r|住|ぢう}}なるを{{r|無|む}}{{r|量|りやう}}{{r|壽|じゆ}}といふなり。これ{{r|則|すなはち}}{{r|所讃|しよさん}}の{{r|法|ほふ}}なり。{{r|西方|さいはう}}に{{r|無|む}}{{r|量|りやう}}{{r|壽|じゆ}}{{r|佛|ぶつ}}ありといふは{{r|能讃|のうさん}}の{{r|佛|ほとけ}}なり。{{r|諸佛|しよぶつ}}{{r|同道|どうだう}}の{{r|佛|ほとけ}}なるが{{r|故|ゆゑ}}なり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|皆|みな}}{{r|人|ひと}}の{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}をこころえて{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}すべきやうにおもへり。{{r|甚|はなはだ}}{{r|謂|いは}}れなき{{r|事|こと}}なり。{{r|六識|ろくしき}}{{r|凡|ぼん}}{{r|情|じやう}}をもて{{r|思|し}}{{r|量|りやう}}すべき{{r|法|ほふ}}にはあらず。{{r|但|ただ}}し{{r|領解|りやうげ}}すといふは{{r|領解|りやうげ}}すべき{{r|法|ほふ}}にはあらずと{{r|意|こころ}}{{r|得|う}}るなり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|善導|ぜんだう}}は{{r|三賢|さんげん}}{{r|十聖|じつしやう}}<ref>【三賢十聖】三賢は十信、十行、十廻向。十聖は歡喜地なり。</ref>{{r|弗|ぶつ}}{{r|測|そく}}{{r|所|しよ}}{{r|闚|き}}と{{r|釋|しやく}}したまへり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|十方|じつぱう}}{{r|三|さん}}{{r|世|ぜ}}の{{r|諸佛|しよぶつ}}は{{r|不可思議|ふかしぎ}}{{r|功|く}}{{r|德|どく}}と{{r|讃歎|さんだん}}し、{{r|又|また}}{{r|大經|だいきやう}}には{{r|諸佛|しよぶつ}}{{r|光明|くわうみやう}}{{r|所|しよ}}{{r|不|ふ}}{{r|能及|のふきふ}}と{{r|說|とき}}たまへり。{{r|光明|くわうみやう}}は{{r|智|ち}}{{r|相|さう}}なり。しかれば{{r|諸佛|しよぶつ}}の{{r|源|げん}}{{r|智|ち}}も{{r|及|およば}}ざる{{r|所|ところ}}なり。いかにいはんや{{r|凡|ぼん}}{{r|夫|ぶ}}の{{r|妄|まう}}{{r|智|ち}}{{r|妄識|まうしき}}をもて{{r|思量|しりやう}}すべけんや。{{r|唯|ただ}}{{r|仰|あほい}}で{{r|信|しん}}じ{{r|稱名|しようみやう}}するより{{r|外|ほか}}に{{r|意|い}}{{r|樂|げう}}の{{r|智慧|ちゑ}}を{{r|求|もとむ}}べからず。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|南無|なむ}}とは{{r|十方|じつぱう}}{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}なり。{{r|阿彌陀|あみだ}}とは{{r|法|ほふ}}なり。{{r|佛|ほとけ}}とは{{r|能覺|のうがく}}の{{r|人|ひと}}なり。{{r|六|ろく}}{{r|字|じ}}をしばらく{{r|機|き}}と{{r|法|ほふ}}と{{r|覺|かく}}との{{r|三|さん}}に{{r|開|かい}}して、{{r|終|つひ}}には{{r|三重|さんぢう}}が{{r|一體|いつたい}}となるなり。しかれば{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}の{{r|外|ほか}}に{{r|能|のう}}{{r|歸|き}}の{{r|衆|しゆ}}{{r|生|じやう}}もなく、{{r|所|しよ}}{{r|歸|き}}の{{r|法|ほふ}}もなく、{{r|能覺|のうがく}}の{{r|人|ひと}}もなきなり。{{r|是|これ}}{{r|則|すなはち}}{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}{{r|他|た}}{{r|力|りき}}を{{r|絕|ぜつ}}し<ref>【自力他力を絕し】自他の差別を泯絕して絕對の他力に歸するなり。</ref>、{{r|機|き}}{{r|法|ほふ}}を{{r|絕|ぜつ}}する<ref>【機法を絕す】機法の差別を泯絕して機法一體に成るなり。</ref>{{r|所|ところ}}を{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}といへり。{{r|火|ひ}}は{{r|薪|たきぎ}}を{{r|燒|やく}}にたきぎ{{r|盡|つく}}れば{{r|火|ひ}}{{r|滅|めつ}}するがごとく、{{r|機|き}}{{r|情|じやう}}{{r|盡|つき}}ぬれば{{r|法|ほふ}}も{{r|又|また}}{{r|息|そく}}するなり。しかれば{{r|金剛|こんがう}}{{r|寶戒|ほうかい}}{{r|章|しやう}}と{{r|云|いふ}}{{r|文|もん}}には、{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}の{{r|中|なか}}には{{r|機|き}}もなく{{r|法|ほふ}}もなしといへり。いかにも{{r|機|き}}{{r|法|ほふ}}をたてて{{r|迷|めい}}{{r|悟|ご}}ををかば、{{r|病|びやう}}{{r|藥|やく}}{{r|對|たい}}{{r|治|ぢ}}の{{r|法|ほふ}}にして{{r|眞實|しんじつ}}{{r|至|し}}{{r|極|ごく}}の{{r|法體|ほつたい}}にあらず。{{r|迷|めい}}{{r|悟|ご}}{{r|機|き}}{{r|法|ほふ}}を{{r|絕|ぜつ}}し{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}{{r|他|た}}{{r|力|りき}}のうせたるを{{r|不可思議|ふかしぎ}}の{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}ともいふなり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|南無|なむ}}は{{r|始|し}}{{r|覺|かく}}の{{r|機|き}}、{{r|阿彌陀|あみだ}}{{r|佛|ぶつ}}は{{r|本覺|ほんがく}}の{{r|法|ほふ}}なり。しかれば{{r|始|し}}{{r|本|ほん}}{{r|不二|ふに}}の{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}なり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|一念|いちねん}}も{{r|十念|じふねん}}も{{r|本|ほん}}{{r|願|ぐわん}}にあらず。{{r|善導|ぜんだう}}の{{r|釋|しやく}}ばかりにては{{r|猶|なほ}}{{r|意|こころ}}{{r|得|え}}られず。{{r|文殊|もんじゆ}}の{{r|法照|ほつせう}}に{{r|授|さづけ}}{{r|給|たま}}ひしは、{{r|經|きやう}}に{{r|一念|いちねん}}{{r|十念|じふねん}}の{{r|文|もん}}{{r|有|あり}}といへども、{{r|一念|いちねん}}{{r|十念|じふねん}}の{{r|詞|ことば}}もなく、ただ{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}を{{r|仰|あほぐ}}べしと。{{resize|small|云云}}。{{r|念佛|ねんぶつ}}といふは{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}なり。もとより{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}{{r|卽|そく}}{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}なり。{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}の{{r|所|ところ}}には{{r|一念|いちねん}}{{r|十念|じふねん}}といふ{{r|數|かず}}はなきなり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}は{{r|初|はじめ}}の{{r|一念|いちねん}}なり。{{r|初|はじめ}}の{{r|一念|いちねん}}といふもなほ{{r|機|き}}に{{r|付|つき}}ていふなり。{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}はもとより{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}なり。{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}といふは{{r|無|む}}{{r|生|しやう}}なり。{{r|此法|このほふ}}に{{r|遇|あ}}ふ{{r|所|ところ}}をしばらく{{r|一念|いちねん}}といふなり。{{r|三|さん}}{{r|世|ぜ}}{{r|裁斷|さいだん}}の{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}に{{r|歸|き}}{{r|入|にふ}}しぬれば{{r|無始|むし}}{{r|無|む}}{{r|終|じう}}の{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}なり。{{r|臨終|りんじう}}{{r|平生|へいぜい}}と{{r|分別|ふんべつ}}するも、{{r|妄分|まうぶん}}の{{r|機|き}}に{{r|就|つき}}て{{r|談|だん}}ずる{{r|法門|ほふもん}}なり。{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}には{{r|臨終|りんじふ}}もなく{{r|平生|へいぜい}}もなし。{{r|三|さん}}{{r|世|ぜ}}{{r|常|じやう}}{{r|恆|ごう}}の{{r|法|ほふ}}なり。{{r|出|いづ}}る{{r|息|いき}}いる{{r|息|いき}}をまたざる{{r|故|ゆゑ}}に、{{r|當體|たうたい}}の{{r|一念|いちねん}}を{{r|臨終|りんじう}}とさだむるなり。しかれば{{r|念念|ねん{{ku}}}}{{r|臨終|りんじふ}}なり。{{r|念念|ねん{{ku}}}}{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}なり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|囘|ゑ}}{{r|心|しん}}{{r|念念|ねん{{ku}}}}{{r|生|しやう}}{{r|安樂|あんらく}}と{{r|釋|しやく}}せり。おほよそ{{r|佛法|ぶつぽふ}}は{{r|當體|たうたい}}の{{r|一念|いちねん}}の{{r|外|ほか}}には{{r|談|だん}}ぜざるなり。{{r|三|さん}}{{r|世|ぜ}}すなはち{{r|一念|いちねん}}なり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|有後|うご}}{{r|心|しん}}{{r|無浮|むふ}}{{r|心|しん}}といふことあり。{{r|當體|たうたい}}{{r|一念|いちねん}}の{{r|外|ほか}}に{{r|所|しよ}}{{r|期|ご}}なきを{{r|無後|むご}}{{r|心|しん}}といふ<ref>【當體の一念云々】天臺にて介爾の一念に三千を具足すと談ずるも、華嚴にて心佛及衆生是三無差別と談ずるも、皆當體の一念の上を論ずるなり。</ref>。{{r|所詮|しよせん}}は{{r|待心|たいしん}}<ref>【待心】所期の心なり。</ref>の{{r|區|く}}なるを{{r|失|うしな}}ふべきなり。{{r|此|この}}{{r|風情|ふうじやう}}{{r|日日|にち{{ku}}}}{{r|夜夜|やや}}の{{r|仰|おほせ}}なりき。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|念佛三昧|ねんぶつざんまい}}は{{r|無|む}}{{r|色|しき}}{{r|無形|むぎやう}}{{r|不可|ふか}}{{r|得|とく}}の{{r|法|ほふ}}なり。{{r|功|く}}{{r|能|のう}}なし。{{r|名|みやう}}{{r|號|がう}}も{{r|能成|のうじやう}}の{{r|法|ほふ}}なり。{{r|萬法|まんぼふ}}は{{r|所成|しよじやう}}の{{r|法|ほふ}}なり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|法|ほふ}}もすなはち{{r|三賢|さんげん}}{{r|十|じふ}}{{r|地|ち}}の{{r|萬行|まんぎやう}}の{{r|智慧|ちゑ}}を{{r|熏成|くんじやう}}すと{{r|釋|しやく}}せり。{{r|彌陀|みだ}}の{{r|色相|しきさう}}<ref>【彌陀の色相】如來の色相、光明のこと。</ref>{{r|莊嚴|しやうごん}}のかざり{{r|皆|みな}}もて{{r|萬善|まんぜん}}{{r|圓滿|ゑんまん}}の{{r|形|かたち}}なり。{{r|依正|えしやう}}{{r|二|に}}{{r|報|はう}}<ref>【依正二報】依報は極樂の山河、大地衣服、飮食等のこと。正報は極樂の主たる佛身なり。</ref>は{{r|萬法|まんぼふ}}の{{r|形|かたち}}なり。{{r|來迎|らいかう}}の{{r|佛體|ぶつたい}}も{{r|萬善|まんぜん}}{{r|圓滿|ゑんまん}}の{{r|佛|ほとけ}}なり。{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}する{{r|機|き}}も{{r|亦|また}}{{r|萬善|まんぜん}}なり。{{r|萬善|まんぜん}}の{{r|外|ほか}}に{{r|十方|じつぱう}}{{r|衆生|しゆじやう}}なし。{{r|一|いち}}{{r|座|ざ}}{{r|無移|むい}}{{r|亦|やく}}{{r|不|ふ}}{{r|動|どう}}<ref>【一座無移亦不動】一座とは色相莊嚴の佛なり。無移亦不動とは卽ち彌陀眞實智慧無爲法身にして彼此往來なし。</ref>とは、{{r|念佛三昧|ねんぶつざんまい}}すなはち{{r|彌陀|みだ}}なり。{{r|彼此|ひし}}{{r|往來|わうらい}}なし。{{r|無|む}}{{r|來|らい}}{{r|無去|むこ}}{{r|不可思議|ふかしぎ}}{{r|不可|ふか}}{{r|得|とく}}の{{r|法|ほふ}}なり。いかにも{{r|來迎|らいかう}}の{{r|姿|すがた}}は{{r|萬善|まんぜん}}の{{r|法|ほふ}}なり。{{r|諸行|しよぎやう}}{{r|往生|わうじやう}}と{{r|云|いふ}}も{{r|實|じつ}}なり、{{r|諸行|しよぎやう}}の{{r|外|ほか}}に{{r|機|き}}なし。{{r|往生|わうじやう}}は{{r|機|き}}こそすれ、{{r|諸行|しよぎやう}}を{{r|本願|ほんぐわん}}といふこそ、{{r|無下|むげ}}に{{r|法|ほふ}}の{{r|仔|し}}{{r|細|さい}}をしらずしていふ{{r|事|こと}}にてあれ。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|行者|ぎやうじや}}の{{r|待|まつ}}によりて{{r|佛|ほとけ}}も{{r|來迎|らいかう}}したまふとおもへり<ref>【行者の待に云々】行者の風情を以て待によりて佛の來迎し給ふと思は僻事あり。</ref>。たとひ{{r|待|まち}}えたらんとも、{{r|三界|さんがい}}の{{r|中|なか}}の{{r|事|こと}}なるべし。{{r|稱名|しようみやう}}の{{r|位|くらゐ}}が{{r|卽|すなはち}}まことの{{r|來迎|らいがう}}なり。{{r|稱名|しようみやう}}{{r|卽|そく}}{{r|來迎|らいかう}}と{{r|知|しり}}ぬれば、{{r|決定|けつぢやう}}{{r|來迎|らいかう}}あるべきなれば、{{r|却|かへつ}}て{{r|待|また}}るるなり。およそ{{r|名號|みやうがう}}の{{r|外|ほか}}はみな{{r|幻|げん}}{{r|化|け}}の{{r|法|ほふ}}なるべし。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|一切|いつさい}}の{{r|法|ほふ}}<ref>【一切の法】觀經所說の三福の業を指すなり。</ref>も{{r|眞實|しんじつ}}なるべし。{{r|其故|そのゆゑ}}は{{r|名號|みやうがう}}{{r|所|しよ}}{{r|具|ぐ}}の{{r|萬法|まんぼふ}}と{{r|知|しり}}ぬれば、{{r|皆|みな}}{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|功|く}}{{r|德|どく}}なり<ref>【其故は名號云々】念佛廻向する時自力所修の萬善と名號所具の萬善と一味和して名號所具の萬善となりぬれば皆眞實の功德となるなり。</ref>。これも{{r|功|く}}{{r|德|どく}}の{{r|當體|たうたい}}が{{r|眞實|しんじつ}}なるにもあらず。{{r|名號|みやうがう}}が{{r|成|じやう}}ずれば{{r|眞實|しんじつ}}になるなり<ref>【名號が成ず云々】三福功德の常體は眞實の功德には非れども名號に成ぜられて眞實の功德となれるなり。</ref>。{{r|功|く}}{{r|德|どく}}といふは{{r|出離|しゆつり}}の{{r|要道|えうだう}}にあらず{{r|福業|ふくごふ}}なり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|觀經|くわんぎやう}}には{{r|萬法|まんぼふ}}をつかねて{{r|三福|さんぷく}}の{{r|業|ごふ}}と{{r|說|とけ}}り。{{r|正因|しやういん}}{{r|正行|しやうぎやう}}<ref>【正因正行】三福九品の諸行も念佛囘向すれば、念佛に成ぜられて名號と一味と成りて往生極樂の正因正行といはるるなり。</ref>といふ{{r|時|とき}}は{{r|名號|みやうがう}}と{{r|一|いち}}{{r|味|み}}するなり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|大經|だいきやう}}に{{r|住空|ぢうくう}}{{r|無|む}}{{r|相|さう}}{{r|無願|むぐわん}}{{r|三昧|ざんまい}}と{{r|說|とけ}}り。{{r|此|これ}}{{r|卽|すなはち}}{{r|名號|みやうがう}}なり。