Wikisource jawikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.39.0-wmf.23 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikisource Wikisource・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク 作者 作者・トーク Page Page talk Index Index talk TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク Gadget Gadget talk Gadget definition Gadget definition talk Wikisource:削除依頼 4 2245 188211 188188 2022-08-05T05:26:35Z 鐵の時代 8927 /* (*)中華人民共和国外交部声明 - ノート */ 削除票 wikitext text/x-wiki {{Policy|さくしよいらい}} {{削除依頼}} == 2010年4月 == === [[序文 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:序文 (フランシスコ会訳)|ノート]]=== * 削除依頼の理由:著作権侵害の虞 フランシスコ会訳聖書の[[創世記 (フランシスコ会訳)]]は、団体名義の著作物で、1958年の発表から50年以上過ぎています。したがって、著作権保護期間は切れ、パブリックドメインの状態にありWikisourceへの投稿は問題ありません。  一方で、同書の序文は、Maximilien de Furstenbergの署名が入っているので、「フランシスコ会」の著作物でなく、M. de Furstenbergの著作物と看做すべきものではないかとの疑義が、[[利用者:Jovanni|Jovanni]]さんから出されました。Furstenbergは1988年に逝去されていますので、その場合は、序文は著作権の保護期間内にあり、Wikisourceへ登録はできないことになります。 つきましては、序文を削除すべきかどうかの審議をお願いします。 * 著作権法(参考) 第四節 保護期間 *(保護期間の原則) 第五十一条 著作権の存続期間は、著作物の創作の時に始まる。 2 著作権は、この節に別段の定めがある場合を除き、著作者の死後(共同著作物にあつては、最終に死亡した著作者の死後。次条第一項において同じ。)五十年を経過するまでの間、存続する。 *(無名又は変名の著作物の保護期間) 第五十二条 無名又は変名の著作物の著作権は、その著作物の公表後五十年を経過するまでの間、存続する。ただし、その存続期間の満了前にその著作者の死後五十年を経過していると認められる無名又は変名の著作物の著作権は、その著作者の死後五十年を経過したと認められる時において、消滅したものとする。 *(団体名義の著作物の保護期間) 第五十三条 法人その他の団体が著作の名義を有する著作物の著作権は、その著作物の公表後五十年(その著作物がその創作後五十年以内に公表されなかつたときは、その創作後五十年)を経過するまでの間、存続する。 --[[利用者:Bethlehem4|Bethlehem4]] 2010年4月18日 (日) 09:05 (UTC) Maximilien de Furstenberg師の著作であることと師が著作権者であることとは同一ではありません。団体へ著作権が譲渡されていることもありえます。まずフランシスコ会に問い合わせてみればどうでしょうか。可能なら公開のお許しをいただけるかもしれませんし。--[[利用者:Aphaia|Aphaia]] 2010年5月4日 (火) 00:22 (UTC) : 著作権の譲渡があっても、著作権の保護期間には影響はありません。保護期間は、著作権者ではなく著作者を基準に判断するためです。その他、wikisourceのサーバは米国内にあるはずであり、[[:w:著作権の準拠法#インターネットと保護国法(公衆送信権の扱い)|公衆送信権の準拠法]]の観点からは米国の著作権法も考慮しなければならないはずですが。--[[利用者:Daken|Daken]] 2010年5月4日 (火) 01:34 (UTC) ::あまり議論がすすまないようなので、自己レスですが、投稿します。本件は、本全体としては著作権保護期間をすぎているが、一部分が著者の死後50年未満のため、著作権保護違反である例です。その場合の著作権の扱いは、4通り考えられます。 1)本の著作権保護期間は過ぎているが、前書きは著作権違反しており、前書きだけ削除が必要。 2)本の著作権保護期間は過ぎているので、本全体としての著作権違反は無く、前書きも含めて削除の必要は無い。 3)本の著作権保護期間は過ぎているが、前書きは著作権違反しており、そのため本全部の削除が必要。 4)本の著作権保護期間は過ぎているが、前書きは著作権違反しており、そこで本文を削除して、前書きを残す。 ::4)は明らかに、論理的におかしいので除外しても良いでしょう。そうすると、今回のケースに該当するのは1)から3)のいずれかになります。ある著作の「一部分が保護期間を過ぎておらず、その他の部分が保護期間を過ぎている」場合は、「保護期間を過ぎていない部分を他から分離できれば」、「保護期間を過ぎている、分離された残りの部分の著作権は切れたことになる」説明を見つけましたので今回の場合は1)であり、前書き削除と判断しました。 ::さて、フランシスコ会への問い合わせの件ですが、[[利用者:Bethlehem4|Bethlehem4]]としては、「Wikisourceは著作権が切れている著作を投稿する場」だと思っていますので大変申し訳ありませんが、そこまでする気はありません。もっとも、どなたかフランシスコ会に問い合わせて頂いて色よい返事をいただければ、それはそれで素晴らしいことと存じます。 ::「wikisourceのサーバーが米国内にある・・・」の件ですが、リンク先を読む限り、まだ色々な議論がなされている程度の話しですね。個人的には著作権法は国内法ですので国内でWikisourceを見ている分には問題ないと考えています。もし国内法が外国の法律によって影響を受けると大混乱は避けられないでしょう。たとえば、仮に「聖書を見ただけで逮捕」なんて国があったら、Wikisourceで聖書を見た日本人は、全員逮捕されることになります。それは、あまりにも不合理です。まあ、著作権の専門家の方に定説を聞いてみたいですね。--[[利用者:Bethlehem4|Bethlehem4]] 2010年6月27日 (日) 06:06 (UTC) * (削除) 依頼文とは少々異なる理由ですが、削除に投票します。[[序文 (フランシスコ会訳)]]の日本における著作権の保護期間を短く計算すると、[[創世記 (フランシスコ会訳)]]は1958年に発行された書籍ですので、2008年までが日本での著作権の保護期間です。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。2053年までがアメリカ合衆国での著作権の保護期間です。一方、Maximilien de Furstenbergさんの没年を起点に著作権の保護期間を計算しても、同様にアメリカ合衆国での著作権が復活します。つまり、[[序文 (フランシスコ会訳)]]がフランシスコ会聖書研究所の団体著作物であっても、Maximilien de Furstenbergさんの著作物であっても、2022年現在もアメリカ合衆国におけて著作権の保護期間中なのです。以上から著作権侵害の虞があるため、削除に投票します。なお、[[創世記 (フランシスコ会訳)]]を底本とした作品も同様に削除しなければなりませんが、それについてはこの節ではなく後日別途削除依頼を提起します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年1月8日 (土) 17:39 (UTC) == 2012年7月 == === (*)[[銀河鉄道の夜]] - [[ノート:銀河鉄道の夜|ノート]]=== * 著作権侵害。著作物を構成する草稿の著作権は宮沢賢治にあり、その著作権の保護期間は逝去後50年を経て満了しています。しかし、本作は遺作であり、草稿の採否や順序等で様々な研究が存在し、編集者により様々な版が存在するという事情を抱えています。今回のソースは青空文庫であり、青空文庫の底本は新潮社を用いており、新潮社の団体の発行物としての編集著作権の保護期間は発行後50年経っておらず、著作権の保護期間にあると考えるべきと思われます。即時削除申請しましたが、差し戻されたという経緯があります。ノートに削除議論があるので、そちらもご参照ください。なお、削除後は編集著作権も満了している岩波書店版での再投稿を行う予定です(旧字旧仮名遣い及び新字新仮名遣い変換版)。--[[利用者:Akaniji|Akaniji]]([[利用者・トーク:Akaniji|トーク]]) 2012年7月27日 (金) 14:43 (UTC) ** (削除) 依頼者票 --[[利用者:Akaniji|Akaniji]]([[利用者・トーク:Akaniji|トーク]]) 2012年7月27日 (金) 14:43 (UTC) ** (コメント) 焦点となるのは新潮社の編集著作権ではなく、新潮文庫版が底本としている1980年刊『新修宮沢賢治全集 第12巻』の校訂者([[w:宮澤清六|宮澤清六]]、[[w:入沢康夫|入沢康夫]]、[[w:天沢退二郎|天沢退二郎]]の三氏?)の著作権ではないでしょうか。青空文庫では過去に校訂者の著作権に関する議論があり、校訂者の著作権が消滅していない岩波文庫版「風姿花伝」の収録を差し控えるという判断がなされたようです([http://www.aozora.gr.jp/houkokusyo/koteisha/koteisha.html 校訂者の権利に関する報告 1997年12月17日])。新潮文庫版「銀河鉄道の夜」はそれ以前から青空文庫に収録されており([http://www.aozora.gr.jp/soramoyou/soramoyou1997.html そらもよう 1997年10月29日])、校訂に関する議論を経ないまま現在に至っているのかもしれません。--[[利用者:庚寅五月|庚寅五月]]([[利用者・トーク:庚寅五月|トーク]]) 2012年7月28日 (土) 14:46 (UTC) **(保留)遅くなり申し訳ありませんが、一度即時削除に反対した者です。Akanijiさんが主張されている、これが編集著作物であるとの主張には納得していないのですが、校訂者の著作権存続を理由とした議論には納得します。ただし私はWikisourceに目立った貢献をしていない利用者ですので、賛成票として発言するのは控えます(削除に反対は致しません)。--[[利用者:朝彦|朝彦]]([[利用者・トーク:朝彦|トーク]]) 2012年10月31日 (水) 10:21 (UTC) == 2016年5月 == === [[作者:高木貞治|高木貞治]]氏の著書 === * 削除対象 ** [[代数学講義]](1930年公表) ** [[初等整数論講義]](サブページ含む、1931年公表) ** [[代数的整数論]](サブページを含む、1948年公表) ** [[数の概念]](サブページ含む、1949年公表) * 削除理由:2016年5月12日より著作権の方針が公式化されたことにより、日米著作権法に照らした結果、1960年に亡くなっている高木貞治氏の著書のうち1923年1月1日以降に公表されたものについては日本著作権法においてはPDであるが、米国著作権法においては残念ながら著作権侵害になってしまいますので(判定方法は[[Help:パブリックドメイン]]を参照)、上記削除対象につき、著作権侵害を理由とした削除依頼を行います。--[[User:Sakoppi|Sakoppi]]([[User talk:Sakoppi|talk]]・[[:w:ja:User:Sakoppi|jawp]]) 2016年5月19日 (木) 14:23 (UTC) ::<s>方針に従い削除はやむを得ないのですが、高木貞治プロジェクトとして過去に話題になったページだけに本当に惜しいです。現段階で投稿されている文章についてはカナダのwikilivresに移動するなどの救済処置をなんとか取れないものかと思います。</s>--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2016年5月27日 (金) 14:41 (UTC) ::実際的に著作権侵害の申し立てがなされることはほぼ百%ないと思われるこの案件を、果たして杓子定規に削除する必要があるのでしょうか?--[[利用者:Akaniji|Akaniji]] ([[利用者・トーク:Akaniji|トーク]]) 2016年5月27日 (金) 19:35 (UTC) :::(コメント)実際言えば百パーセントとまでは言わないにしても、ほぼ著作権侵害の申し立てをされることはないでしょう。しかし、なぜ今回これらについて依頼に提出したかといいますと、これらの資料はすべてのサブページが完成しておらず、引き続いて投稿される方が出てきたとき、せっかく書き上げたのにもかかわらず、投稿したとたんに削除されてしまうという事態が発生してしまうことを防ぎたいわけです。完全な状態であれば削除するまではないと思いますが。。。 もちろん皆さまが削除すべきでないとご判断されるのであれば、今後は受け入れることができない旨のテンプレート作成するなどして対応したいと考えますが、私としては中途半端な状態になっているものについては削除するほうが良いのではないかと考えております。--[[User:Sakoppi|Sakoppi]]([[User talk:Sakoppi|talk]]・[[:w:ja:User:Sakoppi|jawp]]) 2016年5月29日 (日) 08:16 (UTC) ::::「ほぼ著作権侵害の申し立てをされることはないでしょう。」というのであれば「せっかく書き上げたのにもかかわらず、投稿したとたんに削除されてしまうという事態が発生してしまうこと」もほぼないのではないでしょうか?すでに作業の工数が投下されている以上,代替作業箇所がみつかるまでは削除することは慎むべきだと思います.なお現状,表紙/目次ページにサブページへのリンクが削除してあるのを回復しておきました.