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}は{{r|無|む}}{{r|相|さう}}{{r|離|り}}{{r|念|ねん}}の{{r|觀法|くわんぼふ}}もならず。{{r|自|じ}}{{r|性|しやう}}{{r|無|む}}{{r|念|ねん}}<ref>【自性無念】自性淸淨にして本來無念なるを云ふ。</ref>のさとりもならず。{{r|底|てい}}{{r|下|げ}}{{r|愚|ぐ}}{{r|縛|ばく}}の{{r|凡|ぼん}}{{r|夫|ぶ}}なれども、{{r|身心|しんじん}}を{{r|放下|はうげ}}して{{r|唯|ただ}}{{r|本願|ほんぐわん}}をたのみて{{r|一向|いつかう}}に{{r|稱名|しようみやう}}すれば、{{r|是|これ}}{{r|卽|すなはち}}{{r|自|じ}}{{r|性|しやう}}{{r|無|む}}{{r|念|ねん}}の{{r|觀法|くわんぼふ}}なり。{{r|無|む}}{{r|相|さう}}{{r|離|り}}{{r|念|ねん}}の{{r|悟|さとり}}なり。これを{{r|觀經|くわんぎやう}}には{{r|廓然|くわくねん}}{{r|大|だい}}{{r|悟|ご}}、{{r|得無生忍|とくむしやうにん}}と{{r|說|とけ}}り。およそ{{r|名號|みやうがう}}に{{r|歸|き}}しぬれば、{{r|功|く}}{{r|德|どく}}として{{r|不|ふ}}{{r|足|そく}}なし。{{r|是|これ}}を{{r|無上|むじやう}}{{r|功|く}}{{r|德|どく}}ととき、これを{{r|他|た}}{{r|力|りき}}の{{r|行|ぎやう}}といふなり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|罪|ざい}}といひ{{r|功|く}}{{r|德|どく}}といふこと、{{r|凡|ぼん}}{{r|夫|ぶ}}{{r|淺|せん}}{{r|智|ち}}のものまたく{{r|分別|ふんべつ}}すべからず。{{r|空|くう}}{{r|也|や}}の{{r|釋|しやく}}に{{r|云|いはく}}、『{{r|智|ち}}{{r|者|しや}}の{{r|逆罪|ぎやくざい}}は{{r|變|へん}}じて{{r|成佛|じやうぶつ}}の{{r|直道|ぢきだう}}となり、{{r|愚|ぐ}}{{r|者|しや}}の{{r|勤行|ごんぎやう}}はあやまれば{{r|三|さん}}{{r|途|づ}}の{{r|因業|いんごふ}}となる。』と{{resize|small|云云}}。しかれば{{r|愚|ぐ}}{{r|者|しや}}は{{r|功|く}}{{r|德|どく}}とおもへども、{{r|智|ち}}{{r|者|しや}}の{{r|前|まへ}}には{{r|罪|つみ}}なり。{{r|愚|ぐ}}{{r|者|しや}}は{{r|罪|つみ}}とおもへど、{{r|智|ち}}{{r|者|しや}}の{{r|前|まへ}}には{{r|功|く}}{{r|德|どく}}なり。{{r|微微|みみ}}{{r|細細|さいさい}}なり。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|愚痴|ぐち}}の{{r|身|み}}のいかでか{{r|分別|ふんべつ}}すべきや。なに{{r|況|いはん}}や{{r|善惡|ぜんあく}}の{{r|二|に}}{{r|道|だう}}はともに{{r|出離|しゆつり}}の{{r|要道|えうだう}}にあらず。ただ{{r|罪|つみ}}をつくれば{{r|重|ぢう}}{{r|苦|く}}をうけ、{{r|功|く}}{{r|德|どく}}を{{r|作|つく}}れば{{r|善所|ぜんしよ}}に{{r|生|しやう}}ずる{{r|故|ゆゑ}}に、{{r|止|し}}{{r|惡|あく}}{{r|修善|しゆぜん}}ををしゆるばかりなり。しかれば{{r|善導|ぜんだう}}は{{r|罪福|ざいふく}}の{{r|多|た}}{{r|少|せう}}をとはずと{{r|釋|しやく}}したまへり。{{r|所詮|しよせん}}{{r|罪|つみ}}と{{r|功|く}}{{r|德|どく}}の{{r|沙汰|さた}}をせず、なまざかしき{{r|智慧|ちゑ}}を{{r|捨|す}}て、{{r|身命|しんみやう}}をおしまず。{{r|偏|ひとへ}}に{{r|稱名|しようみやう}}するより{{r|外|ほか}}に{{r|餘|よ}}の{{r|沙汰|さた}}{{r|有|ある}}べからず。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|善惡|ぜんあく}}の{{r|二|に}}{{r|道|だう}}は{{r|機|き}}の{{r|品|ほん}}なり。{{r|顚倒|てんだう}}{{r|虛假|こけ}}の{{r|法|ほふ}}なり。{{r|名號|みやうがう}}は{{r|善惡|ぜんあく}}の{{r|二機|にき}}を{{r|攝|せつ}}する{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|法|ほふ}}なり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|有|う}}{{r|心|しん}}も{{r|生死|しやうじ}}の{{r|道|みち}}、{{r|無|む}}{{r|心|しん}}は{{r|涅|ね}}{{r|槃|はん}}の{{r|城|しろ}}なり。{{r|生死|しやうじ}}をはなるるといふも{{r|心|こころ}}をはなるるをいふなり。しかれば{{r|淨土|じやうど}}をば{{r|無|む}}{{r|心|しん}}{{r|領納|りやうのふ}}{{r|自|じ}}{{r|然|ねん}}{{r|知|ち}}ともいひ、{{r|未|み}}{{r|藉|しやく}}{{r|思量|しりやう}}{{r|一念功|いちねんこう}}とも{{r|釋|しやく}}し、{{r|或|あるひ}}は{{r|無有|むう}}{{r|分別心|ふんべつしん}}ともいふなり。{{r|分別|ふんべつ}}の{{r|念想|ねんさう}}おこりしより{{r|生死|しやうじ}}は{{r|有|う}}なり。されば{{r|心|こころ}}は{{r|第一|だいいち}}の{{r|怨|あだ}}なり。{{r|人|ひと}}を{{r|縛|ばく}}して{{r|閻|えん}}{{r|羅|ら}}の{{r|所|ところ}}に{{r|至|いた}}らしむと。{{resize|small|云云}}。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|佛法|ぶつぽふ}}を{{r|修行|しゆぎやう}}するに{{r|近對|ごんたい}}{{r|治|ぢ}}{{r|遠|をん}}{{r|對|たい}}{{r|治|ぢ}}といふことあり。{{r|近對|ごんたい}}{{r|治|ぢ}}といふは、{{r|臨終|りんじう}}{{r|正念|しやうねん}}にして、{{r|妄念|まうねん}}をひるがへし{{r|一心|いつしん}}{{r|不|ふ}}{{r|亂|らん}}なるを{{r|云|いへ}}り。{{r|遠|をん}}{{r|對|たい}}{{r|治|ぢ}}といふは、{{r|道心者|だうしんしや}}はかねて{{r|惡緣|あくえん}}ひとつもなくすつるなり。{{r|臨終|りんじう}}にはじめて{{r|捨|すつ}}ることはかなはず、{{r|平生|へいぜい}}の{{r|作|さ}}{{r|法|ほふ}}が{{r|臨終|りんじう}}に{{r|必|かならず}}{{r|現|げん}}{{r|起|き}}するなり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|善導|ぜんだう}}は『{{r|忽爾|たちまち}}に{{r|無常|むじやう}}の{{r|苦|く}}{{r|來逼|らいひつ}}すれば、{{r|精神|せいしん}}{{r|錯亂|さくらん}}して{{r|始|はじ}}めて{{r|驚忙|きやうまう}}す。{{r|萬|ばん}}{{r|事|じ}}{{r|家|いへ}}に{{r|生|しやう}}ぜば{{r|皆|みな}}{{r|捨|しや}}{{r|離|り}}して、{{r|專心|せんしん}}に{{r|發願|ほつぐわん}}して{{r|西方|さいはう}}に{{r|向|むか}}へ。』と{{r|釋|しやく}}せり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|苦|く}}をいとふといふは、{{r|苦|く}}{{r|樂|らく}}{{r|共|とも}}に{{r|厭捨|えんしや}}するなり。{{r|苦|く}}{{r|樂|らく}}の{{r|中|なか}}には、{{r|苦|く}}はやすくすつれども、{{r|樂|らく}}はえすてぬなり。{{r|樂|らく}}をすつるを{{r|厭|えん}}{{r|苦|く}}の{{r|體|たい}}とす。その{{r|所以|ゆゑ}}は{{r|樂|らく}}の{{r|外|ほか}}に{{r|苦|く}}はなきなり。しかれば、{{r|善導|ぜんだう}}は、{{r|是|こ}}れ{{r|樂|らく}}と{{r|言|い}}ふと{{r|雖|いへど}}も{{r|然|しか}}も{{r|是|こ}}れ{{r|大|だい}}{{r|苦|く}}なり。{{r|必畢|ひつきやう}}じて{{r|一念|いちねん}}{{r|眞實|しんじつ}}の{{r|樂|らく}}{{r|有|あ}}ること{{r|無|な}}し、と{{r|釋|しやく}}せり。{{r|或|あるひ}}は、{{r|總|そう}}じて{{r|勸|すす}}む{{r|此人天|このにんでん}}の{{r|樂|らく}}を{{r|厭|いと}}ふことを、と{{r|釋|しやく}}せり。されば{{r|樂|らく}}の{{r|外|ほか}}に{{r|苦|く}}はなき{{r|故|ゆゑ}}に、{{r|樂|らく}}をいとふを{{r|厭|えん}}{{r|苦|く}}といふなり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|三界|さんがい}}は{{r|有爲|うゐ}}{{r|無常|むじやう}}の{{r|境|きやう}}なるが{{r|故|ゆゑ}}に、{{r|一切|いつさい}}{{r|不定|ふぢやう}}なり。{{r|幻|げん}}{{r|化|け}}なり。{{r|此界|このかい}}の{{r|中|なか}}に{{r|常住|じやうぢう}}ならんとおもひ、{{r|心|こころ}}やすからんと{{r|思|おも}}はんは、たとへば{{r|漫漫|まん{{ku}}}}たる{{r|波|なみ}}のうへに、{{r|船|ふね}}をゆるかつてをかむとおもへるがごとし。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|一念|いちねん}}{{r|彌陀|みだ}}{{r|佛|ぶつ}}{{r|卽滅|そくめつ}}{{r|無量|むりやう}}{{r|罪現受|ざいげんじゆ}}{{r|無比|むひ}}{{r|樂|らく}}{{r|後生|ごしやう}}{{r|淸淨土|しやうじやうど}}といふ{{r|事|こと}}。{{r|無比|むひ}}の{{r|樂|らく}}を{{r|世|よ}}の{{r|人|ひと}}の{{r|世|せ}}{{r|間|けん}}の{{r|樂|らく}}なりとおもへるはしからず。これ{{r|無|む}}{{r|貪|とん}}の{{r|樂|らく}}なり。{{r|其故|そのゆゑ}}は{{r|決定|けつぢやう}}{{r|往生|わうじやう}}の{{r|機|き}}と{{r|成|なり}}ぬれば、{{r|三界|さんがい}}{{r|六道|ろくだう}}の{{r|中|なか}}にはうらやましき{{r|事|こと}}もなく、{{r|貪|とん}}すべき{{r|事|こと}}もなく、{{r|生生|しやう{{gu}}}}{{r|世世|せせ}}{{r|流|る}}{{r|轉|てん}}{{r|生死|しやうじ}}の{{r|間|あひだ}}に{{r|皆|みな}}{{r|受|うけ}}てすぎ{{r|來|きた}}れり。{{r|然|しか}}れば{{r|一切|いつさい}}{{r|無著|むぢやく}}なるを{{r|無比|むひ}}{{r|樂|らく}}といふなり。{{r|世|せ}}{{r|間|けん}}の{{r|樂|らく}}はみな{{r|苦|く}}なれば、いかでか{{r|佛|ぶつ}}{{r|祖|そ}}の{{r|心|こころ}}{{r|愚|ぐ}}にして{{r|無比|むひ}}の{{r|樂|らく}}とは{{r|曰|い}}ふべきや。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|心|しん}}{{r|外|げ}}に{{r|境|きやう}}を{{r|置|おき}}て{{r|罪|つみ}}をやめ{{r|善|ぜん}}を{{r|修|しゆ}}する{{r|面|めん}}にては、たとひ{{r|蓙|ざ}}{{r|劫|ごふ}}をふるとも{{r|生死|しやうじ}}をば{{r|離|はな}}るべからず。いづれの{{r|敎|けう}}にも{{r|能所|のうじよ}}の{{r|絕|ぜつ}}する{{r|位|くらゐ}}に{{r|入|いり}}て{{r|生死|しやうじ}}を{{r|解|げ}}{{r|脱|だつ}}するなり。{{r|今|いま}}の{{r|名號|みやうがう}}は{{r|能所體|のうじよたい}}の{{r|法|ほふ}}なり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|生|うまれ}}ながら{{r|死|し}}して{{r|靜|しづか}}に{{r|來迎|らいかう}}を{{r|待|まつ}}べしと。{{resize|small|云云}}。{{r|萬|ばん}}{{r|事|じ}}にいろはず{{r|一切|いつさい}}を{{r|捨|しや}}{{r|離|り}}して{{r|孤|こ}}{{r|獨|どく}}{{r|獨一|どくいち}}なるを{{r|死|し}}するとはいふなり。{{r|生|しやう}}ぜしもひとりなり。{{r|死|し}}するも{{r|獨|ひとり}}なり。されば{{r|人|ひと}}と{{r|共|とも}}に{{r|住|ぢう}}するも{{r|獨|ひとり}}なり。そひはつべき{{r|人|ひと}}なき{{r|故|ゆゑ}}なり。{{r|又|また}}わがなくして{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|申|まをす}}が{{r|死|し}}するにてあるなり。わが{{r|計|はから}}ひをもて{{r|往生|わうじやう}}を{{r|疑|うたが}}ふは、{{r|總|そう}}じてあたらぬ{{r|事|こと}}なり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|念佛|ねんぶつ}}の{{r|下地|げぢ}}をつくる{{r|事|こと}}なかれ。{{r|總|そう}}じて{{r|行|ぎやう}}ずる{{r|風情|ふじやう}}も{{r|往生|わうじやう}}せず。ただ{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}が{{r|往生|わうじやう}}するなり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|聞名|もんみやう}}{{r|欲|よく}}{{r|往|わう}}{{r|生|じやう}}といふこと。{{r|人|ひと}}のよ{{r|所|そ}}に{{r|念佛|ねんぶつ}}するをきけば、わが{{r|心|こころ}}に{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}とうかぶを{{r|聞名|もんみやう}}といふなり。しかれば{{r|名號|みやうがう}}が{{r|名號|みやうがう}}を{{r|聞|きく}}なり<ref>【名號が名號を云々】機法一體になりぬれば能聞の機も南無阿彌陀佛、所聞の法も南無阿彌陀佛なれば名號が名號を聞くなり。</ref>。{{r|名號|みやうがう}}の{{r|外|ほか}}に{{r|聞|きく}}べきやうのあるにあらず。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|我|われ}}みづから{{r|念佛|ねんぶつ}}すれども{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}ならぬ{{r|事|こと}}あり。{{r|我體|わがたい}}の{{r|念|ねん}}を{{r|本|もと}}として{{r|念佛|ねんぶつ}}するは、これ{{r|妄念|まうねん}}を{{r|念佛|ねんぶつ}}とおもへばなり。{{r|又|また}}{{r|口|くち}}に{{r|名號|みやうがう}}をとなふれども、{{r|心|こころ}}に{{r|本念|ほんねん}}あれば、いかにも{{r|本念|ほんねん}}こそ{{r|臨終|りんじう}}にはあらはるれ、{{r|念佛|ねんぶつ}}は{{r|失|しつ}}するなり。{{r|然|しか}}れば{{r|心|こころ}}に{{r|妄念|まうねん}}をおこすべからず。さればとて{{r|一向|いつかう}}に{{r|餘|よ}}{{r|念|ねん}}なかれといふにはあらず。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|從|じう}}{{r|是|ぜ}}{{r|西方|さいはう}}{{r|過十萬億|くわじふまんおく}}{{r|佛|ぶつ}}{{r|土|ど}}といふ{{r|事|こと}}。{{r|實|じつ}}に{{r|十萬億|じふまんおく}}の{{r|里|り}}{{r|數|すう}}を{{r|過|すぐ}}るにはあらず。{{r|衆生|しゆじやう}}の{{r|妄執|まうしふ}}のへだてをさすなり。{{r|善導|ぜんだう}}の{{r|釋|しやく}}に、{{r|竹膜|ちくまく}}を{{r|隔|へだ}}つるに、{{r|卽|すなは}}ち{{r|之|これ}}を{{r|千|せん}}{{r|里|り}}に{{r|踰|こ}}ゆとおもへり、といへり。ただ{{r|妄執|まうしふ}}に{{r|約|やく}}して{{r|過十萬億|くわじふまんおく}}と{{r|云|いふ}}。{{r|實|じつ}}には{{r|里|り}}{{r|數|すう}}を{{r|過|すぐ}}る{{r|事|こと}}なし。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|經|きやう}}には{{r|阿彌陀|あみだ}}{{r|佛|ぶつ}}{{r|去此|こし}}{{r|不|ふ}}{{r|遠|をん}}と{{r|說|とけ}}り。{{r|衆生|しゆじやう}}の{{r|心|こころ}}をさらずといふ{{r|意|い}}なり。{{r|凡|およそ}}{{r|大乘|だいじよう}}の{{r|佛法|ぶつぽふ}}は{{r|心|こころ}}の{{r|外|ほか}}に{{r|別|べつ}}の{{r|法|ほふ}}なし。ただし{{r|聖道|しやうだう}}は{{r|萬法|まんぼふ}}{{r|一心|いつしん}}とならひ、{{r|淨土|じやうど}}は{{r|萬法|まんぼふ}}{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}と{{r|成|じやう}}ずるなり。{{r|萬法|まんぼふ}}も{{r|無始|むし}}{{r|本|ほん}}{{r|有|う}}の{{r|心德|しんとく}}なり。しかるに{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|妄法|まうぼふ}}におほはれて{{r|其體|そのたい}}あらはれがたし。{{r|今|いま}}{{r|彼|か}}の{{r|一切|いつさい}}{{r|衆生|しゆじやう}}の{{r|心德|しんとく}}を{{r|願力|ぐわんりき}}をもて{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}と{{r|成|じやう}}ずる{{r|時|とき}}{{r|衆生|しゆじやう}}の{{r|心德|しんとく}}は{{r|開|ひら}}くるなり。されば{{r|卽|すなは}}ち{{r|心|こころ}}の{{r|本分|ほんぶん}}なり。{{r|是|これ}}を{{r|去此|こし}}{{r|不|ふ}}{{r|遠|をん}}ともいひ、{{r|莫|まく}}{{r|謂|ゐ}}{{r|西方|さいはう}}{{r|遠唯須|をんゆゐしゆ}}{{r|十念心|じふねんしん}}ともいふなり。
{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、まよひも{{r|一念|いちねん}}なり。さとりも{{r|一念|いちねん}}なり。{{r|法性|ほつしやう}}の{{r|都|みやこ}}をまよひ{{r|出|いで}}しも{{r|一心|いつしん}}の{{r|妄心|まうじん}}なれば、まよひを{{r|飜|ほん}}ずも{{r|又|また}}{{r|一念|いちねん}}なり。{{r|然|しか}}れば{{r|一念|いちねん}}に{{r|往生|わうじやう}}せずば{{r|無量|むりやう}}の{{r|念|ねん}}にも{{r|往生|わうじやう}}すべからず。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|一聲|いつしやう}}{{r|稱念|しようねん}}{{r|罪皆除|ざいかいぢよ}}ともいひ、{{r|一念|いちねん}}{{r|稱得|しようとく}}{{r|彌陀|みだ}}{{r|號|がう}}{{r|至彼|しひ}}{{r|還同法性身|げんどうほつしやうしん}}とも{{r|釋|しやく}}するなり。ただ{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}がすなはち{{r|生死|しやうじ}}を{{r|離|はな}}れたるものを、これをとなへながら{{r|往生|わうじやう}}せばや{{ku}}とおもひ{{r|居|ゐ}}たるは、{{r|飯|めし}}をくひ{{ku}}、ひだるさやむる{{r|藥|くすり}}やあるとおもへるがごとしと。これ{{r|常|つね}}の{{r|御|お}}{{r|詞|ことば}}なり。
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、およそ{{r|一念|いちねん}}{{r|無上|むじやう}}の{{r|名號|みやうがう}}にあひぬる{{r|上|うへ}}は、{{r|明日|みやうにち}}までも{{r|生|いき}}て{{r|要|えう}}{{r|事|じ}}なく、すなはちとく{{r|死|し}}なんこそ{{r|本意|ほい}}なれ。{{r|然|しか}}るに{{r|娑|しや}}{{r|婆|ば}}{{r|世|せ}}{{r|界|かい}}に{{r|生|いき}}て{{r|居|ゐ}}て、{{r|念佛|ねんぶつ}}をばおほく{{r|申|まを}}さん。{{r|死|し}}の{{r|事|こと}}には{{r|死|し}}なしと{{r|思|おも}}ふ{{r|故|ゆゑ}}に、{{r|多|た}}{{r|念|ねん}}の{{r|念佛者|ねんぶつしや}}も{{r|臨終|りんじう}}をし{{r|損|そん}}ずるなり。{{r|佛法|ぶつぽふ}}には{{r|身命|しんみやう}}を{{r|捨|すて}}ずして{{r|證利|しようり}}<ref>【證利】證驗利益のこと。</ref>を{{r|得|う}}る{{r|事|こと}}なし。{{r|佛法|ぶつぽふ}}にはあたひなし。{{r|身命|しんみやう}}を{{r|捨|すつ}}るが{{r|是|これ}}あたひなり。{{r|是|これ}}を{{r|歸命|きみやう}}と{{r|云|いふ}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|衣|え}}{{r|食住|じきぢう}}の{{r|三|さん}}は{{r|三惡道|さんあくだう}}なり。{{r|衣裳|いしやう}}を求めざるは{{r|畜生道|ちくしやうだう}}の{{r|業|ごふ}}なり。{{r|食物|じきもつ}}をむさぼりもとむるは{{r|餓鬼|がき}}{{r|道|だう}}の{{r|業|ごふ}}なり。{{r|住所|ぢうしよ}}をかまふるは{{r|地|ぢ}}{{r|獄道|ごくだう}}の{{r|業|ごふ}}なり。しかれば{{r|三惡道|さんあくだう}}をはなるべきなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|信|しん}}といふはまかすとよむなり。{{r|他|た}}の{{r|意|い}}にまかする{{r|故|ゆゑ}}に{{r|人|ひと}}の{{r|言|ことば}}と{{r|書|かけ}}り。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}は{{r|卽|すなはち}}{{r|法|ほふ}}にまかすべきなり。しかれば{{r|衣|え}}{{r|食住|じきぢう}}の{{r|三|さん}}をわれと{{r|求|もとむ}}る{{r|事|こと}}なかれ。{{r|天運|てんうん}}にまかすべきなり。{{r|空|くう}}{{r|也|や}}{{r|上人|しやうにん}}の{{r|云|いはく}}、『{{r|三業|さんごふ}}<ref>【三業】身、口、意のこと。</ref>を{{r|天運|てんうん}}に{{r|任|まか}}せ、{{r|四儀|しぎ}}<ref>【四儀】行、住、坐、臥のこと。</ref>を{{r|菩|ぼ}}{{r|提|だい}}に{{r|讓|ゆづ}}る。』と。{{resize|small|云云}}。{{r|是|これ}}{{r|則|すなはち}}{{r|他|た}}{{r|力|りき}}に{{r|歸|き}}したる{{r|色|いろ}}なり。{{r|古|こ}}{{r|湛|たん}}{{r|禪|ぜん}}{{r|師|じ}}の{{r|云|いはく}}、『{{r|煩|わづらは}}しく{{r|破|は}}を{{r|轉|てん}}ずること{{r|勿|なか}}れ、{{r|只|ただ}}{{r|天然|てんねん}}に{{r|任|まか}}せよ。』といへり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|本來|ほんらい}}{{r|無|む}}{{r|一物|いちもつ}}なれば、{{r|諸|しよ}}{{r|事|じ}}において{{r|實|じつ}}{{r|有|う}}{{r|我|が}}{{r|物|もつ}}のおもひをなすべからず。{{r|一切|いつさい}}を{{r|捨|しや}}{{r|離|り}}すべしと。{{resize|small|云云}}。これ{{r|常|つね}}の{{r|仰|おほせ}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|臨終|りんじう}}{{r|念佛|ねんぶつ}}の{{r|事|こと}}。{{r|皆|みな}}{{r|人|ひと}}の{{r|死苦|しく}}{{r|病苦|びやうく}}に{{r|責|せめ}}られて、{{r|臨終|りんじう}}に{{r|念佛|ねんぶつ}}せでやあらむずらむとおもへるは、{{r|是|これ}}いはれなき{{r|事|こと}}なり。{{r|念佛|ねんぶつ}}をわが{{r|申|まをし}}がほに、かねて{{r|臨終|りんじう}}を{{r|疑|うたが}}ふなり。{{r|旣|すで}}に{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|申|まをす}}も{{r|佛|ほとけ}}の{{r|護|ご}}{{r|念力|ねんりき}}なり。{{r|臨終|りんじう}}{{r|正念|しやうねん}}なるも{{r|佛|ほとけ}}の{{r|加|か}}{{r|祐力|ゆうりき}}なり。{{r|往生|わうじやう}}においては{{r|一切|いつさい}}の{{r|功|く}}{{r|能|のう}}{{r|皆|みな}}もて{{r|佛力|ぶつりき}}{{r|法力|ほふりき}}なり。ただ{{r|今|いま}}の{{r|念佛|ねんぶつ}}の{{r|外|ほか}}に{{r|臨終|りんじう}}の{{r|念佛|ねんぶつ}}なし。{{r|臨終|りんじう}}{{r|卽|そく}}{{r|平生|へいぜい}}となり。{{r|前念|ぜんねん}}は{{r|平生|へいぜい}}となり、{{r|後|ご}}{{r|念|ねん}}は{{r|臨終|りんじう}}と{{r|取|とる}}なり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|恆願|ごうぐわん}}{{r|一切|いつさい}}{{r|臨終|りんじう}}{{r|時|じ}}と{{r|云|いふ}}なり。{{r|只今|ただいま}}{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|申|まを}}されぬ{{r|者|もの}}が{{r|臨終|りんじう}}にはえ{{r|申|まを}}さぬなり。{{r|遠|とほ}}く{{r|臨終|りんじう}}の{{r|沙汰|さた}}をせずして{{r|能|よ}}く{{r|恆|つね}}に{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|申|まをす}}べきなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|名號|みやうがう}}には{{r|領|りやう}}せらるとも、{{r|名號|みやうがう}}を{{r|領|りやう}}すべからず。およそ{{r|萬法|まんぼふ}}は{{r|一心|いつしん}}なりといへども、みづからその{{r|體性|たいしやう}}をあらはさず。{{r|我|わが}}{{r|目|め}}をもてわが{{r|目|め}}を{{r|見|み}}る{{r|事|こと}}を{{r|得|え}}ず。{{r|又|また}}{{r|木|き}}に{{r|火|ひ}}の{{r|性|しやう}}{{r|有|あり}}といへども{{r|其|その}}{{r|火|ひ}}その{{r|木|き}}をやく{{r|事|こと}}をえざるがごとし。{{r|鏡|かがみ}}をよすれば{{r|我|わが}}{{r|目|め}}をもて{{r|我|わが}}{{r|目|め}}を{{r|見|み}}る。これ{{r|鏡|かがみ}}のちからなり。{{r|鏡|かがみ}}といふは{{r|衆生|しゆじやう}}{{r|本|ほん}}{{r|有|う}}の{{r|大圓|だいゑん}}{{r|鏡|きやう}}{{r|智|ち}}の{{r|鏡|かがみ}}、{{r|諸佛|しよぶつ}}{{r|已|い}}{{r|證|しよう}}の{{r|名號|みやうがう}}なり、しかれば{{r|名號|みやうがう}}の{{r|鏡|かがみ}}をもて{{r|本來|ほんらい}}の{{r|面目|めんもく}}を{{r|見|み}}るべし。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|觀經|くわんぎやう}}には{{r|如執|によしふ}}{{r|明鏡|みやうきやう}}{{r|自|じ}}{{r|見|けん}}{{r|面像|めんざう}}と{{r|說|と}}けり。{{r|又|また}}{{r|別|べつ}}の{{r|火|ひ}}をもて{{r|木|き}}をやけば{{r|則|すなはち}}やけぬ。{{r|今|いま}}の{{r|火|ひ}}と{{r|木中|もくちう}}の{{r|火|ひ}}と{{r|別體|べつたい}}の{{r|火|ひ}}にはあらず。{{r|然|しか}}れば{{r|萬法|まんぼふ}}{{r|豐|ゆた}}かならず{{r|因緣|いんえん}}{{r|和|わ}}{{r|合|がふ}}して{{r|成|じやう}}ずるなり。{{r|其|その}}{{r|身|み}}に{{r|佛性|ぶつしやう}}の{{r|火|ひ}}{{r|有|あり}}といへども、われと{{r|煩惱|ぼんなう}}の{{r|薪|たきぎ}}を{{r|燒滅|せうめつ}}する{{r|事|こと}}なし。{{r|名號|みやうがう}}の{{r|智火|ちひ}}のちからをもて{{r|燒滅|せうめつ}}すべきなり。{{r|淨土|じやうど}}{{r|門|もん}}に{{r|機|き}}を{{r|離|はな}}れて{{r|機|き}}を{{r|攝|せつ}}するといふ{{r|名目|みやうもく}}あり。{{r|是|これ}}をこころえ{{r|合|あは}}すべきなり。}}
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{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|法|ほつ}}{{r|華|け}}と{{r|名號|みやうがう}}と{{r|一體|いつたい}}なり。{{r|法|ほつ}}{{r|華|け}}は{{r|色法|しきほふ}}。{{r|名號|みやうがう}}は{{r|心法|しんぼふ}}なり。{{r|色心|しきしん}}{{r|不二|ふに}}なれば、{{r|法|ほつ}}{{r|華|け}}すなはち{{r|名號|みやうがう}}なり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|觀經|くわんぎやう}}には{{r|若|もし}}{{r|念佛者|ねんぶつしや}}、{{r|是|ぜ}}{{r|人中|にんちう}}{{r|芬|ふん}}{{r|陀利華|だりけ}}ととく。{{r|芬|ふん}}{{r|陀利華|だりけ}}とは{{r|蓮|れん}}{{r|花|げ}}なり。さて{{r|法|ほつ}}{{r|華|け}}をば{{r|薩|さつ}}{{r|達摩|たま}}{{r|芬|ふん}}{{r|陀利|だり}}{{r|經|きやう}}といへりと。}}{{resize|small|云云}}。
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|或人|あるひと}}{{r|問|とう}}て{{r|云|いはく}}、『{{r|諸行|しよぎやう}}は{{r|往生|わうじやう}}すべきやいなや、{{r|亦|また}}{{r|法|ほつ}}{{r|華|け}}と{{r|名號|みやうがう}}といづれか{{r|勝|すぐ}}れて{{r|候|さふらふ}}。』と。{{resize|small|云云}}。{{r|上人|しやうにん}}{{r|答|こたへ}}て{{r|云|いはく}}、『{{r|諸行|しよぎやう}}も{{r|往生|わうじやう}}せばせよ、せずはせず。{{r|又|また}}{{r|名號|みやうがう}}は{{r|法|ほつ}}{{r|華|け}}にをとらばをとれまさらばまされ。なまざかしからで{{r|物|もの}}いろひを{{r|停止|ちやうじ}}して、{{r|一向|いつかう}}に{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|申|まをす}}ものを{{r|善導|ぜんだう}}は{{r|人中|にんちう}}の{{r|上上|じやう{{ku}}}}{{r|人|にん}}と{{r|譽|ほめ}}たまへり。{{r|法|ほつ}}{{r|華|け}}を{{r|出世|しゆつせ}}の{{r|本懷|ほんくわい}}<ref>【法華を出世の本懷】法華經方便品に、諸佛世尊は唯一大事因緣を以ての故に世に出現すと。一大事因緣とは諸法實相の一理法性を指すなり。</ref>といふも{{r|經文|きやうもん}}なり。{{r|又|また}}{{r|釋|しや}}{{r|迦|か}}の{{r|五濁|ごぢよく}}{{r|惡|あく}}{{r|世|せ}}に{{r|出世|しゆつせ}}{{r|成道|じやうだう}}するはこの{{r|難信|なんしん}}の{{r|法|ほふ}}を{{r|說|とか}}むが{{r|爲|ため}}なりといふも{{r|經文|きやうもん}}なり、{{r|機|き}}に{{r|隨|したがつ}}て{{r|益|やく}}あらば、いづれも{{r|皆|みな}}{{r|勝法|しようぼふ}}なり。{{r|本懷|ほんくわい}}なり、{{r|益|やく}}なければいづれも{{r|劣法|れつぽふ}}なり、{{r|佛|ほとけ}}の{{r|本|ほん}}{{r|意|い}}にあらず。{{r|餘經|よきやう}}{{r|餘|よ}}{{r|宗|しう}}があればこそ{{r|此|この}}{{r|尋|たづね}}は{{r|出來|いできた}}れ。{{r|三寶滅盡|さんぼうめつじん}}<ref>【三寶滅盡】禮讃に、萬年に三寶滅し此經住すること百年、爾の時一念を聞かば皆彼に生ずることを得と云ふ文に依れり。三寶とは佛寶、法寶、僧寶なり。</ref>のときはいづれの{{r|敎|けう}}とか{{r|對論|たいろん}}すべき。{{r|念佛|ねんぶつ}}の{{r|外|ほか}}には{{r|物|もの}}もしらぬ、{{r|法滅|ほふめつ}}{{r|百歲|ひやくさい}}の{{r|機|き}}になりて{{r|一向|いつかう}}に{{r|念佛|ねんぶつ}}すべし。これ{{r|無|む}}{{r|道心|だうしん}}の{{r|尋|じん}}なり。』}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|或人|あるひと}}{{r|淨土|じやうど}}{{r|門|もん}}の{{r|流流|るる}}の{{r|異義|いぎ}}を{{r|尋申|たづねまをし}}て、いづれにか{{r|付候|つけさふらふ}}べきと。{{resize|small|云云}}。{{r|上人|しやうにん}}{{r|答|こたへて}}{{r|云|いはく}}、『{{r|異義|いぎ}}のまちまちなる{{r|事|こと}}は{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}の{{r|前|まへ}}の{{r|事|こと}}なり。{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}の{{r|名號|みやうがう}}には{{r|義|ぎ}}なし。{{r|若|もし}}{{r|義|ぎ}}によりて{{r|往生|わうじやう}}する{{r|事|こと}}ならば{{r|尤|もつとも}}{{r|此|この}}{{r|尋|たづね}}は{{r|有|ある}}べし。{{r|往生|わうじやう}}はまたく{{r|義|ぎ}}によらず{{r|名號|みやうがう}}によるなり。{{r|法|ほつ}}{{r|師|し}}が{{r|勸|すすむ}}る{{r|名號|みやうがう}}を{{r|信|しん}}じたるは{{r|往生|わうじやう}}せじと{{r|心|こころ}}にはおもふとも、{{r|念佛|ねんぶつ}}だに{{r|申|まを}}さば{{r|往生|わうじやう}}すべし。いかなるゑせ{{r|義|ぎ}}を{{r|口|くち}}にいふとも、{{r|心|こころ}}におもふとも、{{r|名號|みやうがう}}は{{r|義|ぎ}}によらず{{r|心|こころ}}によらざる{{r|法|ほふ}}なれば、{{r|稱|しよう}}すればかならず{{r|往生|わうじやう}}するぞと{{r|信|しん}}じたるなり。たとへば{{r|火|ひ}}を{{r|物|もの}}につけんに、{{r|心|こころ}}にはなやきそ<ref>【なやきそ】燒く勿れの意。</ref>とおもひ、{{r|口|くち}}になやきそといふとも、{{r|此|この}}{{r|詞|ことば}}にもよらず{{r|念力|ねんりき}}にもよらず。ただ{{r|火者|くわしや}}をのれなりの{{r|德|とく}}として{{r|物|もの}}をやくなり。{{r|水|みづ}}の{{r|物|もの}}をぬらすもおなじ{{r|事|こと}}なり。