[[利用者:おぶろーもふ|おぶろーもふ]] ([[利用者・トーク:おぶろーもふ|トーク]]) 2016年6月19日 (日) 20:06 (UTC) :::::<s>最近、公式化された著作権の方針にかかわる重要な案件になると思います。皆さまご存じのように日本語版Wikisourceはサーバー自体は米国にあり、米国の著作権法に従わねばなりません。また、米国は相互主義をとっていないため、日本の著作権の有効年数を適応することはできません。が、日本国内でPDになったものが、米国で著作権侵害の対象として親告されるかどうかという問題だと思います。これまで投稿(私がしたものも含めて)されたものをどうするかということも含めて、井戸端で議論する必要があるのかもしれません。</s>--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2016年6月23日 (木) 09:42 (UTC) :::::: アンネの日記が同様の問題から削除されましたね: [http://blog.wikimedia.org/2016/02/10/anne-frank-diary-removal/ Wikimedia Foundation removes The Diary of Anne Frank due to copyright law requirements – Wikimedia blog] [[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2016年6月23日 (木) 10:26 (UTC) ::::::: 「アンネの日記」の場合はオットー・フランク(アンネの父)に著作権がある、という解釈があってアンネフランク財団から親告を受け wikiresource から削除されたもの、と解しています。残念ながら今回と同様とはとても考えられません。仮に米国に利益があったとしても日本語で記述された和書に対して米国から親告があるかはなはだ疑問です。 :::::::: ブログ記事を読めば分りますが,オランダでは著作権が切れているとしていますし,オットー・フランクが著作権者である可能性に基づいて削除されたわけではないと思いますよ。また,親告されるかどうかに基づいて削除の適否を決めることはフリーの精神とは相容れないものと思います。 [[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2016年6月28日 (火) 15:48 (UTC) ::::::::: その「フリーの精神」とはどのようなものかご説明いただけますでしょうか?[[利用者:おぶろーもふ|おぶろーもふ]] ([[利用者・トーク:おぶろーもふ|トーク]]) 2016年10月14日 (金) 15:14 (UTC) :::::::::: 日本語版ウィキソースの文章は基本的に複製や翻案などの二次的利用を認めています。そのため、(少なくとも日米両国の法令において)投稿された作品に対してこれらが可能であることを保証しなければなりません。これが「フリーの精神」の意図するところだと思います。したがって、親告の有無を臆測して収録方針を決めるべきではありません。また、「著作権の帰属者がわざわざ訴えを起こすようなことはないだろう」という発想は[[commons:Commons:Project_scope/Precautionary_principle/ja|予防原則]]に反します。--[[利用者:Sat.d.h.|Sat.d.h.]] ([[利用者・トーク:Sat.d.h.|トーク]]) 2016年10月29日 (土) 19:19 (UTC) ::::::<s>その件ならば[http://gigazine.net/news/20160216-anne-frank-diary-removal/ Gigazineの記事]がいいかもしれません。ただ、こちらは親告されたので削除したということも考慮すべきかもしれません。(日本でいえば金子みすゞが該当するかもしれません)</s>--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2016年6月23日 (木) 10:39 (UTC) :現状、審議中ではありますが、恐慌突破を謀ろうとするユーザーがいることからこれを許す場合、訴えられないならなんでも投稿して良いという意味に取られかねません。よって'''方針'''に従い削除を支持いたします。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2016年12月19日 (月) 12:40 (UTC) :本件、ポイントとしては wikisource のサーバーが米国に存在することが問題ということでしょうか?であれば内容を日本国内のサーバーに移行することで解決する問題なのでしょうか?個人でサーバーを立てて内容を移すことが可能かどうか検討したいと思います。[[利用者:オーベール|オーベール]] ([[利用者・トーク:オーベール|トーク]]) 2016年12月23日 (金) 02:41 (UTC) ::本件の最大のポイントはWikisourceのサーバが米国に存在する事であり、日本国内のサーバにあるのであれば没後50年経過していれば全く問題ありません(詳細な法的事項については回答いたしかねます)。内容をオーベールさんが建てられたサーバに内容を移していただいてからでも削除でも問題はありません(そこから先の責任はオーベールさんにあることについてのみはご留意ください。)。 なお、先般のリバート行為はブロック対象になってもおかしくない行為ですので、おやめください。法的に問題がある虞があるということで白紙化していますので。--[[User:Sakoppi|Sakoppi]]([[User talk:Sakoppi|talk]]・[[:w:ja:User:Sakoppi|jawp]]) 2016年12月27日 (火) 14:07 (UTC) :::了解しました。データ移行は着手したばかりであり、相当の時間がかかることが予想されますが、しばらくの間データを保全いただきますようよろしくお願いいたします。リバートについては現状の維持の範囲にとどめておいたつもりです。(それ以上の追記はしないようにいたします。)私のように、他の方の中にも内容をみてデータの移行を検討される方もおられるでしょうから、まったくの白紙化は避けていただきたいものです。[[利用者:オーベール|オーベール]] ([[利用者・トーク:オーベール|トーク]]) 2017年1月1日 (日) 02:54 (UTC) ::青空文庫等どこかに移行したとして、ウィキソースも目録としてくらい、貢献したいところです(ソフトリダイレクト等の形で、という意味)。あと、URAA満了次第、復帰を。未来の2055年のsysopへ。すぐわかるように、テンプレートでも置いておきましょうか。--[[利用者:Akaniji|Akaniji]] ([[利用者・トーク:Akaniji|トーク]]) 2017年1月10日 (火) 12:44 (UTC) * (全削除) 著者の高木貞治さんが1960年に亡くなっていて、かつ依頼対象の出版物が1928年以降に発表されていることを確認しました。これらは1996年のアメリカ合衆国での著作権復活の対象になるため、著作権侵害の虞があります。なお、保護されているサブページを除き、削除対象のページにおいて、創作性があると思われる文の除去と{{tls|Sakujo}}{{tl|Copyrights}}の貼り付けをしました。保護されているサブページは保護解除依頼を出しています([[特別:差分/185977]])。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年5月20日 (金) 15:47 (UTC) === [[君が代の歴史]] === 対象は[[君が代の歴史]]、[[Index:Kimigayo-no rekishi (Yoshio Yamada).pdf]]、[[Page:Kimigayo-no rekishi (Yoshio_Yamada).pdf/13]]~[[Page:Kimigayo-no rekishi (Yoshio_Yamada).pdf/215|215]]。1956年公開のものであり米国法で公開後95年を経過してない為、著作権侵害の虞あり。蛇足ながらテキストは[http://www.kahusi.org/gallery/Kimigayo-no_rekishi/Kimigayo-no_rekishi_%28Yoshio_Yamada%29.html 拙サイトに転記してあります]。--[[User:Kahusi|kahusi]] <small>([[User talk:Kahusi|會話]])</small> 2016年5月31日 (火) 01:39 (UTC) :(報告)[[:commons:Commons:Deletion requests/File:Kimigayo-no rekishi (Yoshio Yamada).pdf|CommonsでPDFファイルが維持と判定されました]]。これを受けて[[:commons:Commons:井戸端#日本法でPDであるファイルの削除依頼について|Commonsでも質問をしている次第です]]。--[[User:Kahusi|kahusi]] <small>([[User talk:Kahusi|會話]])</small> 2016年6月18日 (土) 17:13 (UTC) ::(コメント)Kahusiさんの質問は[[:commons:Commons:井戸端/過去ログ13#日本法でPDであるファイルの削除依頼について|過去ログ]]にアーカイブされたようです。備忘まで。 [[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2016年12月13日 (火) 03:52 (UTC) == 2016年9月 == === [[バラク・オバマの広島での演説]] === : 米国著作権法第105条では合衆国政府の著作物に対して著作権が及ばないことになっていますが、これだけでは日本の著作権法上も問題ないという理由にならず、日本法についても検討しなければなりません。本人の英語原文については[[著作権法#第五款 著作権の制限|著作権法]]第40条により自由に利用できるかと思いますが、大使館による日本語訳については著作権保護の対象になるおそれがあります。詳細は[[w:アメリカ合衆国政府の著作物]]をご参照ください。なお、Wikisourceユーザーによる和訳であれば問題ありません。 --[[利用者:Sat.d.h.|Sat.d.h.]] ([[利用者・トーク:Sat.d.h.|トーク]]) 2016年9月2日 (金) 23:29 (UTC) :*(存続) アメリカ合衆国の政府著作物は日本国法で新たに著作権を取得する事はありません。理由は以下の通りです。 :: 日本における著作権の保護を受けるものは著作権法第6条に定めがあり、外国著作物については三項で「'''条約によりわが国が保護の義務を負う著作物'''」となっています。条約とは『文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約』をさし、同条約第2条(4)において「立法上、行政上及び司法上の公文書並びにその公的な翻訳物に与えられる保護は、同盟国の法令の定めるところによる。」とあり同盟国である著作者の本国の法令により適用除外である場合は保護の義務を負わないと考えられます。よって日本国においては「条約締結国が内国法で保護されるとする著作物は条約締結国において内国民待遇を与える。」と解するのが妥当である。これは条約非締結国の著作物や条約締結国で本国が日本の著作権保護期間より短く著作権保護期間が満了した著作物は日本国法で著作権保護期間に該当しても、戦時加算などの特別な場合をのぞき日本国では保護されないことからも明らかであると考えます(著作権法第58条、連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律関係)。 :: さて今回の翻訳物は駐日本米国大使館によるものですから、米国著作権法第105条の『本編に基づく著作権による保護は、合衆国政府の著作物には及ばない』に該当しますから、本国で著作権が保護される著作物には該当しません。よって日本国内でも同様に保護される著作物には該当しないと解せます。--[[利用者:Vigorous action|Vigorous action]] [[利用者‐会話:Vigorous action|<small>(会話</small>]]<small>/</small>[[特別:Contributions/Vigorous action|<small>履歴)</small>]] 2016年11月17日 (木) 09:43 (UTC) ::* (存続に対する反対意見)まずこの著作物の本国についてですが、英語の演説は日本の広島で行われており、翻訳も駐日大使館が行ったことから、本国はアメリカではなく日本であり、したがって著作権法第6条第3項ではなく第2項(最初に国内において発行された著作物)に該当すると思います。仮に第3項に当てはまる(本国がアメリカである)としても[http://www.cric.or.jp/db/treaty/t1_index.html ベルヌ条約第5条(1)]によれば、「著作者(米国大使館)は、この条約によって保護される著作物に関し、その著作物の本国(アメリカ)以外の同盟国(日本)において、その国(日本)の法令が自国民(日本)に現在与えており又は将来与えることがある権利及びこの条約が特に与える権利を享有する」ことになっています。条約第2条(4)における「同盟国」とはこの場合アメリカ合衆国ではなく日本を指しており、「(アメリカ合衆国の)立法上、行政上及び司法上の公文書並びにその公的な翻訳物に与えられる保護は、同盟国(日本)の法令の定めるところによる」と解すべきではないでしょうか。CENDI(米国連邦政府機関の科学技術情報担当シニア・マネージャーによる省庁間グループ)は[https://cendi.gov/publications/04-8copyright.html#317 米国外では著作権が発生しうるという見解]です。--[[利用者:Sat.d.h.|Sat.d.h.]] ([[利用者・トーク:Sat.d.h.|トーク]]) 2016年11月17日 (木) 14:34 (UTC) == 2016年12月 == === 日本国内においてはPDであるが米国においてはPDではないもの === :私が投稿した外村繁、吉川英治、織田作之助、佐藤春夫の全作品について日本国内においてはPDではありますが、米国においてはPDではない作品について削除を依頼いたします。