さのごとく{{r|名號|みやうがう}}もをのれなりと{{r|往生|わうじやう}}の{{r|功|く}}{{r|德|どく}}をもちたれば、{{r|義|ぎ}}にもよらず{{r|心|こころ}}にもよらず{{r|詞|ことば}}にもよらずとなふれば{{r|往生|わうじやう}}するを、{{r|他|た}}{{r|力|りき}}{{r|不思議|ふしぎ}}の{{r|行|ぎやう}}と{{r|信|しん}}ずるなり。』}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|熊|くま}}{{r|野|の}}の{{r|本|ほん}}{{r|地|ぢ}}は{{r|彌陀|みだ}}なり。{{r|和光|わくわう}}{{r|同塵|どうぢん}}して{{r|念佛|ねんぶつ}}をすすめたまはんが{{r|爲|ため}}に{{r|神|かみ}}と{{r|現|げん}}じたまふなり。{{r|故|ゆゑ}}に{{r|證誠|しようじやう}}{{r|殿|でん}}と{{r|名|な}}づけたり。{{r|是|これ}}{{r|念佛|ねんぶつ}}を{{r|證誠|しようじやう}}したまふ{{r|故|ゆゑ}}なり。{{r|阿彌陀|あみだ}}{{r|經|きやう}}に{{r|西方|さいはう}}に{{r|無量壽|むりやうじゆ}}{{r|佛|ぶつ}}ましますといふは、{{r|能|のう}}{{r|證誠|しようじやう}}の{{r|彌陀|みだ}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|我法門|わがほふもん}}は{{r|熊|くま}}{{r|野|の}}{{r|權現|ごんげん}}{{r|夢|む}}{{r|想|さう}}の{{r|口|く}}{{r|傳|でん}}なり。{{r|年來|ねんらい}}{{r|淨土|じやうど}}の{{r|法門|ほふもん}}を{{r|十|じふ}}{{r|二|に}}{{r|年|ねん}}まで{{r|學|がく}}せしに<ref>【年來淨土云々】上人十四歲建長四年より弘長三年までの十二年間筑紫大宰府聖達上人に從つて淨敎を稟學し給へり。</ref>、すべて{{r|意|い}}{{r|樂|げう}}をならひうしなはず。しかるを{{r|熊|くま}}{{r|野|の}}{{r|參籠|さんろう}}の{{r|時|とき}}{{r|御|ご}}{{r|示|じ}}{{r|現|げん}}にいはく、{{r|心品|しんぼん}}のさはくり{{r|有|ある}}べからず。{{r|此|この}}{{r|心|こころ}}はよき{{r|時|とき}}もあしき{{r|時|とき}}も{{r|迷|まよひ}}なる{{r|故|ゆゑ}}に、{{r|出離|しゆつり}}の{{r|要|えう}}とはならず。{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}が{{r|往生|わうじやう}}するなりと。{{resize|small|云云}}。{{r|我|われ}}{{r|此時|このとき}}より{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}の{{r|意|い}}{{r|樂|げう}}をば{{r|捨果|すてはて}}たり。{{r|是|これ}}よりして{{r|善導|ぜんだう}}の{{r|御|おん}}{{r|釋|しやく}}を{{r|見|み}}るに、{{r|一文|いちもん}}{{r|一|いつ}}{{r|句|く}}も{{r|法|ほふ}}の{{r|功|く}}{{r|能|のう}}<ref>【法の功能】念佛の名義功德なり。</ref>ならずと{{r|云事|いふこと}}なし。{{r|玄|げん}}{{r|義|ぎ}}のはじめ{{r|先勸|せんくわん}}{{r|大衆|だいしゆ}}{{r|發願|ほつぐわん}}{{r|歸|き}}{{r|三寶|さんぽう}}<ref>【先勸大衆云云】發願歸は南無なり、三寶は阿彌陀の名義功德なり。</ref>といへるは{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}なり。これよりをはりに{{r|至|いたる}}まで、{{r|文文|もん{{ku}}}}{{r|句句|くく}}みな{{r|名號|みやうがう}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|一代|いちだい}}{{r|聖敎|しやうげう}}の{{r|所詮|しよせん}}はただ{{r|名號|みやうがう}}なり。{{r|其故|そのゆゑ}}は{{r|天臺|てんだい}}には{{r|諸敎|しよけう}}{{r|所讃|しよさん}}{{r|多|た}}{{r|在|ざい}}{{r|彌陀|みだ}}と{{r|云|いひ}}、{{r|善導|ぜんだう}}は{{r|是故|ぜこ}}{{r|諸經|しよきやう}}{{r|中|ちう}}{{r|廣|くわう}}{{r|讃|さん}}{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|功|く}}{{r|能|のう}}と{{r|釋|しやく}}し、{{r|觀經|くわんぎやう}}には{{r|持是語|ぢぜご}}{{r|者|しや}}{{r|卽|そく}}{{r|是持|ぜぢ}}{{r|無量壽|むりやうじゆ}}{{r|佛|ぶつ}}{{r|名|みやう}}と{{r|阿|あ}}{{r|難|なん}}に{{r|附|ふ}}{{r|屬|ぞく}}<ref>【附屬】流通附屬の意。</ref>し、{{r|阿彌陀|あみだ}}{{r|經|きやう}}には{{r|難信|なんしん}}{{r|之|し}}{{r|法|ほふ}}と{{r|舍|しや}}{{r|利|り}}{{r|弗|ほつ}}に{{r|附|ふ}}{{r|屬|ぞく}}し、{{r|大經|だいきやう}}には{{r|一念|いちねん}}{{r|無上|むじやう}}{{r|功|く}}{{r|德|どく}}と{{r|彌|み}}{{r|勒|ろく}}に{{r|附|ふ}}{{r|屬|ぞく}}せり。{{r|三經|さんきやう}}ならびに{{r|一代|いちだい}}の{{r|所詮|しよせん}}ただ{{r|念佛|ねんぶつ}}にあり。{{r|聖敎|しやうげう}}といふは{{r|此|この}}{{r|念佛|ねんぶつ}}を{{r|敎|をしへ}}たるなり。かくのごとくしりなば、{{r|萬|ばん}}{{r|事|じ}}をすてて{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|申|まをす}}べき{{r|所|ところ}}に、{{r|或|あるひ}}は{{r|學問|がくもん}}にいとまをいれて{{r|念佛|ねんぶつ}}せず。{{r|或|あるひ}}は{{r|聖敎|しやうげう}}をば{{r|執|しふ}}して{{r|稱名|しようみやう}}せざると。いたづらに{{r|他|た}}の{{r|財|ざい}}をかぞふるがごとし。{{r|金千|きんせん}}{{r|兩|りやう}}まいらするといふ{{r|券契|けんけい}}をば{{r|持|もち}}ながら、{{r|金|かね}}をば{{r|取|とら}}ざるがごとしと{{r|常|つね}}の{{r|仰|おほせ}}なりき。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|伊|い}}{{r|豫|よの}}{{r|國|くに}}に{{r|佛|ぶつ}}{{r|阿彌陀|あみだ}}{{r|佛|ぶつ}}といふ{{r|尼|あま}}ありき。{{r|習|ならひ}}もせぬ{{r|法門|ほふもん}}を{{r|自|じ}}{{r|然|ねん}}にいひしなり。{{r|常|つね}}の{{r|持|ぢ}}{{r|言|ごん}}にいはく、{{r|知|しつ}}てしらざれとて{{r|愚痴|ぐち}}なれと。{{r|此|これ}}{{r|淨土|じやうど}}の{{r|法門|ほふもん}}にかなへり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|披|ひ}}{{r|佛|ぶつ}}{{r|今現在|こんげんざい}}{{r|世|せ}}{{r|成佛|じやうぶつ}}、{{r|當|たう}}{{r|知|ち}}{{r|本誓|ほんぜい}}{{r|重願|ぢうぐわん}}{{r|不虛|ふこ}}といへる。{{r|重願|ぢうぐわん}}といふは、かさねたる{{r|願|ぐわん}}とよむなり。おもきとは{{r|讀|よむ}}べからず。{{r|披|ひ}}{{r|佛|ぶつ}}{{r|今現在|こんげんざい}}{{r|世|せ}}{{r|成佛|じやうぶつ}}{{r|當|たう}}{{r|知|ち}}{{r|本誓|ほんぜい}}といふは{{r|四|し}}{{r|十八|じふはち}}{{r|願|ぐわん}}なり。{{r|重願|ぢうぐわん}}{{r|不虛|ふこ}}といふはかさねたる{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|往生|わうじやう}}の{{r|願|ぐわん}}なり。{{r|一一|いち{{ku}}}}{{r|願言|ぐわんごん}}と{{r|釋|しやく}}するも{{r|此|この}}{{r|意|い}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|夢|ゆめ}}と{{r|現|うつつ}}とを{{r|夢|ゆめ}}に{{r|見|み}}たり。{{註|弘安十一年正月二十一日夜の御夢なり。}}{{r|種種|しゆ{{gu}}}}に{{r|變|へん}}{{r|化|げ}}し{{r|遊行|ゆぎやう}}するぞと{{r|思|おも}}ひたると{{r|夢|ゆめみし}}にて{{r|有|あり}}けり。{{r|覺|さめ}}て{{r|見|み}}れば{{r|少|すこ}}しもこの{{r|道場|だうぢやう}}をばはたらかず。{{r|不|ふ}}{{r|動|どう}}なるは{{r|本分|ほんぶん}}なりと{{r|思|おも}}ひたれば、これも{{r|又|また}}{{r|夢|ゆめ}}{{r|也|なり}}けり。{{r|此事|このこと}}{{r|夢|ゆめ}}も{{r|現|うつつ}}も{{r|共|とも}}に{{r|夢|ゆめ}}なり。{{r|當|たう}}{{r|世|せ}}の{{r|人|ひと}}の{{r|悟|さとり}}ありと{{r|匉訇|ひやうごん}}はこの{{r|分|ぶん}}なり。まさしく{{r|生死|しやうじ}}の{{r|夢|ゆめ}}{{r|覺|さめ}}ざれば{{r|此|この}}{{r|悟|さとり}}は{{r|夢|ゆめ}}なるべし。{{r|實|じつ}}に{{r|生死|しやうじ}}の{{r|夢|ゆめ}}をさまさんずる{{r|事|こと}}は、ただ{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|菩|ぼ}}{{r|提心論|だいしんろん}}にいはく、『{{r|筏|いかだ}}に{{r|遇|あ}}うて{{r|彼|ひ}}{{r|岸|がん}}に{{r|達|たつ}}すれば、{{r|法|ほふ}}{{r|已|すで}}に{{r|捨|す}}つ{{r|應|べ}}し。』{{r|極樂|ごくらく}}も{{r|指|し}}{{r|方|はう}}{{r|立相|りつさう}}<ref>【指方立相】娑婆世界より西方を指して極樂の境相を立つ。</ref>の{{r|分|ぶん}}は{{r|法|ほふ}}{{r|已|い}}{{r|應捨|おうしや}}の{{r|分|ぶん}}なるべし。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|三業|さんごふ}}{{r|起行|きぎやう}}{{r|皆|みな}}{{r|念佛|ねんぶつ}}といふ{{r|事|こと}}。{{r|禮拜|らいはい}}{{r|意|い}}{{r|念|ねん}}{{r|等|とう}}の{{r|體|たい}}をおさへて、すなはち{{r|念佛|ねんぶつ}}といふにはあらず、{{r|手|て}}に{{r|念珠|ねんじゆ}}をとれば{{r|口|くち}}に{{r|稱名|しようみやう}}せざれども、{{r|心|こころ}}にかならず{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}ととのふ。{{r|身|み}}に{{r|禮拜|らいはい}}すれば{{r|心|こころ}}に{{r|必|かなら}}ず{{r|名號|みやうがう}}を{{r|思|おも}}ひ{{r|出|いで}}らる。{{r|經|きやう}}をよみ{{r|佛|ほとけ}}を{{r|觀想|くわんさう}}すれば{{r|名號|みやうがう}}かならずあらはるるなり。{{r|是|これ}}を{{r|三業|さんごふ}}{{r|卽|そく}}{{r|念佛|ねんぶつ}}ともいふ。{{r|讀誦|どくじゆ}}{{r|等|とう}}を{{r|五|ご}}{{r|種|しゆ}}の{{r|正行|しやうぎやう}}<ref>【五種正行】淨土の正行を五種に分類したるもの、讀誦、觀察、禮拜、稱名、讃歎供養なり。</ref>といふもよく{{r|是|これ}}を{{r|分別|ふんべつ}}すべし。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、『{{r|或|あるひ}}は{{r|福|ふく}}{{r|慧|ゑ}}<ref>【福慧】布施、持戒、忍辱、精進、靜慮、智慧にして、前の五を福、後の一を慧としたるなり。</ref>{{r|雙|なら}}べて{{r|障|さわり}}を{{r|除|のぞ}}くと{{r|敎|をし}}ゆ』といふは{{r|眞言|しんごん}}なり。『{{r|或|あるひ}}は{{r|禪念|ぜんねん}}<ref>【禪念】六度の中の禪定(靜慮)智慧を指すなり。</ref>{{r|坐|ざ}}して{{r|思量|しりやう}}せよと{{r|敎|をし}}ゆ』といふは{{r|宗門|しうもん}}なり。{{r|靜遍|じやうへん}}の{{r|續|ぞく}}{{r|選擇|せんぢやく}}にかくのごとくあてたり。『{{r|念佛|ねんぶつ}}して{{r|西方|さいはう}}に{{r|往|ゆ}}くに{{r|過|すぐ}}るは{{r|無|な}}し』といふは、{{r|諸敎|しよけう}}に{{r|念佛|ねんぶつ}}はすぐれたりといふなり。{{r|他|た}}{{r|力|りき}}{{r|不思議|ふしぎ}}の{{r|故|ゆゑ}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|當|たへ}}{{r|麻|ま}}の{{r|曼|まん}}{{r|陀羅|だら}}<ref>【當麻曼陀羅】和州當麻寺にて中將法如の感得し給ひし極樂淨土曼陀羅なり。</ref>の{{r|示|じ}}{{r|現|げん}}に{{r|云|いはく}}、{{r|日|ひ}}{{r|來|ごろ}}の{{r|功|こう}}は{{r|功|こう}}にあらず、{{r|德|とく}}は{{r|德|とく}}にあらず。{{resize|small|云云}}。{{r|善惡|ぜんあく}}の{{r|諸法|しよほふ}}これをもて{{r|意|こころ}}{{r|得|う}}べきなり。{{r|當體|たうたい}}の{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}の{{r|外|ほか}}に{{r|前|ぜん}}{{r|後|ご}}の{{r|沙汰|さた}}{{r|有|ある}}べからず。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|聖衆|しやうじゆ}}{{r|莊嚴|しやうごん}}{{r|卽|そく}}{{r|現在|げんざい}}{{r|彼|ひ}}{{r|衆|しゆ}}、{{r|及|きふ}}{{r|十方|じつぱう}}{{r|法界|ほふかい}}{{r|同|どう}}{{r|生|しやう}}{{r|者|しや}}{{r|是|ぜ}}といふ{{r|事|こと}}。{{r|名號|みやうがう}}{{r|酬因|しういん}}<ref>【名號酬因】稱名往生の因願に酬ひたる報佛の功德に約するなり。</ref>の{{r|功|く}}{{r|德|どく}}に{{r|約|やく}}する{{r|時|とき}}と{{r|十界|じつかい}}の{{r|差別|しやべつ}}<ref>【十界差別】淨穢不二、生佛一如なり。</ref>なく、{{r|娑|しや}}{{r|婆|ば}}の{{r|衆生|しゆじやう}}までも{{r|極樂|ごくらく}}の{{r|正報|しやうはう}}につらなるなり。{{r|妄分|まうぶん}}に{{r|約|やく}}する{{r|時|とき}}は{{r|淨|じやう}}{{r|穢|ゑ}}も{{r|各別|かくべつ}}なり。{{r|生佛|しやうぶつ}}も{{r|差別|しやべつ}}するなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|少分|せうぶん}}の{{r|水|みづ}}を{{r|土器|どき}}に{{r|入|い}}れたらば{{r|則|すなはち}}かはくべし。{{r|恆|ごう}}{{r|河|が}}に{{r|入|いり}}くはえたらば{{r|一|いち}}{{r|味|み}}{{r|和|わ}}{{r|分|ぶん}}してひる{{r|事|こと}}あるべからず。{{r|左|さ}}のごとく{{r|命|みやう}}{{r|濁|ぢよく}}{{r|中夭|ちうえう}}の{{r|無常|みじやう}}の{{r|命|いのち}}を{{r|不生|ふしやう}}{{r|不|ふ}}{{r|滅|めつ}}の{{r|無量壽|むりやうじゆ}}に{{r|歸|き}}{{r|入|にふ}}しぬれば、{{r|生死|しやうじ}}ある{{r|事|こと}}なし。{{r|人|にん}}{{r|師|し}}の{{r|釋|しやく}}にいはく、『{{r|花|はな}}を{{r|五淨|ごじやう}}によすれば{{r|風|かぜ}}{{r|日|ひ}}にもしぼまず。{{r|水|みづ}}を{{r|靈|れい}}{{r|河|が}}<ref>【靈河】水に龍あるを靈河と云ふなり。</ref>に{{r|附|ふ}}すれば{{r|世|よ}}{{r|旱|ひでり}}にも{{r|竭|かる}}ることなし』と。{{resize|small|云云}}。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|名號|みやうがう}}の{{r|外|ほか}}には{{r|總|そう}}じてもて{{r|我|わが}}{{r|身|み}}に{{r|功|く}}{{r|能|のう}}なし。{{r|皆|みな}}{{r|誑惑|わうわく}}と{{r|信|しん}}ずるなり。{{r|念佛|ねんぶつ}}の{{r|外|ほか}}の{{r|餘|よ}}{{r|言|ごん}}をば{{r|皆|みな}}たはごととおもふべし。{{r|是|これ}}{{r|常|つね}}の{{r|仰|おほせ}}なり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|大|だい}}{{r|地|ぢ}}の{{r|念佛|ねんぶつ}}<ref>【大地の念佛】名號は卽ち法界身にして、十方衆生の所依となること、譬へば大地の山河草木等の所依となるが如し。</ref>といふ{{r|事|こと}}は、{{r|名號|みやうがう}}は{{r|法界|ほふかい}}{{r|酬因|しういん}}の{{r|功|く}}{{r|德|どく}}<ref>【法界酬因の功德】名號は法界を攝取する因に酬いたる法界身の名體不離の功德なり。</ref>なれば、{{r|法|ほふ}}を{{r|離|はな}}れて{{r|行|ゆく}}べき{{r|方|かた}}もなし。これを{{r|法界身|ほつかいしん}}の{{r|彌陀|みだ}}ともとき、{{r|是|これ}}を{{r|十方|じつぱう}}{{r|諸佛國|しよぶつこく}}、{{r|盡|じん}}{{r|是|ぜ}}{{r|法|ほふ}}{{r|王|わう}}{{r|家|け}}とも{{r|釋|しやく}}するなり。