投稿者希望で即時削除でもいいのですが、管理者に立候補した際に自らの投稿については手を出さないと宣言しておりますので削除依頼といたします。なお、即時削除か審議した上での削除とするか議論いただきたいので各ページには削除依頼のタグは貼り付けておりません。審議をいただいた上でタグを貼り付けいたしたいと思います。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2016年12月19日 (月) 12:37 (UTC) :外村繁の作品 * [[鵜の物語]] - [[中井商店の身上]] - [[澪標 (外村繁)|澪標]] - [[紅葉明り]] - [[夢幻抱影]] - [[春の夜の夢]] - [[最上川]] - [[赤と黒 (外村繁)|赤と黒]] - [[夕映え]] - [[岩のある庭の風景]] - [[落日の光景]] - [[日を愛しむ]] - [[「青空」のことなど]] - [[梶井基次郎のこと]] - [[十一月三日]] - [[梶井基次郎に就いて]] - [[梶井基次郎の覚書 三]] :三好達治の作品 * [[梶井基次郎君の憶出]] - [[梶井基次郎(三好達治)|梶井基次郎]] - [[遠い追憶(三好達治)|遠い追憶]] - [[文学的青春伝]] :織田作之助の作品 * [[猿飛佐助 (織田作之助)]] - [[夫婦善哉]] :佐藤春夫の作品 * [[中国童話集]](サブ頁全部) :吉川英治 * [[三国志 (吉川英治)]](サブ頁全部) 以上が削除対象となるものです。 *(管理者確認)申し訳ありませんが、対象となる記事のリストを掲げていただけると助かります。尚、本確認は削除の賛否を表明する者ではありません。--[[User:Sakoppi|Sakoppi]]([[User talk:Sakoppi|talk]]・[[:w:ja:User:Sakoppi|jawp]]) 2017年4月15日 (土) 06:00 (UTC) **了解いたしました。一覧などを作成してわかりやすくしようと思います。ただ、現実生活のほうが多忙のため、多少お時間をいただきます、申訳ないです。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2017年4月30日 (日) 07:52 (UTC) **対象となる作品の一覧を追加いたしました。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2017年5月16日 (火) 10:20 (UTC) ***こちらの作品は少しづつではありますが、サーバーの設置個所がニュージーランドで著作権的に問題ないWikilivresに移動、こちらに投稿したものは削除を致します。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]] ([[利用者・トーク:Hideokun|トーク]]) 2019年8月11日 (日) 13:30 (UTC) * (全削除) いずれの作品も作者の没年が1946年以降で、1926年以降に発表されたものであることを確認しました。依頼の作品の全削除に投票します。なお、依頼当初は即時削除に該当するか審議するために{{tl|Sakujo}}の貼り付けを省略しているとのことですが、審議が長期化していること、作品がパブリックドメインであると誤解を起こしやすくなることから、{{tl|Sakujo}}と{{tl|Copyrights}}の貼り付けと作品の除去、ライセンステンプレートの除去を行いました。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年11月27日 (土) 15:56 (UTC) == 2021年6月 == === [[十八史略新解]]及びそのサブページ群 === *ここ[https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/sp/pages/344.html]からのコピー&ペースト。加えて、[[十八史略新解/三国志|この部分]]などには[[w:吉川英治|吉川英治]]の『[[w:三国志 (吉川英治)|三国志]]』(作者の没年が1962年で初出が1939年のため、米国にて著作権存続中)からの引用を含んでおり、確実にPDであるとは言い切れないと考えられます。--[[利用者:安東大將軍倭國王|安東大將軍倭國王]] ([[利用者・トーク:安東大將軍倭國王|トーク]]) 2021年6月25日 (金) 09:33 (UTC) : どういう点で著作権侵害なんでしょうか? また、引用を含んではならないというわけではないとは思います。 [[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2021年12月18日 (土) 07:12 (UTC) == 2021年8月 == === [[インディアナ州ウェストフィールド市の人口統計データ]] - ノート === 人工などのデータは、ウィキソースに入れるべきでないだろう。--[[利用者:はいほー|はいほー]] ([[利用者・トーク:はいほー|トーク]]) 2021年8月25日 (水) 07:07 (UTC) : そう考える理由をもうすこしくわしく教えていただけますか? [[Wikisource:ウィキソースとは何か]]のトークページで話しあうべき内容かも知れませんが。 [[利用者:Kzhr|Kzhr]] ([[利用者・トーク:Kzhr|トーク]]) 2021年9月6日 (月) 05:58 (UTC) :* [[:カテゴリ:アメリカ合衆国の各州の人口統計データ]]など多数あり、10年くらいにわたって作成されたものなので削除までどうかと迷う所ではありますが、[[Wikisource:ウィキソースとは何か#ウィキソースでは何を収録し、何を除外するか]]の除外項目の統計的資料に相当するように思います。内容についてもページ単位とかいったまとまった資料データではなく個別地区で抜き出したものであり範疇からずれているように思います。あと最近ではcommonsの収録範囲が拡張され、統計データについてはwikimedia commonsのData名前空間への収録が適切なんだろうと思います。(commonsであれば1ファイル内で多言語対応で、例えば[[:commons:Data:UN:Total population, both sexes combined.tab]]をテンプレートで[[:en:Template:Graph:Lines|線グラフ]]や[[:mw:Template:Graph:Pie from row|円グラフ]]として表示するなど利活用が可能です)。--[[利用者:Camillu87|Camillu87]] ([[利用者・トーク:Camillu87|トーク]]) 2021年9月18日 (土) 12:52 (UTC) == 2021年12月 == === (*)井上紅梅が翻訳した魯迅の作品群 === * <del>[[狂人日記 (魯迅の小説)]] - [[ノート:狂人日記 (魯迅の小説)|ノート]] - 1926年訳文発表</del> * [[風波]] - [[ノート:風波|ノート]] - 1928年訳文発表 * [[薬 (魯迅の小説)]] - [[ノート:薬 (魯迅の小説)|ノート]] - 1928年訳文発表 * [[阿Q正伝]] - [[ノート:阿Q正伝|ノート]] - 1928年訳文発表 * [[孔乙己]] - [[ノート:孔乙己|ノート]] * [[吶喊/自序]] - [[ノート:吶喊/自序|ノート]] * [[些細な事件]] - [[ノート:些細な事件|ノート]] * [[頭髪の故事]] - [[ノート:頭髪の故事|ノート]] * [[明日]] - [[ノート:明日|ノート]] * [[故郷 (魯迅の小説)]] - [[ノート:故郷 (魯迅の小説)|ノート]] * [[端午節]] - [[ノート:端午節|ノート]] * [[白光]] - [[ノート:白光|ノート]] * [[兎と猫]] - [[ノート:兎と猫|ノート]] * [[鴨の喜劇]] - [[ノート:鴨の喜劇|ノート]] * [[村芝居]] - [[ノート:村芝居|ノート]] * [[幸福な家庭]] - [[ノート:幸福な家庭|ノート]] * [[不周山]] - [[ノート:不周山|ノート]] * 上記の日本語訳は[[w:井上紅梅]]さんによる翻訳です。井上紅梅さんは1949年か1950年に亡くなったため、日本における著作権の保護期間は短くとも1999年までです。死亡年が確定的ではないものの、いずれにせよ1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国においては発表から95年間の著作権が復活します。[[w:勝山稔]]さんの[https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2329&file_id=18&file_no=1 改造社版『魯迅全集』をめぐる井上紅梅の評価について]131ページによると、井上紅梅さんが魯迅さんの作品に辿り着き翻訳したものを発表したのは1926年以降です。1926年発表であれば作品は2021年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から上に挙げた作品の全削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月4日 (土) 14:48 (UTC) * (一部取り下げ) 2022年を迎え、1926年発表の作品はアメリカ合衆国における著作権の保護期間を終了したために、1926年訳文発表の[[狂人日記 (魯迅の小説)]]については削除依頼を取り下げます。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年1月1日 (土) 16:49 (UTC) === (*)[[老いたるえびのうた]] - [[ノート:老いたるえびのうた|ノート]] === * 著者の[[w:室生犀星]]さんは1962年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は2012年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国における発表から95年間の著作権が復活します。この作品は1962年に発表されたため、2057年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月4日 (土) 16:40 (UTC) === (*)[[オリンピック賛歌]] - [[ノート:オリンピック賛歌|ノート]] === * 日本語訳者の[[w:野上彰 (文学者)]]さんは1967年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は2017年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国における発表から95年間の著作権が復活します。この訳は1964年の東京オリンピック開催によって付けられたものですので{{PDFlink|[https://www.topics.or.jp/common/dld/pdf/c5f46b50595578ac302b8d332d8f5597.pdf]|3.07MB}}、1926年以降に発表されたものと推測します。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月4日 (土) 17:38 (UTC) === (*)[[原爆詩集]] === * [[原爆詩集/序]] - [[ノート:原爆詩集/序|ノート]] * [[原爆詩集/八月六日]] - [[ノート:原爆詩集/八月六日|ノート]] * [[原爆詩集/死]] - [[ノート:原爆詩集/死|ノート]] * [[原爆詩集/炎]] - [[ノート:原爆詩集/炎|ノート]] 上記の作品は1951年に[https://www.library.city.hiroshima.jp/touge/profile/index.html][[w:峠三吉]]さんが発表したものです。峠三吉さんは1953年に亡くなったため、日本における著作権の保護期間は2003年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国における発表から95年間の著作権が復活します。アメリカ合衆国での著作権の保護期間は2046年までです。なお、ウィキペディアにおいても同様の削除依頼があり、審議の結果版指定削除されました([[w:Wikipedia:削除依頼/原爆詩集]])。著作権侵害の虞から上に挙げた作品の全削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月5日 (日) 16:16 (UTC) === (*)[[群馬県の歌 (1951年)]] - [[ノート:群馬県の歌 (1951年)|ノート]] === * 作詞者の[[w:高橋元吉]]さんは1965年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は2015年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。アメリカ合衆国での著作権の保護期間は2046年までです。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月5日 (日) 16:35 (UTC) === (*)[[狂人日記 (ゴーゴリの小説)]] - [[ノート:狂人日記 (ゴーゴリの小説)|ノート]] === * 訳者の[[w:平井肇]]さんは1946年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は1996年までです。しかし、1996年1月1日時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この日本語訳は1937年(昭和12年)に発表されたため[http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/work/2656578.html]、アメリカ合衆国における著作権の保護期間は2032年までです。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月11日 (土) 16:39 (UTC) === (*)[[私の履歴書]] - [[ノート:私の履歴書|ノート]] === * [[私の履歴書/浅沼稲次郎]] - [[ノート:私の履歴書/浅沼稲次郎|ノート]] * [[私の履歴書/吉井勇]] - [[ノート:私の履歴書/吉井勇|ノート]] * [[私の履歴書/五島慶太]] - [[ノート:私の履歴書/五島慶太|ノート]] * [[私の履歴書/砂田重政]] - [[ノート:私の履歴書/砂田重政|ノート]] * [[私の履歴書/大麻唯男]] - [[ノート:私の履歴書/大麻唯男|ノート]] * [[私の履歴書/金森徳次郎]] - [[ノート:私の履歴書/金森徳次郎|ノート]] * [[私の履歴書/村松梢風]] - [[ノート私の履歴書/村松梢風|ノート]] * [[私の履歴書/鳩山一郎]] - [[ノート:私の履歴書/鳩山一郎|ノート]] * 上の作品群は[[w:私の履歴書]]の記事です。私の履歴書は1956年から連載しているものです。著作権は寄稿した人が持っているのか日本経済新聞社が持っているのかは分かりません(恐らくは寄稿した人だとは思いますが)が、いずれにせよ1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。最も古い記事でも2051年までアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞からサブページも含めて全削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月12日 (日) 05:11 (UTC) === (*)[[死者の書]] - [[ノート:死者の書|ノート]] === * 著者の[[w:折口信夫]]さんは1953年に亡くなったため、日本における著作権の保護期間は2003年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この作品は1939年に発表されたため、2034年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月14日 (火) 12:38 (UTC) 修正。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月14日 (火) 12:40 (UTC) === (*)[[東洋歴史辭典 (小竹文夫)]] - [[ノート:東洋歴史辭典 (小竹文夫)|ノート]] === * [[東洋歴史辭典 (小竹文夫) あ行]] - [[ノート:東洋歴史辭典 (小竹文夫) あ行|ノート]] * [[東洋歴史辭典 (小竹文夫) わ行]] - [[ノート:東洋歴史辭典 (小竹文夫) わ行|ノート]] * 作者の[[w:小竹文夫]]さんは1962年に亡くなったため、日本における著作権の保護期間は2012年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この作品は1953年に発表されたため[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2993628]、2048年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月14日 (火) 16:57 (UTC) === (*)[[茶の本]] - [[ノート:茶の本|ノート]] === * 訳者の村岡博さんは1946年に亡くなっているため[http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/48732.html]、日本における著作権の保護期間は1996年までです。しかし、1996年1月1日時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この翻訳は1929年に発表されたため、2024年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月17日 (金) 16:49 (UTC) === (*)[[讀書子に寄す——岩波文庫發刊に際して——]] - [[ノート:讀書子に寄す——岩波文庫發刊に際して——|ノート]] === * 作者の[[w:岩波茂雄]]さんは1946年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は1996年までです。しかし、1996年1月1日時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この作品は1927年に発表されたため、2022年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月17日 (金) 16:49 (UTC) === (*)[[少年少女]] - [[ノート:少年少女|ノート]] === * 訳者の[[w:三好達治]]さんは1964年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は2014年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この翻訳は1955年に発表されたため[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1692688]、2050年までがアメリカ合衆国での著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月19日 (日) 17:14 (UTC) === (*)[[隣組 (歌曲)]] - [[ノート:隣組 (歌曲)|ノート]] === * 作詞者の[[w:岡本一平]]さんは1948年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は1998年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この曲は1940年に発表されたため、2035年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。なお、同じ曲の歌詞の記載で日本語版ウィキペディアにおいても削除依頼をしています([[w:ja:Wikipedia:削除依頼/隣組 (歌)]])。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月20日 (月) 15:58 (UTC) * (情報) 日本語版ウィキペディアでの削除依頼は歌詞に記載のあった版の版指定削除で終了しました。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年1月2日 (日) 05:41 (UTC) === (*)[[プロバビリティーの犯罪]] - [[ノート:プロバビリティーの犯罪|ノート]] === * 著者の[[w:江戸川乱歩]]さんは1965年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は2015年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この作品は1954年に発表されたため、2049年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2021年12月22日 (水) 17:24 (UTC) == 2022年1月 == === (*)[[欲しくない指輪]] - [[ノート:欲しくない指輪|ノート]] === * 著者の[[w:徳永直]]さんは1958年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は2008年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この作品は1930年に発表されたため、2025年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年1月8日 (土) 08:56 (UTC) === (*)[[涼み床机の怪談三つ]] - [[ノート:涼み床机の怪談三つ|ノート]] === * 著者の[[w:山本禾太郎]]さんは1951年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は2001年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この作品は1934年に発表されたため、2029年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年1月8日 (土) 08:56 (UTC) === (*)[[別れの一本杉]] - [[ノート:別れの一本杉|ノート]] === * 作詞者の[[w:高野公男]]さんは1956年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は2006年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この作品は1955年に発表されたため、2050年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年1月8日 (土) 08:56 (UTC) === (*)[[ルイ・パストゥール]] - [[ノート:ルイ・パストゥール|ノート]] === * 著者の[[w:石原純]]さんは1947年に亡くなっているため、日本における著作権の保護期間は1997年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この作品は1942年に発表されたため、2037年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年1月8日 (土) 08:56 (UTC) === (*)信條集前編を出典とした信条群 === * [[ニカイア信条]] - [[ノート:ニカイア信条|ノート]] * [[カルケドン信条]] - [[ノート:カルケドン信条|ノート]] * [[アタナシオス信条]] - [[ノート:アタナシオス信条|ノート]] * [[ニカイア・コンスタンチノポリス信条]] - [[ノート:ニカイア・コンスタンチノポリス信条|ノート]] * 上記の信条群の日本語訳は信條集前編を出典としています。この書籍は1955年に日本基督教協議会文書事業部が著者として出版されたものです。日本における著作権の保護期間は、団体著作物ですので、発表から50年間の2005年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。この作品は1955年に発表されたため、2050年までがアメリカ合衆国における著作権の保護期間です。著作権侵害の虞から上記の信条群の全削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年1月8日 (土) 08:56 (UTC) * (反対)日本キリスト教協議会の設立の経緯は次の通りです。--[[利用者:村田ラジオ|村田ラジオ]] ([[利用者・トーク:村田ラジオ|トーク]]) 2022年3月12日 (土) 06:53 (UTC) >日本のプロテスタント教界の並列的なのつながりと海外の教会との窓口として1923年に日本基督教連盟が設立されました。国家の宗教政策の下で1941年日本基督教団が設立されると共に、解散しました。これがNCCの前身ですが、この日本基督教連盟は戦後日本基督教団から旧教派の教会が離脱することによって再び国内の教会間の連絡役と海外の教会との窓口が必要になり、1948年5月日本基督教協議会(後に日本キリスト教協議会)が出来ました。NCCは、1948年の設立から数えて1998年に、50年を迎えました。 ::「ニカイア信条」、「カルケドン信条」、「アタナシオス信条」、「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」の項目は解説を含まない信条文の本文だけの投稿であったと記憶しています。この団体の公益性を考慮すると信条文の本文を使用したことで、アメリカ著作権法を基に著作権侵害を主張される可能性はゼロであると考えます。由って文章の性格、団体の性格を考慮する必要があると考え、削除する必要は無いと考えます。私の記憶違いで解説文が含まれていたとすれば、解説文のみを削除するべきだと考えます。