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}ある{{r|人|ひと}}{{r|問|とうて}}{{r|云|いはく}}、『{{r|上人|しやうにん}}{{r|御|ご}}{{r|臨終|りんじう}}の{{r|後|のち}}{{r|御跡|おんあと}}をばいかやうに{{r|御定|おんさだ}}め{{r|候|さふらふ}}や。』{{r|上人|しやうにん}}{{r|答|こたへて}}{{r|云|いはく}}、『{{r|法|ほつ}}{{r|師|し}}のあとは{{r|跡|あと}}とす。{{r|跡|あと}}をとどむるとはいかなる{{r|事|こと}}ぞわれしらず。{{r|世|せ}}{{r|間|けん}}の{{r|人|ひと}}のあととはこれ{{r|財寶|ざいほう}}{{r|所領|しよりやう}}なり。{{r|著相|ぢやくさう}}をもて{{r|跡|あと}}とす、{{r|故|ゆゑ}}にとがとなる。{{r|法|ほつ}}{{r|師|し}}と{{r|財寶|ざいほう}}{{r|所領|しよりやう}}なし、{{r|著心|ぢやくしん}}をはなる。{{r|今|いま}}{{r|法|ほつ}}{{r|師|し}}が{{r|跡|あと}}とは{{r|一切|いつさい}}{{r|衆生|しゆじやう}}の{{r|念佛|ねんぶつ}}する{{r|處|ところ}}これなり。{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}。』}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|上人|しやうにん}}{{r|空|くう}}{{r|也|や}}{{r|上人|しやうにん}}は{{r|吾先達|わがせんだつ}}なりとて、{{r|彼|かの}}{{r|御詞|おんことば}}を{{r|心|こころ}}にそめて、{{r|口|くち}}ずさびたまひき。{{r|空|くう}}{{r|也|や}}の{{r|御詞|おんことば}}に{{r|云|いはく}}、『{{r|心|こころ}}に{{r|所緣|しよえん}}{{r|無|な}}ければ{{r|日|ひ}}の{{r|暮|くる}}るに{{r|隨|したが}}つて{{r|止|や}}み、{{r|身|み}}に{{r|所住|しよぢう}}{{r|無|な}}ければ{{r|夜|よ}}の{{r|明|あく}}るに{{r|隨|したが}}つて{{r|去|さ}}る。{{r|忍辱|にんにく}}の{{r|衣|え}}{{r|厚|あつ}}くして{{r|杖木|ぢやうもく}}{{r|瓦石|ぐわしやく}}に{{r|痛|いため}}ず、{{r|慈悲|じひ}}の{{r|室|しつ}}{{r|深|ふか}}くして、{{r|罵詈|めり}}{{r|誹|ひ}}{{r|謗|ばう}}を{{r|聞|きか}}ず。{{r|口|くち}}を{{r|信|しん}}じて{{r|三昧|さんまい}}{{r|市|し}}{{r|中|ちう}}{{r|是|こ}}れ{{r|道場|だうぢやう}}なり。{{r|聲|こゑ}}に{{r|隨|したが}}つて{{r|見佛|けんぶつ}}{{r|息精|そくしやう}}{{r|卽|そく}}{{r|念珠|ねんじゆ}}たり。{{r|夜夜|よな{{ku}}}}{{r|佛|ほとけ}}の{{r|來迎|らいがう}}を{{r|待|ま}}ち、{{r|朝朝|あさな{{ku}}}}{{r|最後|さいご}}{{r|近|ちか}}づくと{{r|喜|よろこ}}ぶ。{{r|三業|さんごふ}}を{{r|天運|てんうん}}に{{r|任|まか}}せて、{{r|四儀|しぎ}}を{{r|菩|ぼ}}{{r|提|だい}}に{{r|讓|ゆづ}}る。{{r|又|また}}{{r|云|いはく}}、{{r|名|な}}を{{r|求|もと}}め{{r|衆|しゆ}}を{{r|領|りやう}}して{{r|身心|しんじん}}{{r|疲|つか}}る。{{r|功|くう}}を{{r|積|つ}}み{{r|善|ぜん}}を{{r|修|しゆ}}して{{r|希|け}}{{r|望|まう}}{{r|多|おほ}}し。{{r|孤|こ}}{{r|獨|どく}}は{{r|境界|きやうかい}}{{r|無|な}}きに{{r|如|し}}かず。{{r|稱名|しようみやう}}は{{r|萬|ばん}}{{r|事|じ}}を{{r|抛|なげう}}つに{{r|如|し}}かず。{{r|間居|かんきよ}}{{r|隱|いん}}{{r|士|し}}{{r|貧|ひん}}を{{r|樂|たのしみ}}と{{r|爲|な}}し、{{r|禪觀|ぜんくわん}}{{r|幽室|ゆうしつ}}{{r|靜|じやう}}を{{r|友|とも}}となす。{{r|藤|とう}}{{r|衣|え}}{{r|紙|し}}{{r|衾|きん}}は{{r|是|こ}}れ{{r|淨服|じやうぶく}}にして{{r|求|もと}}め{{r|易|やす}}く{{r|更|さら}}に{{r|盜賊|たうぞく}}の{{r|怖|おそれ}}{{r|無|な}}し。{{r|上人|しやうにん}}{{r|是|これ}}{{r|等|ら}}の{{r|法|ほふ}}{{r|語|ご}}によりて、{{r|身命|しんみやう}}を{{r|山|さん}}{{r|野|や}}に{{r|捨|す}}て、{{r|居住|きよぢう}}を{{r|風雲|ふううん}}にまかせ、{{r|機|き}}{{r|緣|えん}}に{{r|隨|したが}}ひて{{r|徒|と}}{{r|衆|しゆ}}を{{r|領|りやう}}したまふといへども、{{r|心|こころ}}に{{r|諸緣|しよえん}}を{{r|遠|をん}}{{r|離|り}}し<ref>【心に諸緣を遠離し】諸の妄緣妄境を離るるなり。</ref>、{{r|身|み}}に{{r|一塵|いちぢん}}をもたくはへず。{{r|絹帛|けんばく}}の{{r|類|るゐ}}をふれず。{{r|金銀|きんぎん}}の{{r|具|ぐ}}を{{r|手|て}}に{{r|取事|とること}}なく、{{r|酒肉|しゆにく}}{{r|五|ご}}{{r|辛|しん}}をたちて、{{r|十重|じふぢう}}の{{r|戒珠|かいしゆ}}<ref>【十重の戒珠】十重禁戒のこと。殺、盜、婬、妄、酤酒、說過讃、毀慳瞋、謗三寶戒。</ref>をみがきたまへりと。{{resize|small|云云}}。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|上人|しやうにん}}{{r|筑前|ちくぜんの}}{{r|國|くに}}にてある{{r|武士|ぶし}}のやかたにいらせたまひければ、{{r|酒宴|しゆえん}}の{{r|最中|さいちう}}にて{{r|侍|はべ}}りけるに、{{r|家|け}}{{r|主|しゆ}}{{r|裝束|しやうぞく}}ことにひきつくろひ、{{r|手|て}}あらひ{{r|口|くち}}すすぎておりむかひ、{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|受|う}}けて{{r|又|また}}いふ{{r|事|こと}}もなかりければ、{{r|上人|しやうにん}}たち{{r|去|さり}}たまふに、{{r|俗|ぞく}}の{{r|云|いふ}}やうは、『{{r|此僧|このそう}}は{{r|日本一|につぽんいち}}の{{r|誑惑|わうわく}}の{{r|者|もの}}や。なんぞ{{r|貴|たふと}}き{{r|氣|け}}{{r|色|しき}}ぞ。』といひければ、{{r|客人|きやくじん}}の{{r|有|あり}}けるが<ref>【客人の有けるが】其座に在りし客人がの意。</ref>、『さてはなにとして、{{r|念佛|ねんぶつ}}をば{{r|受給|うけたま}}ふぞ。』と{{r|申|まを}}せば、{{r|念佛|ねんぶつ}}には{{r|誑惑|わうわく}}なき{{r|故|ゆゑ}}なりとぞいひける。{{r|上人|しやうにん}}の{{r|云|いは}}く、『おほくの{{r|人|ひと}}に{{r|逢|あ}}ひたりしかども、{{r|是|これ}}ぞまことに{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|信|しん}}じたるものとおぼへて{{r|餘|よ}}{{r|人|にん}}は{{r|皆|みな}}{{r|人|ひと}}を{{r|信|しん}}じて{{r|法|ほふ}}を{{r|信|しん}}ずる{{r|事|こと}}なきに、{{r|此俗|このぞく}}は{{r|依|え}}{{r|法|ほふ}}{{r|不依|ふえ}}{{r|人|にん}}のことはりをしりて{{r|涅|ね}}{{r|槃|はん}}の{{r|禁戒|きんかい}}に{{r|相|あひ}}かなへり。{{r|珍|めづら}}しき{{r|事|こと}}なり』とて、{{r|色色|いろ{{ku}}}}ほめたまひき。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|上人|しやうにん}}{{r|鎌倉|かまくら}}にいりたまふ{{r|時|とき}}<ref>【上人鎌倉に到る】弘安五年三月朔日なり。</ref>、{{r|故|ゆゑ}}ありて{{r|武士|ぶし}}かたく{{r|制|せい}}{{r|止|し}}していれたてまつらず。{{r|殊|こと}}さらに{{r|誹|ひ}}{{r|謗|ばう}}をなし{{r|侍|はべ}}りければ、{{r|上人|しやうにん}}{{r|云|いはく}}、『{{r|法|ほつ}}{{r|師|し}}すべて{{r|要|えう}}なし。ただ{{r|人|ひと}}に{{r|念佛|ねんぶつ}}をすすむるばかりなり。{{r|汝|なんぢ}}{{r|等|ら}}いつまでかながらへてかくのごとく{{r|佛法|ぶつぽふ}}を{{r|毀|き}}{{r|謗|ばう}}すべき、{{r|罪業|ざいごふ}}にひかれて{{r|冥|めい}}{{r|途|ど}}におもむかん{{r|時|とき}}は、{{r|念佛|ねんぶつ}}にこそたすけられ{{r|奉|たてまつる}}べきに』と。{{r|武士|ぶし}}{{r|返答|へんたふ}}もせずして{{r|上人|しやうにん}}を{{r|二杖|ふたつゑ}}まで{{r|打|うち}}{{r|奉|たてまつ}}るに、{{r|上人|しやうにん}}はいためる{{r|氣|け}}{{r|色|しき}}もなく、『{{r|念佛|ねんぶつ}}{{r|勸進|くわんじん}}を{{r|我|われ}}いのちとす。{{r|然|しか}}るをかくのごとくいましめられば、いづれの{{r|所|ところ}}へか{{r|行|ゆく}}べき。ここにて{{r|臨終|りんじう}}すべしと{{r|曰|い}}へり』と。{{resize|small|云云}}。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|或人|あるひと}}{{r|紫|し}}{{r|雲|うん}}たち{{r|華|はな}}{{r|降|ふ}}りけるを{{r|疑|うたがひ}}をなしてとひ{{r|奉|たてまつ}}りければ、{{r|上人|しやうにん}}{{r|答|こたへて}}{{r|云|いはく}}、『{{r|華|はな}}の{{r|事|こと}}は{{r|華|はな}}にとへ、{{r|紫|し}}{{r|雲|うん}}の{{r|事|こと}}は{{r|紫|し}}{{r|雲|うん}}にとへ、{{r|一遍|いつぺん}}はしらず』と。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|尾|び}}{{r|州|しう}}の{{r|甚目|じんもく}}{{r|寺|じ}}にて{{r|七|しち}}{{r|箇|か}}{{r|日|にち}}の{{r|行法|ぎやうほふ}}を{{r|修|しゆ}}したまひけるに、{{r|供|く}}{{r|養|やう}}の{{r|力|ちから}}つきて{{r|寺|じ}}{{r|僧|そう}}{{r|等|ら}}なげきあひければ、{{r|上人|しやうにん}}{{r|云|いはく}}、『{{r|志|こころざし}}あらば{{r|幾日|いくにち}}なりともとどまるべし。{{r|衆生|しゆじやう}}{{r|信心|しんじん}}より{{r|感|かん}}ずれば{{r|其|その}}{{r|志|こころざし}}を{{r|受|うく}}るばかりなり。されば{{r|佛法|ぶつぽふ}}の{{r|味|あぢ}}を{{r|愛樂|あいげう}}して{{r|禪三昧|ぜんざんまい}}を{{r|食|じき}}とすといへり。もし{{r|身|み}}のために{{r|衣|え}}{{r|食|じき}}を{{r|事|こと}}とせば、またく{{r|衆生|しゆじやう}}{{r|利益|りやく}}の{{r|門|もん}}にあらず。しばらく{{r|在|ざい}}{{r|家|け}}にたちむかふと。これ{{r|隨類|ずゐるゐ}}{{r|應同|おうどう}}の{{r|義|ぎ}}なり。{{r|努努|ゆめ{{ku}}}}{{r|歎|なげき}}たまふ{{r|事|こと}}なかれ。{{r|我|われ}}と{{r|七|なぬ}}{{r|日|か}}を{{r|滿|みた}}すべし』と。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|上人|しやうにん}}は{{r|勢|せい}}{{r|至|し}}{{r|菩|ぼ}}{{r|薩|さつ}}の{{r|化|け}}{{r|身|しん}}にておはしますよし{{r|唐橋法印|たうけうほふいん}}{{r|靈|れい}}{{r|夢|む}}の{{r|記|き}}を{{r|持參|もちまゐ}}られければ、{{r|上人|しやうにん}}{{r|云|いはく}}、『{{r|念佛|ねんぶつ}}より{{r|詮|せん}}にてあれ。{{r|勢|せい}}{{r|至|し}}ならずば{{r|信|しん}}ずまじきか』といましめたまふ。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|御|ご}}{{r|往生|わうじやう}}の{{r|年|とし}}の{{r|五月|ごぐわつ}}の{{r|頃|ころ}}、{{r|上人|しやうにん}}{{r|云|いはく}}、『{{r|機|き}}{{r|緣|えん}}すでにうすくなり、{{r|人人|ひと{{ku}}}}{{r|敎誡|けうかい}}をもちひず。{{r|生涯|しやうがい}}いくばくならず。{{r|死期|しご}}ちかきにあり』と。{{resize|small|云云}}。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|御|ご}}{{r|往生|わうじやう}}の{{r|前月|ぜんげつ}}{{r|十|とほ}}{{r|日|か}}の{{r|朝|あさ}}{{r|阿彌陀|あみだ}}{{r|經|きやう}}を{{r|誦|よ}}みて、{{r|御|ご}}{{r|所|しよ}}{{r|持|じ}}の{{r|書籍|しよせき}}{{r|等|とう}}を{{r|手|て}}づから{{r|燒|やき}}{{r|捨|す}}てたまひて、『{{r|一代|いちだい}}の{{r|聖敎|しやうげう}}{{r|皆|みな}}{{r|盡|つき}}て、{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}になりはてぬ』と{{r|仰|おほせ}}られける。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|御|ご}}{{r|往生|わうじやう}}の{{r|前|まへ}}、{{r|前|ぜん}}{{r|後|ご}}{{r|遺誡|ゆゐかい}}の{{r|法門|ほふもん}}をしるさせたまひて、{{r|重|かさね}}て{{r|示|しめ}}して{{r|云|いはく}}、『わが{{r|往生|わうじやう}}ののち{{r|身|み}}を{{r|海底|かいてい}}に{{r|投|なぐ}}るもの{{r|有|あ}}るべし。{{r|安心|あんじん}}{{r|定|さだま}}りなばなにとあらんとも{{r|相|さう}}{{r|違|ゐ}}あるべからずといへども、{{r|我|が}}{{r|執|しふ}}{{r|盡|つき}}ずしては{{r|然|しか}}るべからざる{{r|事|こと}}なり。{{r|受難|うけがた}}き{{r|佛道|ぶつどう}}の{{r|身|み}}をむなしく{{r|捨|すて}}ん{{r|事|こと}}{{r|淺|あさ}}ましき{{r|事|こと}}なり』と。}}{{resize|small|云云}}。
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|御|ご}}{{r|往生|わうじやう}}のまへ、{{r|人人|ひと{{gu}}}}{{r|最|さい}}{{r|後|ご}}の{{r|法門|ほふもん}}{{r|承|うけたまは}}らんと{{r|申|まを}}しければ、『{{r|三業|さんごふ}}の{{r|外|ほか}}の{{r|念佛|ねんぶつ}}に{{r|同|どう}}ずといへども、ただ{{r|詞|ことば}}ばかりにて{{r|義理|ぎり}}をも{{r|意得|こころえ}}ず。{{r|一念|いちねん}}{{r|發心|ほつしん}}もせぬ{{r|人|ひと}}どもの{{r|爲|ため}}とて、{{r|他阿彌陀|たあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}、{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}はうれしきか』とのたまひければ、{{r|他阿彌陀|たあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}{{r|落淚|らくるゐ}}したまふと。}}{{resize|small|云云}}。
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|御|ご}}{{r|往生|わうじやう}}のまへ、{{註|正應二年八月九日より十日にいたる。}}{{r|紫|し}}{{r|雲|うん}}のたち{{r|侍|はべ}}るよしを{{r|啓|けい}}し{{r|奉|たてまつ}}りければ、{{r|上人|しやうにん}}{{r|云|いはく}}、『さては{{r|今明|こんみやう}}は{{r|臨終|りんじう}}の{{r|期|ご}}にあらざるべし。{{r|終焉|しうえん}}の{{r|時|とき}}はかやうの{{r|事|こと}}はいささかもあるまじき{{r|事|こと}}なり』と。{{r|上人|しやうにん}}{{r|常|つね}}の{{r|仰|おほせ}}にも、{{r|物|もの}}もおこらぬ{{r|者|もの}}は、{{r|天魔心|てんまこころ}}にて{{r|變|へん}}{{r|化|げ}}に{{r|心|こころ}}をうつして、{{r|眞|まこと}}の{{r|佛法|ぶつぽふ}}をば{{r|信|しん}}ぜぬなり。{{r|何|なに}}も{{r|詮|せん}}なし。ただ{{r|南無阿彌陀|なむあみだ}}{{r|佛|ぶつ}}なりとしめしたまひぬ。}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|上人|しやうにん}}{{r|云|いはく}}、『わが{{r|門|もん}}{{r|弟子|でし}}におきては、{{r|葬禮|さうれい}}の{{r|儀|ぎ}}{{r|式|しき}}をととのふべからず。{{r|野|の}}に{{r|捨|す}}て{{r|獸|けもの}}にほどこすべし。{{r|但|ただし}}{{r|在|ざい}}{{r|家|け}}の{{r|者|もの}}{{r|結緣|けちえん}}のこころざしをいたさんをばいろふにおよばず』}}
{{resize|130%|{{r|又|また}}{{r|或人|あるひと}}かねて{{r|上人|しやうにん}}の{{r|御|ご}}{{r|臨終|りんじう}}の{{r|事|こと}}をうかがひたてまつりければ、{{r|上人|しやうにん}}{{r|云|いはく}}、『よき{{r|武士|ぶし}}と{{r|道者|だうじや}}とは{{r|死|し}}する{{r|御事|おんこと}}をあたりにしらせぬ{{r|事|こと}}ぞ。わがをはらんをば{{r|人|ひと}}のしるまじきぞ』と{{r|曰|のたま}}ひしに、はたして{{r|御|ご}}{{r|臨終|りんじう}}その{{r|御詞|おことば}}にたがふ{{r|事|こと}}なかりき。}}