--[[利用者:村田ラジオ|村田ラジオ]] ([[利用者・トーク:村田ラジオ|トーク]]) 2022年3月12日 (土) 06:53 (UTC) *** (コメント) ウィキソースではパブリックドメインもしくはパブリックドメインを翻訳したクリエイティブ・コモンズの作品のみを収録すると認識しているのですが、著作権侵害を親告される可能性が低いと考えられる著作物でも収録して良いのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年3月13日 (日) 08:43 (UTC) === (*)旧約聖書 (フランシスコ会訳)を出典とした旧約聖書 === * [[旧約聖書 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:旧約聖書 (フランシスコ会訳)|ノート]] ** [[創世記 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:創世記 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[はしがき (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:はしがき (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[旧新両約聖書の書名および略名 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:旧新両約聖書の書名および略名 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[凡例 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:凡例 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[モイゼ五書解説 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:モイゼ五書解説 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[創世記解説 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:創世記解説 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[創世記1 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:創世記1 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[創世記2 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:創世記2 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[創世記3 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:創世記3 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[創世記4 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:創世記4 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[原文批判 創世記 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:原文批判 創世記 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[宇宙についての聖書的概念 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:宇宙についての聖書的概念 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[系図 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:系図 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[とびらのマーク (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:とびらのマーク (フランシスコ会訳)|ノート]] ** [[レビ記 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:レビ記 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[レビ記はしがき (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:レビ記はしがき (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[レビ記1 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:レビ記1 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[レビ記2 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:レビ記2 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[レビ記3 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:レビ記3 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[レビ記4 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:レビ記4 (フランシスコ会訳)|ノート]] *** [[レビ記5 (フランシスコ会訳)]] - [[ノート:レビ記5 (フランシスコ会訳)|ノート]] * 上記の旧約聖書の日本語訳は1958年または1959年にフランシスコ会聖書研究所(出版地:東京)から出版されたものです。日本における著作権の保護期間は2008年または2009年までです。しかし、1996年時点では保護期間中であったため、アメリカ合衆国において発表から95年間の著作権が復活します。2022年現在はどちらもアメリカ合衆国における著作権の保護期間が継続しています。著作権侵害の虞から全削除を依頼します。なお、創世記の序文は[[Wikisource:削除依頼#序文_(フランシスコ会訳)_-_ノート]]にて削除依頼の審議中です。また、上記には著作権侵害の可能性が低いページも含まれていますが、削除された際には不要になるページですので、削除対象としています。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年1月14日 (金) 16:55 (UTC) *: (反対)「旧新両約聖書の書名および略名」「凡例」と「創世記1 - 4」、「レビ記1 - 5」の本文と書式の説明については(存続)を主張します。その他の解説文については削除が適当であると考えます。フランシスコ会という団体の性格を考慮すれば、この団体が本文についてアメリカ著作権を主張する可能性は全く無い、というのがその理由です。--[[利用者:村田ラジオ|村田ラジオ]] ([[利用者・トーク:村田ラジオ|トーク]]) 2022年3月12日 (土) 07:14 (UTC) *** (コメント) 別の依頼でもコメントしましたが、ウィキソースではパブリックドメインもしくはパブリックドメインを翻訳したクリエイティブ・コモンズの作品のみを収録すると認識しているのですが、著作権侵害を親告される可能性が低いと考えられる著作物でも収録して良いのでしょうか。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年3月13日 (日) 08:43 (UTC) ***:この点について補足させていただきたいのですが、著作権が存続していても、作品の転載に関して許諾が得られている場合には、収録することができます。手続きは簡単ではありませんが、[[:en:Bible (Literal Standard Version)]]のケースなどが該当します。日本語版にも、[[Wikisource:井戸端/Archive6#著作権消滅前の文章(著作者CC BY SA公開了承済み)の処理につきまして]]などの事例があります。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2022年3月13日 (日) 16:57 (UTC) == 2022年3月 == === (*)[[詩学]] - [[ノート:詩学|ノート]] === 翻訳者の[[w:松浦嘉一|松浦嘉一]]氏は1967年没であり、また本訳書の発行年は1949年であるため、米国において著作権が存続しています。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2022年3月8日 (火) 13:47 (UTC) * (削除) 松浦嘉一さんが1967年に亡くなっていることを確認しました[http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/42587.html]。アメリカ合衆国では著作権が存続している可能性が高いため、削除に賛同します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年3月8日 (火) 18:43 (UTC) * (保留)本訳書には岩波書店発行の出版が1924年にもなされていますが、投稿されていたものは1949年の版だったのでしょうか? 1924年発行の版が投稿されていればパブリックドメインに当たると思うのですが、いかがでしょうか。--[[利用者:村田ラジオ|村田ラジオ]] ([[利用者・トーク:村田ラジオ|トーク]]) 2022年3月11日 (金) 16:47 (UTC)  *:ご指摘ありがとうございます。確認させていただきましたが、投稿されたページには1949年とありましたので、1949年発行の版をもとにしていると思われます。ちなみに1924年の版はhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978906に原文があります。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2022年3月11日 (金) 18:23 (UTC) *::確認頂き、ありがとう御座います。私も投稿された第一章と1924年版とを見比べましたが、所々に1924年版には無い外来名詞が出てくるのを確認しました。出典が1924年版では無いことは明らかだと思います。--[[利用者:村田ラジオ|村田ラジオ]] ([[利用者・トーク:村田ラジオ|トーク]]) 2022年3月12日 (土) 05:45 (UTC) * (削除)上記の理由により削除が適当であると思います。--[[利用者:村田ラジオ|村田ラジオ]] ([[利用者・トーク:村田ラジオ|トーク]]) 2022年3月12日 (土) 05:45 (UTC) * (コメント) サブページも本文を除去し、削除タグを貼り付けました。また、節名を勝手ながら修正しました。村田ラジオさんが指摘し、CES1596さんが貼り付けている1924年版との比較は現在確認中です。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年3月13日 (日) 10:05 (UTC) *::鐵の時代さんがサブページの削除をされた様ですが、削除依頼を提出した利用者が自分の判断で削除するのは好くないと思います。最終的に削除を判断するのはウィキソースの管理人の権限です。決定を待たずに勝手に削除するのはやめてもらえませんか。--[[利用者:村田ラジオ|村田ラジオ]] ([[利用者・トーク:村田ラジオ|トーク]]) 2022年3月14日 (月) 04:48 (UTC) **** (コメント) えっと、私が行ったのは編集除去です。削除は[[特別:PageHistory/中央大学校歌]]の一部の版のように管理者以外から秘匿化される状態のことを指します(そもそも私は一般利用者ですので削除を実施できません)。この依頼は権利侵害の可能性があるページの議論ですので、権利侵害の虞がある記述は可能な限り除去するべきと私は思います。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年3月14日 (月) 09:10 (UTC) === [[日本外史 (日本外史解義)]] - [[ノート:日本外史 (日本外史解義)|ノート]] === 編者の頼成一氏は1951年没であり、また本書の発行年は1931年であるため、米国において著作権が存続しています。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2022年3月17日 (木) 17:18 (UTC) :そうなのですね、日本の著作権が切れているだけではダメなのですね。削除いたします。--[[利用者:Gogozil|Gogozil]] ([[利用者・トーク:Gogozil|トーク]]) 2022年3月17日 (木) 17:30 (UTC) ::自分では削除できないようですので削除を待ちます。--[[利用者:Gogozil|Gogozil]] ([[利用者・トーク:Gogozil|トーク]]) 2022年3月17日 (木) 17:32 (UTC) * (コメント) 投稿者本人が削除を希望する場合は{{tl|db}}のテンプレートを使うと即時削除が可能です([[Wikisource:削除の方針#即時削除]]の全ての名前空間の6)。{{tl|db}}を貼る際には、{{tls|sakujo}}(コメントアウトで除去するなと書いてある部分)と{{tl|copyrights}}を剥がさないようにお願いします。議論は管理者が対処するまで継続するためです。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年3月17日 (木) 18:02 (UTC) *:教えていただきありがとうございます。dbタグを追加しました。 *:邦文日本外史は1911年、訳述者の池辺義象さんは1923年没なのでこちらの底本であればパブリックドメインに該当するかと思いますのでこちらで作業したいと思います。 *:https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%82%A6%E6%96%87%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%96%E5%8F%B2--[[利用者:Gogozil|Gogozil]] ([[利用者・トーク:Gogozil|トーク]]) 2022年3月17日 (木) 18:13 (UTC) *** (返信) [[利用者:Gogozil|Gogozil]]さん、対応ありがとうございます。{{tl|db}}ですが、理由が空欄になっていますので、引数に理由を追記してください。これで管理者が巡回した際に削除されるようになります。なお、邦文日本外史は私もパブリックドメインであり、投稿には問題ないと思います。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年3月17日 (木) 18:28 (UTC) ***:初心者で勝手がわからず申し訳ありません。dbに理由「投稿者による依頼。底本が米国著作権法に抵触するため。」と追加いたしましたが、取り消しされてしまったようです。ひとまずこのままにしておけば良いでしょうか。--[[利用者:Gogozil|Gogozil]] ([[利用者・トーク:Gogozil|トーク]]) 2022年3月18日 (金) 02:41 (UTC) ***::荒らしによる編集を差し戻しておいたので大丈夫です。--[[利用者:安東大將軍倭國王|安東大將軍倭國王]] ([[利用者・トーク:安東大將軍倭國王|トーク]]) 2022年3月18日 (金) 02:53 (UTC) ****** (報告) 取り消しを行った利用者はグローバルロックされました[https://meta.wikimedia.org/w/index.php?title=Special:Log&logid=46975812]。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年3月18日 (金) 04:46 (UTC) * (報告)投稿者本人希望として即時削除しました。--[[User:Sakoppi|Sakoppi]]([[User talk:Sakoppi|talk]]・[[:w:ja:User:Sakoppi|jawp]]) 2022年3月21日 (月) 14:09 (UTC) === [[楽聖物語]] - [[ノート:楽聖物語|ノート]] === 作者の[[w:野村胡堂|野村胡堂]]氏は1963年没であり、また本書の発行年は1941年であるため、米国において著作権が存続しています。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2022年3月23日 (水) 19:04 (UTC) === [[まほうやしき]] - [[ノート:まほうやしき|ノート]] === 作者の[[w:江戸川乱歩|江戸川乱歩]]氏は1965年没であり、また本書の発行年は1957年であるため、米国において著作権が存続しています。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2022年3月23日 (水) 19:08 (UTC) === [[イワンの馬鹿]] - [[ノート:イワンの馬鹿|ノート]] === 翻訳者の[[w:菊池寛|菊池寛]]氏は1948年没であり、また本訳書の発行年は1928年であるため、米国において著作権が存続しています。--[[利用者:CES1596|CES1596]] ([[利用者・トーク:CES1596|トーク]]) 2022年3月23日 (水) 19:12 (UTC) * (情報) [[WS:CSD#全ての名前空間]]6を理由に、Sakoppiさんにより即時削除されました([[特別:転送/logid/83563]])。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年4月1日 (金) 06:22 (UTC) == 2022年4月 == === (*)[[反国家分裂法]] - [[ノート:反国家分裂法|ノート]] === * 初版から2022年2月12日 (土) 16:05(UTC)の版まで人民網日本語版の[http://j.people.com.cn/2005/03/15/jp20050315_48356.html 反国家分裂法(全条文訳)]より転載されています。人民網日本語版はパブリックドメインではないため、著作権侵害の虞があります。既に著作権侵害の可能性についてはノートで議論されているため、詳細はノートを参照してください。2022年2月12日 (土) 23:11(UTC)の版からは[[利用者:CES1596|CES1596]]さんの私訳に改変されたため、初版から2022年2月12日 (土) 16:05(UTC)の版まで連続9版の版指定削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年4月9日 (土) 09:39 (UTC) === [[財産法に於ける動的理論]] - [[ノート:財産法に於ける動的理論|ノート]] === * 不要なページの削除依頼です。[[財産法に於ける動的理論]]とは1928年に出版された書籍で、著者の石田文次郎さんは1979年に亡くなっているため、2022年現在は日米ともに著作権の保護期間中です。そのため内容をウィキソースに載せることはできません。[[財産法に於ける動的理論]]では内容の記載がほとんどなく、目次のみの記載であるため、現状では著作権侵害の虞はないと考えます。しかし、2022年現在の著作権法では2049年まで内容を載せられない、目次だけの記事を残しておく意味はないでしょう。[[ノート:財産法に於ける動的理論]]にて、立項者の[[利用者:JOT news|JOT news]]さんと対話を試みましたが、有意な回答を得られなかったため、削除依頼に回しました。以上から、削除を依頼します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年4月14日 (木) 12:47 (UTC) == 2022年8月 == === (*)[[中華人民共和国外交部声明]] - [[ノート:中華人民共和国外交部声明|ノート]] === * [https://jp.news.cn/20220803/9ef693dab2c84bd8ad63f4321979a7a8/c.html 新華網日本語の記事]からの転載。なお、新華網によれば「[https://so.news.cn/?lang=jp#search/0/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%96%E4%BA%A4%E9%83%A8%E3%80%81%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%82%B7%E7%B1%B3%E4%B8%8B%E9%99%A2%E8%AD%B0%E9%95%B7%E8%A8%AA%E5%8F%B0%E3%81%A7%E5%A3%B0%E6%98%8E/1 著作権と所有権は新華網に属する。]」とあり、著作権侵害の虞あり。--[[利用者:安東大將軍倭國王|安東大將軍倭國王]] ([[利用者・トーク:安東大將軍倭國王|トーク]]) 2022年8月4日 (木) 11:36 (UTC) * (削除) 新華網からの転載を確認しました。人民網の同じ声明の日本語訳[http://j.people.com.cn/n3/2022/0803/c94474-10130454.html]を見ると、新華網との訳文とは異なっています。つまり、この日本語訳は中華人民共和国の政府機関が発表したものではなく、報道機関が翻訳した文章です。すなわち著作権の保護の対象となり、ウィキソースに載せられません。以上からこの記事の削除に賛同します。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2022年8月5日 (金) 05:25 (UTC) k8sa9s4xmmsrttylakkbsu3hns60wap テンプレート:PD-USGov 10 9656 188209 166290 2022-08-05T00:16:29Z Rkt2312 36107 wikitext text/x-wiki {{License | image = PD-icon.svg | image_r = Great Seal of the United States (obverse).svg | image_r_size=70px | category = | text=この文書は、アメリカ合衆国においては、同国の著作権法に基づき、同国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成した'''[[w:アメリカ合衆国政府の著作物|アメリカ合衆国政府の著作物]]'''([[:en:United States Code/Title 17/Chapter 1/Sections 105 and 106|17 U. S. C. §105]]([http://www.cric.or.jp/gaikoku/america/america_c1a.html#105 参考和訳]))に該当するため、[[w:パブリックドメイン|パブリックドメイン]]の状態にあります。また、日本国においては、同国の'''[[著作権法#a13|著作権法13条]]に規定するもの(憲法その他の法令、通達、判決など)に該当するアメリカ合衆国政府の著作物'''のみに限り、パブリックドメインの状態にあると解されます。それ以外の国では、当該国の著作権法に基づいて、著作権の対象であるか否かが判断されます。 ---- {{{!}} {{!}}- {{!}} [[Image:Nuvola apps important.svg|40px|注意:]]{{!}}{{!}} <small style="line-height: 110%">これは、アメリカ合衆国政府の著作物についてのみ効力を有します。アメリカ合衆国の各[[w:アメリカ合衆国の州|州]]、[[w:郡 (アメリカ合衆国)|郡]]、その他の地方自治体が作成した著作物に対しては'''適用できません'''。また、'''[[著作権法#a13|日本国著作権法13条]]に規定するものに該当しないアメリカ合衆国政府の著作物の場合、日本国内において著作権が発生しているものとして扱われる'''ことになると解されるため、'''この著作権タグのみでは[[Wikisource:著作権|著作権ポリシーの要件]]を満たすことができません。'''その場合は、日本国の著作権上パブリックドメインの状態にあるか、またはCC BY-SA 3.0及びGDFLに適合したライセンスのもとに公表されていることを示す[[ヘルプ:著作権タグ|テンプレート]]を追加してください。</small> {{!}}} }}<includeonly>[[Category:PD-USGov]]</includeonly><noinclude> [[Category:ライセンスのテンプレート]] [[bg:Шаблон:PD-USGov]] [[de:Vorlage:PD-USGov-Text]] [[en:Template:PD-USGov]] [[fa:الگو:مع-دولت ایالات متحده]] [[fr:Modèle:Domaine public gouvernement USA]] [[id:Templat:DP-PemerintahAS]] [[sv:Mall:PD-US-GOV]] [[vi:Bản mẫu:PVCC-CP Hoa Kỳ]] [[zh:Template:PD-USGov]] </noinclude> k4nn6w6gyg8hyv2hzcpdoopat8pty38 テンプレート:New texts 10 17941 188198 187301 2022-08-04T20:12:53Z CES1596 4425 +今鏡 (國文大觀) wikitext text/x-wiki ==使い方== *著作権ポリシーの要件を満たし、かつスキャン画像による校正を経た作品を登録します。 *テンプレート{{tlx|New texts/item}}を用いて新しい作品を追加してください。 *追加する作品の名称を「編集内容の要約」欄に記載してください。 例1: <pre> {{new texts/item|作品名|作者名|出版年}} </pre> 例2:(作者ページにリンクしない場合) <pre> {{new texts/item|作品名|作者名|出版年|nowiki=yes|display=表示したいタイトル}} </pre> ページの空き領域に収まるよう、掲載する作品は最大7つまでとします。 # 新しい作品を一番上に加え、一番下の作品を「以前の登録作品」に移してください。 # 同じ著者による作品を2本同時に加えないでください。 # 追加する作品の名称を「編集内容の要約」欄に記載してください。 # 「新しい作品」を編集してください。 ==新しい作品== 注意:新しい作品を加える際には、このリストの一番下の作品を下のリスト(「以前の登録作品」)に移してください。移動によって古い作品はメインページから見えなくなり、月ごとに作成するアーカイブに収録されます。追加する作品はonlyincludeタグの内側に置いてください。 <onlyinclude> <!-- 2022年8月 --> {{new texts/item|今鏡 (國文大觀)|寂超|1170}} <!-- 2022年7月 --> {{new texts/item|破提宇子 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<b>{{r|清醒|せいせい}}の事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教</b> 百七十、 知る所の事は書に由りて{{r|傳|つた}}ふべく路を過ぎて見たる所の事はその之を望むものに証すべし、もし汝等に言ふ所を汝等うけんと欲せば亦其の如くせん。主は自らいへらく『人もし我れに居らざれば離れたる枝の如く外に{{r|棄|す}}てられて枯る。人もし我れに居り我れ亦かれに居らば多くの実を結ぶべし』〔[[ヨハネによる福音書(口語訳)#15:5|イオアン十五の五、六]]〕。それ太陽は光なくしては{{r|照|てら}}す能はざるが如く心も<u>イイスス</u>の名を呼ぶなくんば有害なる思念の{{r|汚|お}}{{r|穢|わい}}より{{r|潔|きよ}}めらるゝ能はず。もし是れ実に我が見る所の如くならば<u>イイスス</u>の名を用ふること己が呼吸の如くせん。けだし彼れ{{註|<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>の名}}は光にして此れ{{註|汚穢なる思念}}は暗なり。而して彼れ{{註|呼ばるゝ所の}}は神及び主宰にして此は悪魔の僕なり。 百七十一、 智識の守りは光を生ずる者と名づけられ、又電気を生ずる者、光を放つもの及び火を発する者と名づけらるゝこと{{r|固|もと}}より{{r|當然|とうぜん}}なり、けだし実にいはんに最大なる身体上の徳行を誰か{{r|幾何|いくばく}}有するあらんも彼は独り超越するなり。故に此の徳行より生ずる所の明{{r|赫々|かくかく}}たる光の為め彼れには{{r|最|もつとも}}尊貴なる名をもて名づけんことを要す。