{{r|一遍上人|いつぺんしやうにん}}{{r|語|ご}}{{r|錄|ろく}}{{r|卷下|まきのげ}} {{resize|small|終}}
―――――――――――――――――――――――――――
::::{{resize|120%|{{r|附|ふ}} {{r|錄|ろく}}}}
{{r|上人|しやうにん}}わかかりしとき、{{r|御夢|おんゆめ}}に{{r|見|み}}たまひけるとなん、
::{{r|世|よ}}をわたりそめて{{r|高|たか}}{{r|根|ね}}のそらの{{r|雲|くも}}たゆるはもとのこころなりけり
{{r|熊|くま}}{{r|野|の}}{{r|權現|ごんげん}}より{{r|夢|ゆめ}}に{{r|授|さづ}}けたまひし{{r|神詠|しんえい}}、
::ましへ{{r|行道|ゆくみち}}にないりそくるしきに{{r|本|もと}}の{{r|誓|ちかひ}}のあとをたつねて
{{r|大隅|おほすみ}}{{r|正|しやう}}{{r|八幡宮|はちまんぐう}}より{{r|直授|じきじゆ}}の{{r|神詠|しんえい}}、
::{{r|十|と}}こと{{r|葉|は}}に{{r|南無|なむ}}あみた{{r|佛|ぶつ}}ととなふれはなもあみた{{r|佛|ぶつ}}に{{r|生|うま}}れこそすれ
{{r|淡路國|あはぢのくに}}しつきと{{r|云|いふ}}{{r|所|ところ}}に、{{r|北|きた}}{{r|野|の}}の{{r|天神|てんじん}}を{{r|勸請|くわんじやう}}し{{r|奉|たてまつ}}る{{r|社|やしろ}}{{r|有|あり}}けるに、{{r|上人|しやうにん}}をいれ{{r|奉|たてまつ}}らざり。されば{{r|忽|たちまち}}{{r|社檀|しやだん}}より{{r|顯|あらは}}したまひける{{r|神詠|しんえい}}、
::{{r|世|よ}}にいつることもまれなる{{r|月影|つきかげ}}にかかりやすらんみねのうき{{r|雲|くも}}
== 註 ==
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[[Category:1932年]]
[[Category:日本の文学]]
[[Category:鎌倉時代]]
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[[Category:昭和新纂国訳大蔵経]]
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祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)
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2022-08-26T16:10:20Z
村田ラジオ
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wikitext
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{{header
| title = 祈祷惺々集
| section = シリヤの聖イサアクの教訓(1)
| year = 1896
| 年 = 明治二十九
| override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|フェオファン]] (19世紀)
| override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}}
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| previous = [[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(2)|克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(2)]]
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*発行所:正教会編輯局
}}
<b>シリヤの聖イサアクの教訓</b>
::<b>祈祷と清醒の事</b>
一、 世より遠ざからずんば誰も神に近づくことあたはざるべし。
二、 人に於て五官が勢力を有する間は心は{{r|寧静|ねいせい}}に{{r|止|とど}}まり妄想なくして居ること{{r|能|あた}}はざるべし。
三、 霊魂が神を信ずるによりて安静に達せざる間は五官の弱きを{{r|治|ぢ}}せざるべく内部に属する者の為めに妨げとならんとする有形物体を力をもて{{r|打|うち}}{{r|負|ま}}かすこと{{r|能|あた}}はざるべし。
四、 五官につとむるによりて神をもて楽むを自ら失ひ心は散乱するなり。
五、 もし欲願はいはゆる五官の生む所なりとせば娯楽{{註|なぐさみ}}に由りて心の平安を守らんと自ら己を保証する者は{{r|終|つい}}に黙止すべし。
六、肉体に於て生ずる所の{{r|騒擾|そうじょう}}なる想起を除くが為には心を潜め好んで神の書を学び又其の意味の深きを理会するを学ぶ程充分なるものはあらざるなり。{{r|思|おもい}}が言中に隠るゝ所の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を理会するの楽みに入る時はこれにより鮮明を引出すの量に{{r|随|したが}}ひて人は世を後に{{r|棄|す}}つべくすべて世にある所のものを忘るべくしてもろ〳〵の想起と世の実体を成す所のもろ〳〵有勢なる形像とは心中に消滅せん。
七、 {{r|秤衡|はかりのさを}}はもし其の盤に甚だ重き荷物を負はす時は風の吹くによりて{{r|易|たやす}}く動揺することのあらざる如く智識も神を畏るゝの畏れと{{r|耻|はぢ}}とを負ふに於てはこれを動揺せしめんとする者の為めに転向さるゝこと難からん。されども智識に畏れの乏くなるに{{r|随|したが}}ひて転変と反乱とはこれを占領し始まるなり。されば其の進行の{{r|基|もとい}}に神を畏るゝの{{r|畏|おそれ}}を{{r|据|す}}ゑんことを習ふべし。さらば途上に逡巡するなく日ならずして天国の門にあらん。
八、 汝は{{r|夫|か}}の五官に使役せられざる楽みを感受して自己の智識をもて神と体合せんと欲するか。{{r|施済|ほどこし}}につとめよ。{{r|施済|ほどこし}}が汝の内部に得らるゝ時は其の神に{{r|匹|ひつ}}{{r|似|じ}}せらるべき聖なる美は汝の{{r|中|うち}}に書かるゝなり。{{r|施済|ほどこし}}の行のすべてを包括せざる無きは心霊に於て神との体合を中保無くして生ずべし。
九、 霊神上の体合{{註|神との}}は感銘し易からざるの記憶なり、此の記憶は誡命に{{r|違|たが}}はざるにより天然に又は天然ならざるも{{r|強逼|きょうひつ}}を以てせずして結合に固く{{r|止|とど}}まるより力を借りつゝもゆるが如くなる愛をもて心中に不断に熱するなり。
十、 受くる者の感謝は與ふる者をして前に比ぶれば更に大なる{{r|賜|たまもの}}を與へしむるなり。小なる者の為めに感謝せざる者は大なるものに於ても偽りなり不義なり。
十一、 病んで己の病状を知る者は必ず療法を尋ぬべし。己の病状を人に告ぐる者は其の療法に{{r|殆|ほとん}}ど近づくべく{{r|易|たや}}すくこれを発見せん。悔いざる罪の{{r|外|ほか}}に赦すべからざるの罪はあらじ。
十二、 汝に卓越する者の徳行を常に記憶に存すべし、彼等の{{r|量|ます}}に対して己れの欠乏を{{r|断|た}}えず見んが為なり。
十三、 有力者の陥りしを{{r|憶|おも}}ふて己が徳行を謙遜すべし。古昔陥りて悔改したる者の重き墜堕を記憶すべし、されど墜堕の後に彼等が賜りたる高きと栄誉とをも記憶せよ、さらば己の悔改に於て勇気を得ん。
十四、 みづから己を専ら攻めよ、さらば汝の敵は汝の近づくによりて逐はれん。自ら己れと和せよ、さらば天と地とは汝と和せん。汝が内部の第宅に入らんことを勉めよ、さらば天の第宅を見ん、何となれば彼と此とは同一なるにより一に入りて二を見るべければなり。彼の國の{{r|梯子|はしご}}は汝の内部に於て汝の霊中に秘さるゝなり。
十五、 憂愁の心と{{r|與|とも}}に{{r|交|まじは}}るべし、又祈祷の勤苦及び中心よりの愛慕と{{r|與|とも}}に{{r|親|したし}}むべし、さらば汝の{{r|願|ねがい}}の為めにあはれみの泉は開かれん。
十六、 感動を充たさるゝ清潔の{{r|思|おもい}}を心に懐抱して行ふ所の神の前の祈祷にて常に己を労せよ、さらば神は汝の智識を不潔汚穢の念より守りて神の途は汝の為めに辱められざらん。
十七、 神の書を充分に了解して読みつゝ己を常に黙想に練習せしめよ、汝の智識の閑散なるに乗じて汝の視覚{{註|智覚}}が無用なる思念の為めに汚されざらん為なり。
十八、 【欠】
十九、 智識が{{r|蔽|おほ}}はれたるの始めはまづ第一の奉事と祈祷とを怠るに於て{{r|窺|うかがい}}{{r|知|し}}らるゝなり。けだしもし心霊が首として此れより離れ落ちることあらずんば他に心霊上の誘惑を来すべき途はなければなり、心霊は神の助けを奪はるゝ時は{{註|祈祷に怠るが為めに}}{{r|容易|たや}}すく其の敵の手に落ちん。
二十、 己の弱きを神の前に間断なく開示すべし、さらばもし己の保護者{{註|守護神使}}なしに独り居るも他の為めに誘はれざらん。
二十一、 苦行と己を守るとをもて思念の清潔は流し出さるべく又思念の清潔をもて想考の光は流し出されん、されば此よりして智識は恩寵により五官が権を有せざる所のものに誘導さるゝなり。
二十二、 徳行は体にして直覚は霊なることと彼れと是れとは五官に属すると霊智に属するとの二の部分よりして精神をもて結合せらるゝ一の完全の人なることを自ら想ふべし。さらば霊魂は身体及び四肢の完全なる成形なしに存在する{{註|己を現はす}}能はざるが如く道徳の行を成すなうして直覚に達することも霊魂の為めにあたはざるなり。
二十三、 世といふ言は{{r|所謂|いはゆる}}諸欲と名つくる所のものを己れに包括するの集合名辞なり。もし人は先づ世のいかなる者たるを認識せずんば何の肢体にて世に遠ざかるか又何の肢体にて世と結ばるゝかを認識するに達し得ざるべし。二三の肢体にて世より脱しこれをもて世と交通するを避けたらんに既に自ら其の生活に於て世に遠ざかれりと思ふ者多し、これ彼等はたゞ二三の肢体にて世に死して其他の肢体の世に生くるを{{r|了会|りょうかい}}せず又窺知せざりしによる。彼等は己の情欲を認識するあたはざりき、而して既にこれを認識せざればこれが治療のことをも慮らざるなり。
二十四、 諸欲を合併してこれに名称を下さんとする時はこれを{{r|世|よ}}と名づけ又其の名称の区別によりてこれを{{r|分|わか}}たんとする時はこれを{{r|諸欲|しょよく}}と名づくるなり。此の諸欲なるものは{{r|左|さ}}の如し、富みと汁物とに{{r|恋々|れんれん}}たるなり、身体の{{r|楽|たのし}}みなり、尊敬と権柄と名誉との望みなり、修飾の望みなり、猜忌怨恨及び其他是なり。此等の欲が進行を{{r|止|や}}むる処に於ては世は死するなり。人あり諸聖人の事をいへらく彼等は{{r|猶|なほ}}生きながら死せり、何となれば彼等は肉身にて生きつゝ肉身に依らずして生きたるによると。汝も此等の部分中いづれの部分にて生くるかを見よ、其時はいづれの部分にて世に死するを悟らん。
二十五、 諸欲は或る{{r|附|ふ}}{{r|添物|てんぶつ}}にして霊魂は自らこれ等に於て本原たり。けだし霊魂は天性無欲なるものなり。我は信ず神が己の像に依りて造成せる所の者を無欲に造りしことを。されば像によりて造らるゝとは知るべし身体に関するにあらずして見えざる霊魂に関するを。故に諸欲は霊魂の天性にあるにあらざることと{{r|随|したがつ}}て欲の動き{{r|来|きた}}るや霊魂は其の天性の外にあることとは此れによりて確信せらるべし。
二十六、 もし徳行は天然に霊魂の健全なりとせば諸欲は{{r|最早|もはや}}霊魂の{{r|病|やまい}}なるべし、{{r|即|すなはち}}霊魂の天性に入り来りてこれを其固有の健全より引離す偶有的のものなり。かゝれば{{r|敢|あえ}}ていふべし欲は決して霊魂に天然なるものにあらずと、何となれば{{r|病|やまい}}は健全の後にあればなり。もし欲は霊魂に於て天然のものたらば何故霊魂はこれより害をうくるにや。本来天然に属するものは彼れに害を{{r|加|くは}}へざるべし。
二十七、 智識の{{r|潔|いさぎよ}}きとは徳行に実験的練習を為すによりて神に属するものをもて照らさるゝ是なり。されば思念の誘惑なしに誰かこれを獲たるものありとは{{r|余|わ}}れ{{r|敢|あえ}}て言はざるべし。さりながら思念の誘惑とはこれに{{r|従|したが}}はしめらるゝをいふにあらずしてこれと{{r|闘|たたか}}ふの{{r|基|もとい}}を置くをいふなり。
二十八、 思念の動くは人に四つの原因によりて生ず、第一は天然なる肉身に属するの望願によりて生ず{{註|天然の要求によりて生ず}}、第二は人が聞かんと{{r|欲|ほつ}}し見んと欲する世の事物を想像するによりて生ず、第三は預占せられたる観念により及び心の偏向{{註|旧習}}によりて生ず、第四は先にいへる{{r|諸|もろもろ}}の原因によりすべての欲に引入れて我等と戦ふ所の{{r|魔鬼|まき}}の侵撃によりて生ずるなり。是故に人は此の肉身にて生活する間は死に至る迄{{r|思|し}}{{r|念|ねん}}と{{r|戦|たたかい}}とを{{r|有|ゆう}}せざる{{r|能|あた}}はざるなり。
二十九、 すべて人は顕然且連綿として人に働く所の或る一の欲より己を{{r|衛|まも}}るのみならず又二つの欲より{{r|衛|まも}}るのみならず悉くの欲より{{r|衛|まも}}らんこと緊要なり。徳行をもて自ら欲に勝てる者はたとひ思念の為めに{{r|擾|み}}ださるゝとも自ら勝利を{{r|譲|ゆづ}}らず、何となれば力を有せばなり、而して彼等が智識は善なる且神妙なる記憶に於て大喜するなり。
三十、 {{註|智識の清潔は空虚なる、無益なる{{r|且|かつ}}は有罪なる思念に代へて清潔なる、聖なる及び神出なる思念を充たさるゝの時にあるべし、心の清潔は情欲の主眼たる物に対するもろ〳〵の同感同情より免るゝを得てたゞこれに反対なるものを愛するの時にあり}}。もし智識にして神の書をよむに{{r|拮据|きっきょ}}{{r|黽勉|びんべん}}し{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|儆醒|けいせい}}に及び静黙に多少の尽力を為すあらば己が従前の生活{{註|及び以前の思念}}を忘れて清潔に{{r|達|たつ}}し{{r|得|う}}べし{{註|神の書より借り又神の書にて保持せらるゝ善良なる思念に充たされつゝ}}。されども彼は堅牢なる清潔を有するあらざらん、何となれば彼は{{r|速|すみやか}}に{{r|潔|きよ}}めらるゝも{{r|亦|また}}{{r|速|すみやか}}に{{r|汚|けが}}さるべければなり{{註|されば至要なるは智識の清潔が心の清潔にかゝるにあり、心にして清潔ならざる間は智識に於て善良の思念は堅牢ならざるなり。もし或る情欲に対し心と共に同感のあらはるゝや直ちに智識にも不良なる思想の{{r|沓|くつ}}{{r|至|し}}<ref>投稿者注釈:沓至とは、あとからあとから続いて来ること。</ref>するあるなり}}。されば多くの憂患と剥奪と凡そ世俗に居る所の人々と世の交際を為すを避くるとにより、又此のすべての為めに己を殺すによりて心は清潔に達し得べし。{{r|一言|いちごん}}をもてこれを言はゞ勤労と苦行とをもて己れより諸欲を逐ひ去りてこれと反対の徳行を己れに{{r|樹|た}}つるによりて達し得るなり。もし誰か心にして{{註|此の方法により}}清潔に達し得るあらば其者の清潔は{{註|堅牢にして}}或る小なるものに汚されず大なる{{r|戦|たたかい}}をも{{r|畏|おそ}}れざらん、けだし連綿たる勤労により長久の間に得たるなればなり。
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三十一、 貞潔なる{{r|且|かつ}}一に収束せられたる感覚は心に平安を生ず{{r|而|しか}}して心をして事物を試むるに入らしめざるなり。されば心霊が事物の感触を己れにうけざらん時には勝利は戦はずして成るなり。されどもし人が漸く怠慢を生じて侵撃の己れに近づき来るを許すあらば{{r|戦|たたかい}}を支ふるの{{r|已|や}}む能はざるあるべし。されば{{r|最|いと}}単純にして{{r|且|かつ}}{{r|最|いと}}正平なる所の元始の清潔は{{r|攪擾|かくじょう}}せられん。けだし此の怠慢により人類の大半将た全世界も天然なる且清潔なるの景状を失ふべければなり。此に因り世の人々と密なる関係を有して世に居る所の者は邪悪を多く認むるの故に智識を潔むる能はざるべし。故にすべての人は必ず戒慎して己の感覚と智識とを打撃より常に守らんことを要す、けだし清醒と不眠と預戒とは{{r|大|おほい}}に要用なり。
三十二、 人の天性には神に{{r|順|したが}}ふの界限を守るが為めに畏れを要するなり。神に対するの愛は人に於て徳業に対するの愛を起すべくして人は此れをもて作善に誘引せらるゝなり。霊神上の自覚は自然に徳業を行ふの後にあり。されども{{r|畏|おそれ}}と愛とは彼れと此れとに先だつべくして畏れは又愛に先だつなり。
三十三、 すべてより{{r|最|いと}}{{r|寳|たから}}なる者を己の内部に獲んことを心掛くべし。大なる者を得んが為めに小なる者を棄てよ。大価値の者を得んが為めに残剰なるもの及び小価値のものを軽んぜよ。死して{{r|後|のち}}生きんが為めに汝の生命に於て死すべし。功労に死して怠慢に生きざるに己れを委ねよ。けだし<u>ハリストス</u>を信ずるが為めに死をうけし者のみ致命者にあらず<u>ハリストス</u>の誡命を守るが為めに死する者も致命者なり。
三十四、 汝は認識の小なるをもて神を辱めざらんが為めに己の{{r|願|ねがい}}に於て無智なるなかれ。汝は栄誉をうけんが為めに己の祈祷に於て智なるべし。其の賢明なる{{r|望|のぞみ}}によりて名誉をうけんが為めにこれを{{r|猜|そね}}みなくして與ふる所の者に{{r|最|いと}}尊貴なる者を願へよ。<u>ソロモン</u>は自ら{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}たらんことを願ひ{{r|且|かつ}}大なる王に{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を願ひしにより{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}なると共に地上の国をもうけたりき。<u>エリセイ</u>は師が有したる霊神上の恩寵を二倍して願ひしに{{r|其|その}}{{r|願|ねがい}}は成るなうして{{r|了|おは}}らざりき。けだし王に軽微なるものを願ふは王の尊貴を{{r|卑|いやし}}んずるものなればなり。汝の価値が神の前に高まりて神の汝を喜ぶを致さんと欲せば己の願を神の栄光に順じて献ぐべし。視よや神使及び神使長即ち王の此の高貴者等は汝の祈祷する時に爾に注意して汝がいかなる請願をもて{{r|其|その}}主宰に向ふを観察し而して{{r|汝|なん}}ぢ地に属する者にして己の肉体をすてゝ天に属する者を願ふを見るや驚き{{r|且|かつ}}喜ぶなり。