無用なる、{{r|汚|お}}{{r|穢|わい}}なる、無学なる、無思慮なる及び不義なる罪人中此の徳行を至愛する者あらば彼等は<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>の力によりて義なる者となり有用なる者となり聖潔なる者となり又賢明なる者となるべし、而してたゞに是れのみにあらず彼等は奥義を悟覚して神学を講ずるを始めん。さらば既に悟覚者となりて彼等は一の至潔なる無限の光に転住し言ふ{{r|可|べか}}らざるの関係をもて彼に関係して彼と共に生き且働くなり、何となれば{{傍点|style=open circle|彼等は主の善の如何}}を{{r|味|あじは}}ひしによる、けだし此等の首天神には神の<u>{{r|太闢|ダウィド}}</u>の{{r|言|ことば}}の応ずること{{r|疑|うたがひ}}なし、曰く『然り義者は{{r|爾|なんぢ}}の名を讃栄し{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}の者は汝が顔の前に居らん』〔[[詩篇(口語訳)#140:14|聖詠百三十九の十四]]〕。実に彼等はたゞ{{r|一|ひと}}り直に神を呼び神を讃栄し{{r|併|あはせ}}て神を愛しつゝ神と常に談話するをも愛さん。 百七十二、 外部に属する者の為めに内部に属する者に{{r|禍|わざはひ}}あり、けだし内部の人は外部の感覚の為めに多く忍耐すべければなり。されども彼は忍耐する所ありて此等外部の感覚に対し{{r|鞭撻|べんたつ}}を加ふるを要す。生活の実験上に属するものを仕遂げたる者は形而上に属するものをも{{r|最早|もはや}}{{r|了會|りょうかい}}し始むるなり。 百七十三、 もし我等内部の人にして清醒するあらば諸神父の説の如く外部に属するものを守ることをも能くすべし。さて諸神父の説に依るに我等と悪者たる魔鬼とは{{r|両々|りょうりょう}}交通して罪を犯すなり、彼等は思念{{r|或|あるい}}は妄想の図画によりたゞ心上にのみ欲する如くに罪を描くといへども我等は思念即ち内部に於ても罪を想像し又実際外部に於ても罪を犯す。{{r|魔鬼|まき}}は{{r|肥体|ずうたい}}を有するにあらずしてたゞ思念に由り{{r|詭|き}}{{r|計|けい}}と{{r|誑惑|きょうわく}}とを{{r|搆造|こうぞう}}して自己にも又我等にも{{r|苦|くるし}}みを備ふるなり。されども此の{{r|最|いと}}淫蕩なる者にしてもし{{r|肥体|ずうたい}}を{{r|奪|うば}}はれざりしならんか彼等は無法を行はんと欲するの悪意を常に己れに{{r|懐|いだ}}きて不断実行を以ても罪を犯さむるすならん。 百七十四、 然れども専心一意なる{{註|主に対して熱心なる}}祈祷は彼等を粉砕し彼等が{{r|誑惑|きょうわく}}を{{r|追散|おいちら}}さん。けだし我等が不断に怠らずして呼ぶ所の<u>イイスス</u>神及び神の子は罪即ち所謂附着と名づくる所の者を我等に入るゝことだも断じて彼等に{{r|容|ゆる}}さゞればなり、又其の思想の鏡によりて彼れに何の形像を見せしむることをも心中に於て何の談話を言ひ始めしむることをも{{r|容|ゆる}}さゞればなり。されども心中に何の形像も押入ることなくんば我等が{{r|已|すで}}にいひし如く心は思念を離れて虚しきを得ん、けだし{{r|魔鬼|まき}}は通常思念に由り{{r|密|ひそか}}に談話してこれを悪に教へ{{r|導|みち}}びくなり。 百七十五、 故に不断の祈祷により我等が心中の空気は{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|黒暗|こくあん}}なる雲又は風より清くならん。されば心の空気の清まる時は<u>イイスス</u>の神たる光の彼れに照るに妨ぐるもの一もあらざるなり、もしたゞ我等{{r|虚誇|きょこ}}と自負と展示の望みとをもて自ら尊大なることなくんば及び難きの事に{{r|疾|しつ}}{{r|馳|し}}するあらざるべく又それが為め<u>イイスス</u>の助けを奪はるゝことあらざるべし、何となれば<u>ハリストス</u>は謙遜の標準たりつゝすべてかくの如きものを憎み給へばなり。 百七十六、 故に祈祷と謙遜とをつとめん、此の二の武器は炎劒たる清醒と{{r|合|がつ}}して心の戦士が魔鬼に対して武装する所のものなり。もしかくの如く己の生命を導く時は毎日毎時喜ばしき{{r|佳|か}}{{r|節|せつ}}を奥密に心に有するを得ん。 百七十七、 罪なる思念の一切の範囲を包括してあらゆる罪念を生出する所の{{r|首|おも}}なる思念{{r|八|や}}つあり、彼等はみな心の門に近づき智識の{{r|捍衛|かんえい}}するあらざるを見ておの〳〵適時に{{r|交|かはる}}〳〵彼れに入らんとす。此等{{r|八|やつ}}の思念中{{r|何|いづれ}}の思念か心に対し起りてこれに入る時は不潔なる思念の全群を{{r|自|みづ}}から{{r|携|たづさ}}へて入るべし、かくて智識を{{r|暗|くら}}まして身体を{{r|爛|ただ}}らしこれを誘ふて耻づべき{{r|行|おこなひ}}を成さしむるなり。 百七十八、 然れども{{r|蛇|へび}}の{{r|首|かしら}}{{註|附着}}に用心し{{r|忿然|ふんぜん}}{{r|捍禦|かんぎょ}}して{{r|罵詈|ばり}}の{{r|言|ことば}}を発し敵の面を{{r|撲|う}}つこと{{r|恰|あたか}}も拳を以てするが如くなる者はこれをもて{{r|戦|たたかひ}}を絶つべし、けだし彼は首を用心して悪なる思念と{{r|最|いと}}{{r|悪|あく}}なる行為とを避くればなり。かゝりし後は彼れの{{r|思|おもひ}}は{{r|最早|もはや}}波を{{r|起|おこ}}さずして平穏なるべし、何となれば神は彼れが思念に対するの{{r|儆醒|けいせい}}をうけてそれが為め彼に報ゆるに{{r|曉|ぎょう}}{{r|知|ち}}を賜ふていかにして其敵を征服すべきと又いかにして其内部の人を汚す所の思念より心を潔うすべきとを知らしむべけれなり、主<u>イイスス</u>のいふが如し曰く『心より出づるものは悪念……奸淫……これ人を汚すなり』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#15:19|馬太十五の十九]]〕。 百七十九、 かくの如くなれば霊魂は主によりて其の己の殊色と美麗と公明とに留まるを得ること最初神をもて{{r|至|いと}}{{r|美|うる}}はしく且{{r|正直|せいちょく}}なるものに造られしが如くなるを{{r|得|う}}べく神の{{r|大|おほい}}なる僕<u>アントニイ</u>が言ふ所の如くなるを{{r|得|う}}べし、曰く『霊魂に於て智識が天性のまゝあるべき如くにして存する時は徳行はおのづから整備せん』。<u>アントニイ</u>又いへらく『霊魂の為に正しとは智識を其の造られし如く天然の形状のまゝ霊魂に有すといふに同じ』。彼れ又次でいへり『我等は智識を潔うせん、けだし我れ信ず智識が百方潔うせられて其の天然の形状に帰りなば{{r|其|その}}{{r|賦與|ふよ}}せられたる主の啓示を己れに有し透明なる者となりて魔鬼を{{r|大|おほい}}に且遠く見ることを得ん』、とこれ有名なる<u>アントニイ</u>のいへる{{r|言|ことば}}にして大<u>アファナシイ</u>が<u>アントニイ</u>の一代記中に録する所のものなり。 百八十、 もろ〳〵の思念は或る五官を{{r|楽|たのし}}ましむる所の形像を智識に再現せしむるなり、けだし{{二重線|アッシリヤ}}人{{註|敵}}が自から智力を有して誘惑するを得るは他物を{{r|仮|か}}るに非ずして我等の為めに習慣となれる五官を楽ましむる所の者を利用するのみ。 百八十一、 我等かくの如き人は大気に{{r|駕|が}}して羽翼あるの鳥と競走し又は鳥の如くに飛ぶ能はず、何となればこれ吾人の性に適せざればなり、かくの如く清醒にして断えざる祈祷なくんば無形なる魔鬼の思念に勝ち{{r|若|もし}}くは我が智識の目を張りて神に向はしめむことは我等に能はざるなり。もし汝にこれ無くんば汝は地に依りたゞ地上の物の為めに追逐せんのみ。 百八十二、 もし眞に{{r|耻|はぢ}}をもて思念を{{r|掩|おほ}}ひ{{r|當然|とうぜん}}に静黙を守り労なうして心を清醒ならしめんと欲せば<u>イイスス</u>の祈祷を汝の呼吸に{{r|貼|つ}}くべし、さらば汝は数日ならずしてこれを実際に見ん。 百八十三、 文字は空気に書すべからず彫刀にてこれを或る堅硬なる物体に{{r|鐫|ほ}}るべし、永く守らるゝを得んが為なり、かくの如く我等も己が{{r|艱辛|かんしん}}なる清醒を<u>イイスス</u>の祈祷と配合せしむべし、これ清醒の至美なる徳が<u>イイスス</u>と共に我等に於て完然なるものとなり且彼れに{{r|頼|よ}}り永遠奪ふべからざるものとなりて我等に存せんが為めなり。 百八十四、 既にいひしが如く己の行為を主に{{r|托|ゆだ}}ねよ、さらば恩寵を{{r|獲|え}}んこれ汝と共に我等にも{{r|左|さ}}の預言者の{{r|言|ことば}}の関係せざらんが為めなり、曰く『主よ彼等の口は汝に近づけどもその腹は汝に遠ざかる』〔[[エレミヤ書(口語訳)#12:2|イェレミヤ十二の二]]〕。遠く相{{r|隔|へだ}}たる者{{註|即ち神性と人性と}}を己れに配合したる<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>の{{r|外|ほか}}は{{r|何人|なんびと}}も汝の心を情欲より堅く鎮静せしめざるなり。 百八十五、 思念と共に談する心中内部の会話も外部の問答又は閑話も{{r|同|おなじ}}く霊魂を{{r|昏|くら}}ますなり。故にすべて有害なるものを己の心より除くことに尽力する者は彼れ是れ閑話を愛する者をも思念及び人々をも神に於る最貴重すべきの理由により愛惜する所なくして{{r|逐|お}}ふべし、これ即ち智識の{{r|昏|くら}}まされて清醒に弱わらざらんが為めなり、けだし遺忘の為めに{{註|会話により}}{{r|昏|くら}}まされて我等常に智識を失へばなり{{註|何を始め何を思ひ何を為すを知らざるべし}}。 百八十六、 すべての注意をもて心の清きを守る者は立法者たる<u>ハリストス</u>即ち其の旨を奥密に人に{{r|語|つ}}ぐる所の者をもてこれが師となさん。『主神が我れにいふ所をきかん』〔[[詩篇(口語訳)#85:9|聖詠八十四の九]]〕とは是れ<u>{{r|太闢|ダウィド}}</u>の此を指していひしなり。さて彼れ一方には心中作戦の事に於て智識の自己に注視するを{{r|象|かたど}}り又一方には神の彼れに於る代身的保護を{{r|象|かたど}}りつゝまづ最初に敵を見し時は言ひ始めて曰く『時に人いはん義者は誠に果報あり』〔[[詩篇(口語訳)#58:12|聖詠五十七の十二]]〕。然して其後彼れと此れとにつき厳重の熟思によりて成れる所の決定をあらはしこれに加へて曰へり『故に審判を彼等に即ち悪鬼に我が心の{{傍点|style=open circle|地に行ふの神あり}}』と〔前同〕彼れ又他篇に於ていへらく『彼等は不義を尋ね{{r|屡|しばしば}}探りて人の{{r|中|うち}}情と心の深き処に至る、然れども神は矢を以て彼等を射ん彼等{{r|忽|たちまち}}{{r|傷|きずつ}}けられんとす』〔[[詩篇(口語訳)#64:7|聖詠六十三の七、八]]〕されば彼等はかくの如きものとせられんとす。 百八十七、 <u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>と{{r|神父|かみちち}}の力と神の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}とを{{r|断|た}}えず呼吸しこれをもて『智慧の心を{{r|獲|え}}せしむるもの』〔[[詩篇(口語訳)#90:12|聖詠八十九の十二]]〕として常に己を導かん。されどもし何か偶然の事により放下して此の智慧なる業事に怠るあらば翌朝更に善く我が智識の腰に帯しめん、而して此を行ふあらずんば{{傍点|style=sesame|善を行ふを知る}}の我等に何の称義もあるなかるべきを知りいよ〳〵堅く此に従事せん。 百八十八、 毒になる食物は体にうけられて体中に{{r|速|すみやか}}に病の{{r|騒擾|そうじょう}}を{{r|醸|かも}}さん。されどももしこれを嘗めし者にして毒を感ずるや{{r|速|すみやか}}に何の薬によりてかこれを外に{{r|出|い}}だすときは無害にして存せん、かくの如く智識も其のうくる所の<u>イイスス</u>の祈祷により直ちにこれを外に{{r|吐|はき}}{{r|出|い}}だし己れより遠くこれを{{r|抛擲|ほうてき}}する時は此れに{{r|頼|よ}}りて彼等より来るもろ〳〵の害毒を避けんこと{{r|猶|なほ}}神の仁慈により他の教訓と共に己の実験をもて清醒者に{{r|前程|まえほど}}の事を了曉せしむるが如くならん。 百八十九、 清醒して<u>イイスス</u>の祈祷を汝の呼吸と{{r|合|がつ}}すべし、或は死の間断なき思念と謙遜とを{{r|合|がつ}}すべし、彼れと是れとは{{r|大|おほい}}なる益を{{r|與|あた}}へん。 百九十、 主はいへらく『我が心は温柔謙遜なり汝我れに学べ汝の{{r|霊|たましひ}}に安きを得させん』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#11:27|馬太十一の廿七]]〕。 百九十一、 主は又いへり『此の小児の如く謙遜なる者は天国に於て{{r|大|おほい}}なり』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#18:4|馬太十八の四]]〕『自から{{r|高|たか}}うする者は{{r|卑|ひく}}くなる』〔[[ルカによる福音書(口語訳)#18:14|ルカ十八の十四]]〕。且言ふ『我れに学べ』と。{{r|汝|なん}}ぢ見るか学ぶは{{r|即|すなはち}}謙遜なるを。主の誡命は永遠の生命なり然るを此の誡命は即ち謙遜なり。故に謙遜ならざる者は生命より堕落せるなりされば{{r|彼処|かしこ}}に於て変じてこれに反対するものとならんこと必せり。 百九十二、 もろ〳〵の徳行は霊と体とに於て作為せらるべくして我等の{{r|已|すで}}にいひし如くもろ〳〵の徳行の{{r|由|より}}て以て組成せらるゝ所の霊と体とは神の造る所の者ならば我等霊と体とを飾るに他の装飾を以てして自ら尊大にし自ら高慢する時は是れ{{r|豈|あに}}極めて狂愚にあらざるか。