三十五、 神が自ら其照管により我等の願を{{r|俟|ま}}たずして{{r|與|あた}}ふる所の者又は汝と其の至愛者とに與ふるのみならず神を{{r|識|し}}るの認識に遠き所の者にも與ふる所の者を神に願ふなかれ。子は其父に自ら{{r|麵包|ぱん}}を{{r|願|ねが}}はざるべし、其の父の家に於て最大なるもの及び高上なるものを切願するなり。けだしたゞ人智の弱きによりて主は日用の糧を願ふことを命じ給へり。
三十六、 もし神に願ふ所あらんに神が汝に{{r|速|すみやか}}に聴くを延引する時は{{r|哀|かなし}}むなかれ、何となれば汝は神より智ならざればなり。さて汝に此れあるは{{r|或|あるい}}は汝が願ふ所の者をうくるに{{r|當|あた}}らざるに依り或は汝が願ふ所の{{r|賜|たまもの}}をうくるの{{r|速|すみやか}}なるによりこれをして無結果たらしめざらんが為に我等は時に先だちて大なる量に手出しを為すべからず、何となれば{{r|易|たや}}すく受けたる者は又{{r|速|すみやか}}に失ふべければなり。されどもすべて中心の辛苦をもて得たる所のものは又戒慎をもて守らるべし。
三十七、 心霊上の誘惑に陥らざらんが為めに祈祷すべし、而して身体上の誘惑には其の全力を{{r|尽|つく}}して備ふべし。けだし誘惑を{{r|外|ほか}}にして神に近づく能はざればなり、何となれば神出なる平安は誘惑の{{r|中|うち}}に準備せらるゝによる。誘惑より逃ぐる者は徳行よりも逃げん。されどこは希望の誘惑に非ずして患難の誘惑を指すと知るべし。
三十八、 信仰に関係して誘惑に陥らざらんやうに祈祷すべし。汝の心の自負により{{r|誹|ひ}}{{r|謗|ぼう}}及び{{r|驕傲|きょうごう}}の{{r|魔鬼|まき}}と共に誘惑に陥らざらんやうに祈祷すべし。神の寛容により{{r|汝|なん}}ぢ己の智識にて思ふ所の悪なる思想の為めに魔鬼にゆるさるゝ顕然たる誘惑に陥らざらんやうに祈祷すべし。汝の貞潔の{{r|使|つかい}}が汝より離れざらんやうに又罪が汝に対して{{r|最|いと}}猛烈なる{{r|戦|たたかい}}を起さずして汝を貞潔より離さざらんやうに祈祷すべし。二心と疑念{{註|希望の動揺}}の誘惑、即ち心霊が大なる{{r|戦|たたかい}}に{{r|誘|いざな}}はるべき所のものに陥らざらんやうに祈祷すべし、――さて身体上の誘惑は{{r|霊|たましい}}を全うしてこれをうくるに準備すべく{{r|且|かつ}}己の全体をもてこれを{{r|游|およぎ}}{{r|渡|わた}}るべくして其の両眼は涙にみたさるべし、汝の守護者の汝より離れざらむが為めなり。けだし誘惑の{{r|外|はか}}に於て神の{{r|照管|しょうかん}}は{{r|窺|うかが}}ひ{{r|知|し}}られず、神の前に{{r|侃々|かんかん}}たるを{{r|得|う}}るあたはず、聖神の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を学ぶあたはず、神出の愛の汝が{{r|霊|たましい}}に確立せんことも{{r|亦|また}}能ふべきなし。誘惑の{{r|先|さ}}きには人は神に祈祷すること別人の如し。されども神を愛するに依り誘惑に陥らんに自ら違変をゆるさゞる時は神に帰すること恰も神をもて負債者たらしむる者の如くし又其の忠実なる友の如くするなり、何となれば神の旨を行ふに於て神の敵と{{r|戦|たたかい}}を{{r|交|まじ}}へてこれを克服したればなり。
三十九、 我等が主は身体上の誘惑の為めにも祈祷すべきを命じ給へり。けだし我等が天性は土造泥製的なる身体の故に{{r|荏弱|じんじゃく}}にして{{r|偶々|たまたま}}誘惑の来るあるやこれに抵抗する能はず{{r|随|したがつ}}て真理より失墜し背走して憂患の勝つ所となるべきを知ればなり、これ誘惑なくしても神に悦ばるゝを得るならば我等{{r|俄|にはか}}に誘惑に陥るを免れん様に祈祷すべきを命じ給へるなり。
四十、 今より全力を{{r|尽|つく}}して身体をいやしめ霊魂を神に{{r|托|ゆだ}}ねて主の名の為めに誘惑と開戦せん。そも〳〵<u>イオシフ</u>を{{r|埃及|エジプト}}の地に救ひて貞潔の標準をあらはし<u>ダニイル</u>を獅穴に無害をもて守り三人の少者を火炉に守り、<u>イェレミヤ</u>を泥溝より助け{{二重線|ハルディヤ}}の軍営に於て彼に{{r|憐|あわれ}}みを{{r|賜|たま}}ひ<u>ペートル</u>を戸の{{r|閉|とざ}}されたる獄より引出し<u>パウェル</u>を{{r|猶太|ユダヤ}}人の集会より救ひし者、これを略言すれば常に{{r|何|いづれ}}の処何れの地にも其の僕と{{r|同|おなじ}}く在りてこれに其力と勝利をあらはしこれを多くの非常なる場合に守り其のあらゆる憂愁に於てこれに助けをあらはせる者は我等をも堅むべく又我等を取巻く所の波浪の内より救ふべし。
四十一、 {{r|願|ねがは}}くは我等の{{r|霊|たましい}}にも{{r|魔鬼|まき}}と其の{{r|宰|つかさ}}たる者に対して<u>マッカウェイ</u>及び聖なる諸預言者及び使徒及び致命者及び{{r|克肖者|こくしょうしゃ}}と義人等が有したる如きの熱心あらんことを、彼等は{{r|最|いと}}危険なる誘惑の時に{{r|當|あた}}り世と身とを背後に投げすてゝ義に堅立し其の霊魂と共に身体をもめぐる所の危きに自から勝利を譲らずして勇気にこれを克服したりき。彼等の名は其の一代記に録されて其の教道は我等の教訓となり又堅固となるが為めに守らる、これ彼等の履歴を目前に有してこれを生活なる且激励せらるべき{{r|亀|き}}{{r|鑑|かん}}となし彼等の{{r|途|みち}}を歩みつゝ智者となりて神の途を認識せんが為めなり。されば諸義人の{{r|傳|でん}}は温良なる者の耳に渇想せらるゝこと{{r|猶|なほ}}{{r|夫|か}}の近頃植えたる植物に要する不断なる滋潤の如し。
四十二、 太初より今に至る迄一切を保護し給へる神の照管を智識に{{r|蓄|たくは}}ふること{{r|猶|なほ}}弱き目の為めに或る善良なる療法の如くすべし。此れが記憶をいづれの時にも守り此を回想し此を{{r|掛|け}}{{r|念|ねん}}して己の為めに教訓を此より引出すべし、汝をして神の尊貴の大なるを{{r|憶|おも}}ふの記憶を己の心中に守るに練習せしめんが為めなり、又我等が主<u>ハリストス</u> <u>イイスス</u>に於ける永遠の生命を己の心中に得しめんが為めなり、けだし彼は神とし又人として神と人との{{r|仲保者|ちゅうほしゃ}}となり給ひし者なればなり。
四十三、 {{r|何|いづれ}}の情欲にか打負かさるゝ者にして{{r|仆|たふ}}るゝある時は己が天父の愛を忘れざるべし、さりながらもし彼れ種々の犯罪に陥るの場合ある時には善事に熱心して{{r|息|や}}まざるべし。己の進行を{{r|礙|ささ}}へられざるべし、{{r|然|しか}}のみならず{{r|新|あらた}}に征服せらるゝ者も{{r|起|た}}ちて己の敵と戦ふべく自ら此世を{{r|逝|さ}}るに至るまでは{{r|預言者|よげんしゃ}}の{{r|言|ことば}}を口に有して日々に其の破壊せられたる家に{{r|基|もとい}}を置くを始むべし、曰く『我が敵よ我が為めに悦ぶことなかれ、{{r|仆|たふ}}るゝも{{r|復|ま}}た起きん、もし{{r|暗|くら}}きに{{r|居|お}}るも主は光となり給ふ』〔[[ミカ書(口語訳)#7:8|ミヘイ七の八]]〕而して自己の死に至るまで呼吸のあらん間は少しくも休戦せざるべし、たとへ敗北の時といへども己の{{r|霊|たましい}}を勝利に渡さゞるべし。然れどももし其の小舟が毎日打砕かれ積荷は{{r|悉皆|しつかい}}破壊するの難に逢ふある時には自ら{{r|慮|おもんばか}}り自ら{{r|貯|たくは}}ふるを{{r|止|や}}めざるべく借り集むるだになして他の舟に移り希望をもて{{r|浮|うか}}ばんことを{{r|止|や}}めざるべし、以て主が己の苦行を{{r|眷|かえり}}み己の悲嘆に憐みを垂れ己れに其の仁慈を{{r|降|くだ}}して己れに敵の{{r|火箭|ひや}}を{{r|逢|むか}}ひ且忍耐するの強き奨励を與ふるの時に及ぶべし。己の希望を失はざる智なる病者はかくの如し。
四十四、 或る慈善なる神父のいへらく『{{r|子輩|こら}}よもし汝等は{{r|真|まこと}}に徳行に志すの苦行者にして汝等に真実の熱心あらば汝等の心を<u>ハリストス</u>の前に清潔なるものとしてあらはし其の意に適する所の{{r|行|おこない}}を為さんとの{{r|望|のぞみ}}を起すべし。けだし我等はこれが為めに天然の諸欲と此世の抵抗と常に{{r|止|や}}まざる魔鬼の謀慮と其の悉くの悪計とによりて起る所のもろ〳〵の{{r|戦|たたかい}}を必ず防ぎ守らざるべからざればなり。{{r|戦|たたかい}}の猛烈なるが連綿として長く続くを畏るなかれ、{{r|慄|おのの}}くなかれ、もし或は汝等に一時失脚して罪を犯すの変事あらんも失望の淵に陥るなかれ。さりながらたとへ此の大なる戦に於ていかなる害をうけ面を撃たれ傷を負ふことあらんもそは汝等の善良なる目的に進行するを少しくも妨げざるべし。されば汝等が既に選びし所の行為を殊に{{r|大|おほい}}に固く守りて其の希望したる且賞讃すべきの終りに達せしむべし、即ち戦に於て堅固にして勝たれざる者となり己が負傷の血に染まる者とならざらんが為めなり。されば如何にしても其の敵と闘ふを{{r|廃|や}}むるなかれ』。
四十五、 我が約束を偽り又我が良心を蹂躙して魔鬼に手を貸し彼れをして小となく大となく{{r|何|いづれ}}の罪にか我を引誘したるをもて自ら誇らしめ其の霊魂の挫折せられし部分をもて敵の面前に{{r|復|ふたた}}び立つ能はざる所の修道士{{註|及びすべての「ハリステアニン」}}は{{r|禍|わざわい}}なり。彼は其の親友の既に清潔に達して{{r|互|たがい}}に逢迎する時何の顔をもて裁判者の前にあらはれんとするか。彼は其途上に於て親友と相別れて滅亡の{{r|逕|こみち}}を行き{{r|克肖者|こくしょうしゃ}}が神前に有する所の勇気を失ひ又清き心より{{r|出|い}}でて神使の軍よりも高く昇さるべき所の祈祷を失へり、即ち其の願ふ所を未だうけずして其の献ぐる所の口に喜びと共に帰らざる迄は何物を以ても禁ぜられざる所の祈祷を失へり。且や{{r|最|もつとも}}怖るべきは彼は{{r|茲|ここ}}に其の途上に於て親友と相別れし如く<u>ハリストス</u>主が其の潔白をもて光り輝く所の体を清明の雲に乗せて其の{{r|巓|いただき}}に持ち去りこれを天上の門に立たしむるの日に於て彼を其親友と別れしむること是れなり。
四十六、 己の心を欲より守る者は毎時主を見ん。神を常に思念する者は己れより魔鬼を{{r|逐|お}}ひそが憎悪の種子を{{r|絶|たや}}さん。毎時己の霊魂に目在する者の心は啓示をもて{{r|楽|たのし}}まん。智慧の視覚を自ら内部に集中する者は己れに於て霊神上の{{r|天映|ゆふやけ}}を見ん。智識のもろ〳〵の飛揚を軽んずる者は自己の心内に於て己の主宰を見ん。
四十七、 もし其の由りて以て萬物の主宰を見るを得べき所の清潔を愛するならば誰をも議するなかれ、其兄弟を議する者の{{r|言|ことば}}を聴くなかれ。もし他の人々が汝の側に於て紛争するあらば己の耳を{{r|蔽|おほ}}ふて其処より逃ぐべし{{r|汝|なん}}ぢ怒れる者の{{r|言|ことば}}をきかざらんが為めなり、又汝の霊魂が生命を奪はれて死せざらんが為なり。{{r|忿然|ふんぜん}}として怒れる心は己れに神の奥旨を{{r|容|い}}れず、されども温良謙遜なる者は新世界の奥旨の泉なり。
四十八、 もし汝は潔きを得ば汝の内部に天ありて諸神使と其の光とを自ら己れに於て見ん、且彼等と共に彼等によりて神使の主宰をも見ん。
四十九、 己の舌を守る者は終生舌の為めに盗み去られざらん。沈黙の口は神の奥旨を解釈す、されども{{r|言|ことば}}に{{r|急遽|きゅうきょ}}なるは自己の造成者より遠ざかる。舌を{{r|噤|つぐ}}む{{r|者|もの}}はすべて己の外部に於て謙遜と秩序とを得ん、且彼は労なうして情欲を統御せん。
五十、 物体の海の寂然として{{r|静|しずか}}なる時は{{r|海豚|いるか}}躍りて浮ぶが如く心の海に於ても憤激と怒気の寂黙穏静なるあるや毎々奥旨と神出なる啓示とは彼れに躍るありて心を楽ましむるなり。
五十一、 間断なく{{r|思|おもい}}を神に{{r|潜|ひそ}}むるにより欲は根を{{r|絶|たや}}さるべく且背走すべし。これ欲を殺すの{{r|劒|つるぎ}}なり。己れの内部に於て主を見んと願ふ者は神を絶えず記憶するが為めに己の心を{{r|潔|きよ}}むるに尽力するを為す、かくの如くなれば其智識の目の明瞭なるによりて彼は毎時主を見ん。水より出たる魚に有るべき所のものは神の記憶を失ひ世の記憶にて飛揚する所の智識にもこれ有らん。
五十二、 人々と会談するより遠ざかる程は人は己の智識にて{{r|敢|あえ}}て神と会談するを{{r|賜|たまは}}るべく又此世の慰めを自ら絶つの量に{{r|随|したが}}ひて聖神に於ける神の悦楽を賜はるなり。魚は水の{{r|乏|とぼし}}きが為めに{{r|隕|お}}つる如く神の{{r|助|たすけ}}に由りて生ずる所の聡明なる感動も世の人々と{{r|数々|しばしば}}交際して時を消費する所の修道士の心に尽きん。
五十三、 もゆるが如き熱心をもて己の心に日夜神を{{r|尋|たづ}}ね敵によりて起る所の附着を心に{{r|剿絶|しょうぜつ}}する者は{{r|魔鬼|まき}}の{{r|怖|おそ}}るゝ所となり神と其の{{r|使|つかい}}とに{{r|望|のぞみ}}を属さるゝなり。心霊の{{r|潔|きよ}}き者には其の内部に思想の域あり彼れに光り輝く所の太陽は{{r|至|し}}{{r|聖三者|せいさんしゃ}}の{{r|光|ひかり}}なり、此域の住者の呼吸する空気は{{r|撫恤|ぶじゅつ}}なる{{r|且|かつ}}至聖なる{{r|神|しん}}なり。彼の域に同く坐する者は聖にして無形なる造物なり、然して彼等の生命と喜びと{{r|楽|たのし}}みとは<u>ハリストス</u>なり即ち光よりの光、父よりの光なり。かくの如き者は其の心霊の視覚をもて太陽の光明よりも実に百倍光輝く所の美麗を毎時楽み且これを奇とせんとす。これ{{二重線|イェルサリム}}なり主の{{r|言|ことば}}にいふ如く我等が内部に{{r|隠|かく}}るゝ所の{{r|神|かみ}}の{{r|國|くに}}なり。此の域は即ち神の光栄の雲にしてたゞ心の清き者は入りて其の主宰の顔を見るべく主宰の光の光線にて其の{{r|諸|もろもろ}}の智識を照らさん。
五十四、 {{r|慍|いきどお}}る者、{{r|怒|いか}}る者、名誉を好む者、得るを好む者、腹を悦ばす者、世と交際する者、我意を遂げんと欲する者、短慮にして欲に充たさるゝ者、すべてかくの如き者等は生命と光の域の{{r|外|そと}}にあらん、けだし此の域は其の心を清潔になしゝ者の領分なればなり。
五十五、 己を{{r|卑|ひく}}うして自ら抑損する者を神は{{r|極|きわめ}}て{{r|賢|けん}}ならしむるなり。されども自ら己を{{r|極|きわめ}}て賢なりと思ふ者は神の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}より離れ落ちん。
五十六、 貞潔謙遜にして{{r|言|ことば}}を{{r|恣|ほしいまま}}にするを{{r|嫌|きら}}ひ{{r|忿|ふん}}{{r|怒|ど}}の気を心より{{r|逐|おい}}{{r|出|いだ}}す者は祈祷に立つや己の心中に於て聖神の光を見るべく其の光にて照らさるゝ光輝によりて躍るべく且此の{{r|照|てら}}し輝くの{{r|栄|さかえ}}を見るにより変化して自ら彼れと相似る迄に至るをもて{{r|楽|たのし}}まん。神に観る現象の如く{{r|汚鬼|おき}}の軍勢を{{r|打|うち}}{{r|負|ま}}かすべき所の行為は他にある無し。
五十七、 此の生涯より{{r|逝|さ}}るべきを記憶して此世の{{r|楽|たのし}}みに{{r|恋々|れんれん}}たるを節する者は{{r|福|さいわい}}なり、何となれば彼は其の{{r|逝|さ}}る時に於て二倍の尊崇を数回うくべければなり。彼は神によりて生まるゝ者にして聖神は彼れの傳育者たり、彼は生命の糧を聖神をもて心に吸収し其の{{r|香|かおり}}を{{r|嗅|か}}ぎて自ら{{r|楽|たのし}}まん。
五十八、 聖神をもて心に吸収して心霊を聖ならしむ所の火を{{r|冷|ひややか}}にするは世の人々と交際すると多言と百般の談話とに過ぐるはあらじ、神を{{r|識|し}}るの認識を増すと神に親近するとに{{r|資|たす}}くべき所の神の奥旨を{{r|子輩|こら}}と談話するは此の{{r|限|かぎり}}にあらず。けだしかくの如き談話は霊魂を生命に鼓舞し欲の根を絶ち不潔の思念を{{r|寝|いね}}らしむることすべての徳行より{{r|猶|なほ}}有力なればなり。此等の{{r|苦行者|くぎょうしゃ}}と{{r|同|おなじ}}く在りて共に交際するは神の奥旨をもて{{r|富|と}}まさん。
五十九、 常に祈祷に{{r|止|とどま}}る者の食物はすべて{{r|麝香|じゃこう}}の良香よりも又香油の{{r|薫香|くんこう}}よりも{{r|甘|かん}}{{r|美|び}}なり、神を愛する者は此の食物を{{r|価|あたい}}すべからざる珍宝の如く願欲するなり、禁食して固く{{r|警醒|けいせい}}を守り主の為めに労する者の食物より生命の療法を借るべく且其の{{r|霊|たましい}}を死せるが如くなるより{{r|呼|よ}}び{{r|醒|さま}}すべし。けだし至愛者は彼等の{{r|中|うち}}にありて彼等を聖にしつゝ席坐し彼等が災難の{{r|苦|くるし}}みは其の説明すべからざる甘味によりて{{r|鎔解|ようかい}}すべくして{{r|夫|か}}の無形なる天の{{r|奉侍者|ほうじしゃ}}は彼等の聖なる食物とを{{r|庇|かば}}ふべければなり。且我れ一の兄弟が其の己の目をもて{{r|明|あきらか}}に{{r|此|これ}}を見たりしを知る。
六十、 人あり其の実験の一を余に語ること左の如し、曰く『{{r|何|いづ}}れの日ぞや我れ某と談話を為すに日に{{r|乾|かん}}{{r|麵包|ぱん}}三つ或は四つを{{r|喫|きつ}}せり、さて自ら己を{{r|強|つと}}めて祈祷に立つあるや我の智識は神に対して勇気を有せず{{r|思|おもい}}を神に{{r|向|むか}}はしむること能はざりき。さるを我れ会話者と別れて{{r|静黙|せいもく}}に{{r|入|い}}るや初日は我れ{{r|自|みづか}}ら{{r|強|つと}}めて{{r|乾|かん}}{{r|麵包|ぱん}}一と半を{{r|喫|きつ}}し{{r|次|じ}}{{r|日|じつ}}は一を{{r|喫|きつ}}す、されど我が智識の静黙に確立するや{{r|強|つと}}めて一の{{r|乾|かん}}{{r|麵包|ぱん}}を全く喫せんとするに余は能はざりき、されど我が智識は我れ自から{{r|強|つと}}めずといへども{{r|断|た}}えず{{r|侃々|かんかん}}として神と談話し神性の{{r|光耀|こうよう}}は乏しからず我れを照らして{{r|神出|しんしゅつ}}なる光の美を見せしめこれをもて自ら悦楽せり。されども{{r|静黙|せいもく}}の時に{{r|當|あた}}り誰か不意に{{r|来|きた}}るありて一時間といへども我れと小談話を為すや其時余は食を{{r|加|くは}}へざらんことも規則を廃せざらんことも此の光を直視するに智識の弱らざらんことも能はざりき』。
六十一、 我れ{{r|一|いつ}}の{{r|兄弟|けいてい}}の所に在りて目撃したる所次の如し。此の兄弟は夜起きて甚だ長く詩を{{r|誦|しょう}}しぬそれより{{r|俄|にわか}}に規則を{{r|罷|や}}めて己の{{r|面|おもて}}を{{r|俯|ふ}}{{r|伏|ふく}}し而して恩寵が彼の心に燃やしたる熱愛と共に地に{{r|叩頭|こうとう}}すること百回或は{{r|其|その}}{{r|餘|よ}}に至れり。かゝりし{{r|後|のち}}{{r|起|た}}ちて主の十字架に接吻し更に{{r|叩拝|こうはい}}を行ひ又同く十字架に接吻して{{r|重|かさね}}て又其面を{{r|俯|ふ}}{{r|伏|ふく}}したりき。そもかくの如きの常例を彼は{{r|畢生|ひつせい}}守りたりしが其の{{r|屈膝|くつしつ}}の多きこと我れ数にて{{r|言|いひ}}あらはすこと能はざるなり。然り此の兄弟が毎夜なしたる叩拝は誰かこれを{{r|数|かぞ}}へ得んや。畏れと熱愛とをもて及び{{r|虔恭|けんきょう}}にて鎔解せられたる愛をもて彼は二十次十字架を接吻し更に{{r|復|ま}}た叩拝と誦詩とをなし始めたり、されど或る時には彼れ此の熱愛にて{{r|灼|や}}く所の思念の大なる奮熱により其の火焔の烈しきに堪へ得ざりしや喜びの勝服する所となり自ら禁ずる能はずして{{r|俄|にわか}}に{{r|叫|さけ}}びたりき。さて彼れ{{r|晨|あした}}に読誦の為めに坐したる時は恰も囚人の如くなりき、而して{{r|其|その}}読む所の連章の間に於て一回ならず己が{{r|面|おもて}}を俯伏し且其の{{r|許多|あまた}}の節條の間に於て其の手を天に挙げて神を讃栄したりき。
六十二、 我れ一の老人よりきけり、曰く『すべて身体を{{r|労|つか}}らすことなく心を砕くことなきの祈祷は流産したる胎実と一に帰す、何となればかゝる祈祷は己に精神を有せざればなり』。
六十三、 「ヘルウィム」に似たるものとなれ、而して汝と神との{{r|外|ほか}}他に地上に於て汝を{{r|慮|おもんばか}}らんとする所の者ありと思ふなかれ。
六十四、 {{r|或|あるい}}は祈祷上の歓楽あり、或は祈祷上の直覚あり、後者の前者より高き数等なるは成全なる人の不成全なる童子より高きが如し。時として詩句が極めて口に甘美にして他の句に移るをゆるさず祈祷に於て一句の{{r|言|ことば}}を{{r|算|かぞ}}ふ{{r|可|べか}}らざる程反復するに祈祷者{{r|飽|あ}}くを知らざることあり。又時として祈祷により或る直覚の生ずるありて其の口頭の祈祷を{{r|断|た}}たんに其直覚によりて祈祷する者身体の麻痺するだも{{r|暁|さと}}らざることあり。かゝる形状を我等は名づけて祈祷上の直覚といふ、されどもこは{{r|示|じ}}{{r|現|げん}}及び{{r|大悦|エクスターズ}}に非ず又は或物の妄想的幻像にもあらざるなり。
六十五、 凡そ神が人類に賜ふ所の律法と誡命の旨趣は諸父の{{r|言|ことば}}によるに心の清きをもて限度{{註|かぎり}}とするが如く祈祷の悉くの種類及び形状、即ち人々がこれをもて神に祈願する所のものも{{r|亦|また}}清き祈祷をもて限度とはするなり。けだし慨嘆も{{r|跪坐|きざ}}も熱心なる{{r|願|ねがい}}、{{r|最|いと}}甘美なる{{r|呼籲|こゆ}}も祈祷の悉くの形状も清き祈祷をもて限度と為すべくして{{r|唯|たゞ}}此の祈祷に至る迄に拡充するを得るのみなればなり。祈祷に{{r|於|おけ}}るの苦行は即ち{{r|唯|たゞ}}此の祈祷に至る迄なり、されば此の限度の外にありては{{r|最早|もはや}}大悦にして祈祷にはあらざるべし何となれば祈祷に属するものは{{r|悉皆|しつかい}}終りて或る直覚の{{r|来|きた}}り{{r|到|いた}}るあればなり。
六十六、 誡命を行ひそれによりて心霊の清きに達せし者は数千人中{{r|僅|わづか}}に一あるが如く大なる勉励と{{r|儆醒|けいせい}}とにより清き祈祷に達するを賜はりし者も数千人中一あるのみなり、されども最早此の祈祷の外にある所の奥密に達したる者は世より世に入りて{{r|僅|わづか}}にこれを見るべし。
六十七、 祈祷とは{{r|或|あるい}}は求望或は感謝或は讃栄を包含するの祈願是なり。祈祷の動作は此の{{r|三|みつ}}の動作をもて限らるゝなり。されば祈祷の{{r|潔|きよき}}と{{r|不|ふ}}{{r|潔|けつ}}とは{{r|繋|つなぐ}}る所{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}し、智識が此動作の一を{{r|献|ささ}}ぐるに準備せらるゝ時に{{r|當|あた}}りてこれに或る他の意思又は或る他の思慮の{{r|来|きた}}り{{r|混|こん}}ずるある時は其の祈祷は{{r|潔|きよ}}きものと名づけられざるなり。
六十八、 諸聖人は其の智識を聖神にて{{r|渦入|まきこま}}るゝ所の来世に於ては祈祷にて{{r|禱|いの}}るあらず、彼等を{{r|楽|たのし}}ましむるの光栄に{{r|大悦|たいえつ}}と共に定住するなり。我等にもかくの如きあらん。もし智識が来世の福楽を感ずるを{{r|賜|たま}}はるや彼は自己をも忘れ、すべて{{r|此処|ここ}}にある者をも忘れて己れに於ては{{r|最早|もはや}}何物にも感動を有するあらざらん。通常智識は感覚と思念の摂理者にして情欲の王たるなり、さりながら聖神の統治の彼れに主たる時は其の権を{{r|取上|とりあげ}}らるゝにより{{r|最早|もはや}}導かるゝあるべきも導くことあらざらん。されば天然が己れの上に権を有するあたはずして他の力をもて導かれ自ら{{r|何処|いづこ}}に行くを知らざるやこれと同時に其の天然を捕へたる力の占有する所となり其の力をもて{{r|何処|いづこ}}に導かるゝを覚知せざるに{{r|當|あた}}りては其時何処に祈祷あるべけんや。其時人は{{r|体|からだ}}の{{r|中|うち}}にあるか{{r|将|は}}た{{r|体|からだ}}の{{r|外|そと}}にあるだも知らざるなり〔[[コリント人への第二の手紙(口語訳)#12:2|コリンフ後十二の二]]〕。されば{{r|最早|もはや}}{{r|夫|か}}{{r|程|ほど}}心の奪はるゝありて自から己を意識せざる者に於ては祈祷は{{r|豈|あに}}あるべけんや。
六十九、 かゝる形状は祈祷の通常の動作を有せずといへどもさりながらこは神の前に立つものなるに{{r|因|より}}ても又此の恩寵を祈祷の時に於て堪能者に{{r|與|あた}}へられて其の{{r|始|はじめ}}を祈祷に於て有するものなるに{{r|因|より}}ても亦同く祈祷と名づけらるゝなり、けだしかくの如きの時を{{r|除|のぞき}}て此の栄誉ある恩寵の降るべき位置あらざればなり。他時に於ては恩寵は位置を有せず。けだし{{r|許多|あまた}}の聖人が一代記に録する如く祈祷に立ちて心を奪はれしことは汝の知る所なり。さりながらもし誰か汝に向つて何故此の時に於てのみ{{r|此|かか}}る大なる{{r|且|かつ}}言ふ可らざる{{r|賜|たまもの}}ありやと問ふあらば答へていふべし此の時に於てはすべて他時に於るよりも人は自ら己の心を集中し神に注意するに準備するありて神よりの仁慈を願望{{r|企|き}}{{r|待|たい}}するによるなりと。これを略言すればこは王に嘆願せんが為めに王門に立つの時なり、されば嘆願し且呼ぶ者の{{r|願|ねがい}}を此時に於て充たしめらるゝこと{{r|適當|てきとう}}なり。けだし人がかくの如く準備しかくの如く自己を看守するを得るは祈祷の時を{{r|除|のぞき}}ていかなる時あるべけんや。けだし諸聖人は其のすべての時を霊神上の事にて占領せらるゝにより閑散の時を有するあらずといへども彼等にも祈祷に準備せざるの時あるべし。けだし{{r|或|あるい}}は生活上遭遇する所のものを思念するが為め或は萬物を観察するが為め或は他の実に有益なる所の者の為めに占有せらるゝこと稀なるにあらざればなり。然れども祈祷の時に於ては智識の直覚力は独一の神に注ぎ其のすべての進行を彼れに向け勉励と連綿たる熱愛とをもて中心より彼れに祈願を{{r|献|ささ}}げんとす。故に心に唯一の配慮あるの時に於て神の慈愛の流れ出づることは{{r|適當|てきとう}}なり。
七十、 凡て諸聖人にあらはるゝの現象は祈祷の時にこれありき。けだし人が神と談話する祈祷の時の如く聖にして又其の聖なるが為め{{r|賜|たまもの}}をうくるに敵當なる他のいかなる時あるべけんや。此の神の前に祈祷と嘆願とを行ひ神と談話する時に於て人は力を{{r|尽|つく}}してあらゆる感動と思念とを{{r|処々|しょしょ}}{{r|方々|ほうぼう}}より一に収束して{{r|思|おもい}}を独一の神に潜め其の心は神にて充たさるゝなり因りて人は及ばざる所のものを会得するなり。けだし聖神は各人の力に応じて其者に働き且や{{r|其|その}}{{r|働|はたらき}}の端緒を其の祈祷する所の者より借りつゝ働くなり、よりて心の動きは祈祷の注意をもて奪はるべく智識は{{r|駭|がい}}{{r|異|い}}の為めに打たれ{{r|且|かつ}}呑まれて{{r|最早|もはや}}此の世にあらざらんとす。
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[[Category:祈祷惺々集|81]]
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<noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>北の方の御子になして男公達も腹々にあまたおはすれど、いづれをも北の方の御子になされけり。このおとゞ入道殿よりは少しなさけおくれ、いちはやくなど坐しければ、心の底にはさのみ歎く人もなかりけるとかや。御わざの夜、御棺に入れ給へる御頭を人のぬすみとりけるぞめづらかなる。御顏のしもみじかにてなかばほどに御目の坐しましければ、外法とかやまつるにかゝるなまかうべの入る事にて、なにがしのひじりとかや東山のほとりなりける人とりてけるとて後に沙汰がましく聞えき。中宮の御事などを深くおぼさるめりしかば、いとほしくあたらしきわざにぞ世の人も思ひ申しける。ありし一事をおばしいでつゝ、誰もあはれに悲しくて女院の御方々もそれをのみのたまはせけり。十二月一日頃皇后宮又御產とて、天下さわぐに、えもいはぬ玉のをのこみ子{{*|後宇多院}}うまれ給ひぬ。おとゞ北の方の御心の中思ひやるべし。今ぞ夜の明けぬる心ちしたまふ。院もいそぎ御幸ありてもてはやし奉らせ給ふ。內より御はかせまゐる。例の夜をへての事どもさながらとゞめつ。近衞の左大臣殿へその頃攝錄わたりぬ。廿二にぞなりたまふ。いとめでたきさまなり。岡のやどのゝ御太郞君ぞかし。御悅申に兩院より御馬ひかる。大宮院御琴、東二條院は御笛など賜物どもいつものことなるべし。西谷殿とり申し、深心院の關白とも申しき。
第九 山のもみぢ葉{{*|六字一本北野の雪}}
正元元年十一月廿六日、讓位の儀式常の如し。十二日廿八日御即位、よろづめでたくあるべきかぎりにて年もかへりぬ。おりゐの御門はしはすの二日太上天皇の尊號ありて、新院とき<noinclude></noinclude>
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<noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>北の方の御子になして男公達も腹々にあまたおはすれど、いづれをも北の方の御子になされけり。このおとゞ入道殿よりは少しなさけおくれ、いちはやくなど坐しければ、心の底にはさのみ歎く人もなかりけるとかや。御わざの夜、御棺に入れ給へる御頭を人のぬすみとりけるぞめづらかなる。御顏のしもみじかにてなかばほどに御目の坐しましければ、外法とかやまつるにかゝるなまかうべの入る事にて、なにがしのひじりとかや東山のほとりなりける人とりてけるとて後に沙汰がましく聞えき。中宮の御事などを深くおぼさるめりしかば、いとほしくあたらしきわざにぞ世の人も思ひ申しける。ありし一事をおぼしいでつゝ、誰もあはれに悲しくて女院の御方々もそれをのみのたまはせけり。十二月一日頃皇后宮又御產とて、天下さわぐに、えもいはぬ玉のをのこみ子{{*|後宇多院}}うまれ給ひぬ。おとゞ北の方の御心の中思ひやるべし。今ぞ夜の明けぬる心ちしたまふ。院もいそぎ御幸ありてもてはやし奉らせ給ふ。內より御はかせまゐる。例の夜をへての事どもさながらとゞめつ。近衞の左大臣殿へその頃攝錄わたりぬ。廿二にぞなりたまふ。いとめでたきさまなり。岡のやどのゝ御太郞君ぞかし。御悅申に兩院より御馬ひかる。大宮院御琴、東二條院は御笛など賜物どもいつものことなるべし。西谷殿とり申し、深心院の關白とも申しき。
第九 山のもみぢ葉{{*|六字一本北野の雪}}
正元元年十一月廿六日、讓位の儀式常の如し。十二日廿八日御即位、よろづめでたくあるべきかぎりにて年もかへりぬ。おりゐの御門はしはすの二日太上天皇の尊號ありて、新院とき<noinclude></noinclude>
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<noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>こゆ。本院と常はひとつに渡らせ給ひて御あそびしげう心やりてなかなかいとのどやかにめやすき御有樣におぼし慰むやうなり。中宮も院號の後は東二條院ときこゆ。二條富小路にぞわたらせ給ふ。おほきおとゞも入道し給ひぬ。常磐井とて大炊御門京極なる所にぞ折々すみ給ふ。この入道殿の御おとゝにその頃右大臣{{small|實雄}}と聞ゆる姬君あまた持ち給へる中に優れたるをらうたきものにおぼしかしづく。今上の女御代にいで給ふべきを、やがてそのついで文應元年入內あるべくおぼしおきてたり。院にも御氣色たまはり給ふ。入道殿の御孫の姬君も參り給ふべき聞えはあれど、さしもやはとおしたち給ふ。いと猛き御心なるべし。この姬君の御せうとのあまたものし給ふ中に{{*|のイ}}このかみにて中納言公宗と聞ゆる、いかなる御心かありけむ、したゝく烟にくゆりわび給ふぞいとほしかりける。さるはいとあるまじき事と思ひはなつにしも、隨はぬ心のくるしさを、おきふし葦の根なきがちにて御いそぎの近づくにつけても、我かのけしきにてのみほれすぐし給ふを、おとゞは又いかさまにかと苦しうおぼす。初秋風けしきだちて艷なる夕ぐれにおとゞわたり給ひて見たまへば、姬君薄色に女郞花などひきかさねて几帳に少しはづれて居給へるさまかたち常よりもいふよしなくあてににほひ充ちてらうたく見え給ふ。御ぐしいとこちたく、五重の扇とかやを廣げたらむさまして少し色なるかたにぞ見え給へど、すぢこまやかに額より裾までまがふすぢなくうつくし。たゞ人にはげにをしかりぬべき人がらにぞおはする。几帳おしやりてわざとなく拍子うちならして、御箏彈かせ奉り給ふ。折しも中納言參り給へり。「こち」とのたまへば、うちかしこま<noinclude></noinclude>
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<noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>りて、御簾の內にさぶらひ給ふさまかたち、この君しもぞ又いとめでたく飽くまでしめやかに心の底ゆかしうそゞろに心づかひせらるゝやうにて、こまやかになまめかしうすみたるさましてあてにうつくし。いとゞもてしづめてさわぐ御胸を念じつゝ用意をくはへ給へり。笛すこし吹きなどし給へば雲ゐにすみのぼりていとおもしろし。御箏の音のほのかにらうたげなる搔き合せの程なかなか聞きもとめられず淚うきぬべきを、つれなくもてなし給ふ。撫子の露もさながらきらめきたる小袿に、御ぐしはこぼれかゝりて少し傾ぶきかゝり給へる、傍めまめやかに光を放つとはかゝるをやと見え給ふ。よろしきをだに人の親はいかゞはみなす。ましてかく類ひなき御有樣どもなめれば世に知らぬ心の闇に惑ひ給ふもことわりなるべし。十月廿二日參り給ふ儀式これもいとめでたし。出車十輛、一の車の左は大宮殿、二位の中將もとすけのむすめとぞ聞えし。二の左は春日三位の中將さねひらのむすめ、右は新大納言、この新大納言は爲家の大納言のむすめとかや聞えしにや。それよりも下はましてくだくだしければむつかし。御ざうし靑柳、梅枝、高砂、ぬき川と言し。この貫川を御門忍びて御らんじて姬宮一所いでものし給ひき。その姬宮は末に近衞關白{{small|家基}}の北の政所になり給ひにき。萬の事よりも女御の御さまかたちのめでたくおはしませば上もおぼしつきにたり。女御は十六にぞなり給ふ。御門は十二の御年なれば、いとおとなしくおよすげ給へればめやすきほどなりけり。かの下くゆる心ちにもいとうれしきものから心は心として胸のみ苦しきさまなれば、忍びはつべき心ちし給はぬぞ、遂にいかになり給はむといとほしき程もなく后だ<noinclude></noinclude>
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<noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>ちありしかば、おとゞ心ゆきておぼさるゝ事かぎりなし。西園寺の女御もさし續きて參り給ふをいかさまならむと御胸つぶれておぼせどさしもあらず。これも九つにぞなり給ひける。冷泉のおとゞ{{small|公相}}の御むすめなり。大宮院の御子にし給ふとぞ聞えし。いづれも離れぬ御中にいどみきしろひ給ふ程、聞きにくき事もあるべし。宮づかへのならひかゝるこそ昔人はおもしろくはえある事にし給ひけれど、今の世の人の御心どもはあまりすくよかにてみやびをかはす事のおはせぬなるべし。これも后に立ち給へば、もとの中宮はあがりて皇后宮とぞ聞え給ふ。今后は遊にのみ心入れ給ひて、しめやかにも見え奉らせ給はねば、御おぼえ劣りざまに聞ゆるを思はずなる事に世の人もいひさたしけり。父おとゞも心やましくおぼせど、さりともねびゆき給はゞと唯今はうらみ所なくおぼしのどめ給ふ。かくて弘長三年きさらぎの頃、大かたの世の景色もうらゝかにかすみわたるに、春風ぬるく吹きて龜山殿の御まへの櫻ほころびそむるけしきつねよりも殊なれば、行幸あるべくおぼしおきつ。關白{{*|二條殿良實}}この三とせばかり又かへりなり給へば、御隨身ども花を折りて行幸よりもさきに參りまうけ給ふ。その外の上達部も例のきらきらしきかぎり殘るはすくなし。新院も兩女院も渡らせたまふ。御まへの汀に船どもうかべて、をかしきさまなる童四位の若きなどのせて、花の木かげより漕ぎいでたるほどになくおもしろし。舞樂さまざま曲など手をつくされけり。御あそびの後人々歌たてまつる。花契遐年といふ題なりしにや。內の上の御製、
「たづねきてあかぬ心にまかせなば千とせや花のかげにすごさむ」。
{{nop}}<noinclude></noinclude>
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