而して驕傲に依頼すること{{r|蘆葦|ろい}}に依頼するが如くして己を威徳の無限なる神に反対に立たしめかゝる至極の愚と無智とをもて神の{{r|最|いと}}{{r|怖|おそ}}るべき不愛を己が頭上に{{r|引来|ひききた}}さんことは{{r|豈|あに}}{{r|復|ま}}た殊に狂愚にあらざるか、けだし『主は驕傲の者を{{r|斥|しり}}ぞくるなり』〔[[ヤコブの手紙(口語訳)#4:6|イアコフ四の六]]〕。我等は謙遜に於て主に{{r|傚|なら}}ふべきに{{r|易|か}}へて高慢驕傲なる偽智をもて主の{{r|最|いと}}狂暴の敵たる驕傲なる魔鬼と親睦を為す。是故に使徒はいへり『何の未だ受けざる者あるか』と〔[[コリント人への第一の手紙(口語訳)#4:7|コリンフ前四の七]]〕。{{r|豈|あに}}汝は自から己を造りしや。されどもろ〳〵の徳行の由りて以て組成せらるゝ所の体と霊とは{{r|汝|なん}}ぢこれを神より受けしなば『何ぞ受けざる者の如くに{{r|矜|ほこ}}るか』〔前同〕。けだし主は此の一切を汝に{{r|賜|たま}}ひしなり。 百九十三、 心を清うすることも又それが為めの謙遜もすべて{{r|上|うへ}}より{{r|降|くだ}}る所の善も我等に於て{{r|位地|いち}}を有するは他にあらず{{r|窺|き}}{{r|偷|ちゅう}}する{{註|窺い盗む(*投稿者注)}}所の思念の心に入るを断じて許さゞるにあるのみ。 百九十四、 神の助けにより独一の神の為めに行為する智識の守りは{{r|先|ま}}づ霊魂に堅立して神に依るの苦行を{{r|修|おさ}}めしめんが為に智識に聡明を{{r|與|あた}}ふるなり、{{r|然|しか}}のみならず智識の守りは{{r|亦|また}}{{r|其|そ}}のこれを領する者の為めに非難すべからざるの思慮をもて外部の{{r|行|おこなひ}}と{{r|言|ことば}}とを{{r|同|おなじ}}く{{r|亦|また}}神に依りて建てしめんが為めに才能を給するなり。 百九十五、 旧約に於て司祭長の特飾{{註|胸間にかくる純金の版にして主の聖物と題するものなり、出埃及記廿八の三十六}}は中心の清きに{{r|擬|ぎ}}したるものにして我等をして吾が心の版の罪によりて黒くならざりしや否に注意せしむるなり、これ{{註|もし黒くなれりと思ふ時は}}我等の涙と痛悔と祈祷とをもて急にこれを清めんが為めなり。我等が智識は軽きもの{{註|動き易きもの}}なり、これを罪の記憶より{{r|止|とど}}めんこと難し。{{r|但|ただし}}いふべし彼は悪なる想像の為めにも又善なる想像の為めにもひとしく従ひ易きものなりと。 百九十六、 心中に{{r|断|た}}えず<u>イイスス</u>を呼び{{r|思|おもひ}}にて<u>イイスス</u>の祈祷に貼着すること空気の我が体に密接するが如く{{r|将|は}}た{{r|焔|ほのお}}の{{r|蝋燭|ろうそく}}に於るが如くなる者は実に{{r|福|さいわひ}}なり。太陽は地上を経過して一日を生ず、さりながら主<u>イイスス</u>の聖なる尊崇せらるゝ名は断えず智識に照り輝きて太陽の如くなる思念の無数の多きを生ず。 百九十七、 {{r|雲|くも}}散ずる時は空気清く澄みてあらはる、されば義の太陽なる<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>により欲念の散ずる時は<u>イイスス</u>をもて中心の空気を{{r|照|てら}}すが故に常に心に於て光の如くなる又は星の如くなる思念生ずるなり。けだし智者はいへり『主を恃む者は真理を{{r|暁|さと}}り愛によりて主に忠なる者となる』。 百九十八、 或る聖人のいひけるは魔鬼を怨み怨めよ而して常に肉体に敵し敵せよと。肉は{{r|狡獪|こうかい}}の友なり、満足を{{r|與|あた}}ふる程は彼れいよ〳〵強き{{r|戦|たたかひ}}を起す。かゝれば{{r|速|すみやか}}に肉体に敵し腹と{{r|戦|たたかひ}}を始むべし。 百九十九、 {{r|右|みぎ}}{{r|殆|ほとん}}ど二百章を成すに於いて我等は智識の聖なる静黙の苦行を{{r|著|あら}}はしてたゞに其の結果を尋ぬる一己の捜索をあらはせるのみならず神智を得たる諸父の神出なる言説が智識の清きに関して我等をいかに教ふるをもあらはせりき。今亦智識を守るの益を示さんが為めに少しく言ひて説教を{{r|終|お}}へん。 二百、 ゆゑに来りて我れに従ひて{{r|汝|なん}}ぢいかなる者たりとも智識の幸福なる守りを得るを致すべし、汝は霊に於て{{傍点|style=sesame|{{r|長寿|ながら}}へて幸福を見んと欲する者}}なり〔[[第五「カフィズマ」#33:13|聖詠三十三の十三]]〕されば余はもろ〳〵聡明なる力の明白なる行為と其の生活とを主によりて汝に教へん。天使等は造物主を讃揚して{{r|飽|あ}}かず、彼等と専ら競争する所の智識も{{r|亦|また}}{{r|飽|あ}}かざらん。されば非物体なる者は飲食の事を{{r|慮|おもんばか}}らざるが如く物体にして非物体なる者も智識の静黙が天に昇らん時は飲食の事を慮らざるなり。 二百一、 天軍は富の事又は獲るの事を心に掛けざるが如く清浄にして徳行{{註|清醒の}}に練習を得たる心霊の目も悪鬼の{{r|怒|いかり}}を{{r|惹|ひ}}くの事に掛念せざるべし。されば彼等の為めに神に近づくに上進するの富は明白なるが如く此等の人の為にも神を渇望すると愛すると神に属する事に向進登上することは{{r|疑|うたがひ}}なきなり。且彼等は{{r|飽|あ}}かざる{{r|大|おほい}}なる願望をもて愛の無限なる大悦{{註|エクスタス}}に導く所の属神の事を味ひしが為めに向進上昇して<u>セラフィム</u>に達せざらん間は止まらざるなり、即ち彼等は我が主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>の為めに天使とならざらん間は心を清醒にすること{{r|大|おほい}}に願望して上昇することとを{{r|休|きゅう}}せざるなり。 二百二、 毒は毒蛇と{{r|蜥蝎|とかげ}}の毒に過ぎたるはなく悪は自愛の悪に過ぎたるはなし。さて自愛の子は左の如し心中の自慢、自適、貪食、淫行、浮誇、怨恨及び萬悪の最たる驕傲即ちたゞに人類のみならず天使をも{{r|能|よ}}く天より堕落せしめ光に{{r|易|か}}へて{{r|暗|やみ}}にて{{r|掩|おほ}}ふ所の者是なり。 二百三、 それ<u>フェオドル</u>よ静黙と同名{{註|即「イシヒイ」}}たる余は実際は静黙者にあらずといへども汝に{{r|書|しょ}}しぬ。顧ふに余は我等に属する所の皆すべて書したるにはあらず、然れども要するにこは凡そ有智なる天性即天使と人と又言ふ可らざる造物主独一の神に造られたる萬物とより父と子と聖神の名に於て讃美頌揚せらるゝ神が{{r|與|あた}}へし所のものなり、{{r|願|ねがは}}くは彼の光明なる国は至聖なる神母と我等が{{r|克肖|こくしょう}}なる諸神父の祈祷によりて我等も{{r|受|うく}}るに{{r|堪|た}}へんことを。彼れ及ぶ可らざる神に永遠の光栄は帰す、あみん。 {{DEFAULTSORT:きとうせいせいしゆう いえるさりむのしさいいしひい ふえおとるにあたふるしよ5}} [[Category:祈祷惺々集|65]] oba2jc3degjd24o4en2ctgkqvyc62f2 祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(3) 0 35011 188215 187254 2022-08-05T11:07:01Z 村田ラジオ 14210 author: wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|祈祷惺々集|hide=1}} {{header | title = 祈祷惺々集 | section = 聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(3) | year = 1896 | 年 = 明治二十九 | override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|斐沃芳(フェオファン)]] (19世紀) | override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} | noauthor = | previous = [[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(2)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(2)]] | next = [[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4)]] | notes = *発行所:正教会編輯局 }} <b>聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓</b> ::<b>祈祷と清醒の事</b> 九十一、 誰か我が為めに祈祷せよといふあらば己の心中に左の如くいふべし、曰く『願くは神は我等を{{r|矜|あはれ}}まんを』と、此れにて足れり。されども彼を始終記憶することは是れ互に祈祷するを能くし得る完全者の行なり。 九十二、 {{註|淫慾に対し}}目を守るべし、飽くまで食するなかれ。敵の悉くの{{r|羅|ら}}{{r|網|もう}}を破壊するの謙遜を得よ。敵に譲るなかれ、左の如くいふて絶間なく祈祷すべし、曰く『主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>や我を耻づべき欲より救ひ給へ』と、さらば神は汝を憐まん。それ人は己れに不注意なるにより、即ち其の先きに成し遂げたる事又は其れに類するの事を己の心に回想するをゆるすにより其の肉慾に{{r|誘|いざな}}はるることあり。もし思の此れに旋転するをゆるすあらばたとひ体を以てせずとも精神にて思念と同意するにより{{r|戦|たたかひ}}は増大して滅亡に至らん。かゝる人は自分の物に自分から火を{{r|點|てん}}するなり。されば自ら惺々して己を悪しき記憶より{{r|懇|ねんごろ}}に守るべし、これ自ら己に火を{{r|點|てん}}せんを恐れて欲念の為めに引誘せられざらんが為めなり{{r|又|また}}{{r|逢迎|ほうげい}}と談話とより及びすべて罪に致すの端緒より遠ざからんが為めなり。すべて汝の生活の秩序をも此れに適準せしむべし。謙遜と{{r|涕泣|ていきゅう}}とを愛すべくすべてに於て我意を断離するに{{r|苦|く}}{{r|辛|しん}}すべし。談話の為に己を弱らすなかれ、けだし談話は汝をして神の為に{{r|大|おほい}}に発達するを得しめざればなり。汝の感覚の諸機関、即ち{{r|視|み}}ると{{r|聴|き}}くと{{r|嗅|か}}ぐと{{r|味|あぢは}}ふ{{r|触|ふ}}るゝの諸官を力を用ひて{{r|勒制|ろくせい}}すべし、さらば汝は<u>ハリストス</u>の恩寵により{{r|大|おほい}}に発達せん。慎んで汝の家宝を{{二重線|ハルデヤ}}人に示すなかれ、〔[[列王紀下(口語訳)#20:12|列王記下二十の十二―十八]]〕然らずんば彼等は汝を{{r|俘|とりこ}}にして{{二重線|ワワィロン}}の王<u>ナウホドノソル</u>に引率せん〔[[列王紀下(口語訳)#24:13|列王記下二十四の十三]]〕{{註|是言意は自から己れに誇るなかれ、けだし此れに由り己の霊宝を魔鬼に示して魔鬼は汝を捕ふべければなりと}}。<u>イイスス</u>を得んが為めに彼れに{{r|趨|はし}}り付くべし、もし{{r|大|おほい}}に発達せんと欲せば自ら勤苦すべし。 九十三、 堅固の心をもて慾念に抵敵すべし、けだし格闘者にして苦戦するあらずんば栄冠を蒙らざるべければなり。修道士の{{r|行|ぎょう}}は{{r|戦|たたかひ}}を忍耐すると心の勇気をもて彼れと対立するにあり。さて余{{註|父<u>ワルソノフィイ</u>}}は少年の時淫慾の鬼にしば{{ku}}強く{{r|誘|いざな}}はれたりしがかゝる思念に対して戦ひこれを{{r|抗拒|こうきょ}}しこれと相和せず永遠の苦を自ら己の目前に想像しつゝ{{r|苦|く}}{{r|辛|しん}}したりき。五年の間余は日々かくの如く行為したりしに神は我を此の思念より{{r|弛|ゆる}}め給へり。間断なき祈祷と涕泣とは此の{{r|戦|たたかひ}}を{{r|空|むなし}}うせん。 九十四、 耻づべき諸欲より自から救はれんと欲せば何人とも自由に交際するなかれ。此れに由りて汝は{{r|浮誇|ふこ}}より免れん、けだし{{r|浮誇|ふこ}}には{{r|諂|てん}}{{r|諛|ゆ}}が混合せらるべく{{r|諂|てん}}{{r|諛|ゆ}}には自由の交際が混合せらるべくして自由の交際は悉くの欲の母なればなり。 九十五、 智より{{r|速|すみやか}}なるものはあらじ、すべての必要の時これを挙げて神に向はしむべし、さらば彼は汝に要用なる教訓{{r|将|は}}た要用なる助けを{{r|與|あた}}へん。 九十六、 中心の憂愁なくんば{{r|誰|た}}れも思念を{{r|見|み}}{{r|分|わく}}るの才能を得ざらん。されども神が人に此の才能を{{r|與|あた}}ふる時は彼は常に神の{{r|神|しん}}をもて思念を{{r|見|み}}{{r|分|わく}}ることを{{r|最|も}}{{r|早|はや}}{{r|能|よ}}くし{{r|得|え}}ん。 九十七、 思慮の{{r|賜|たまもの}}を得んが{{r|為|た}}めに我等の心の{{r|何|いづれ}}を勤むべきことを我れに教へよ、又神を{{r|念|おも}}ふ間断なき記憶の{{r|事|こと}}を{{r|書|し}}るし給へ。――それ汝が心の勤労は神に間断なく祈祷するにあるべし、{{r|願|ねがは}}くは神は汝をして自ら迷はしめず{{r|将|は}}た其の一己の望みに従はしめざらん。此れに由りて汝は思慮を得ん。されども不断の記憶即ち教訓に基礎を{{r|据|す}}うべし、畏るゝことなかれ、神は汝を固め{{r|且|かつ}}汝を確定せん。{{r|尚|なほ}}汝は弱らずんば{{r|穫|か}}るを得んとの希望をもて{{r|播|ま}}くべし。〔[[コリント人への第一の手紙(口語訳)#9:10|コリンフ前九の十]]、[[ガラテヤ人への手紙(口語訳)#6:3|ガラティヤ六の三]]〕。 九十八、 熱心は時として来り又時として去る、神を{{r|念|おも}}ふ記憶は或は熱心にて守られ或は勉強して{{r|僅|わづか}}に保持せらる、{{r|然|しか}}のみならず心は我が欲するなくして{{r|偏僻|へんぺき}}なる或は無智なる記憶を{{r|出|いだ}}し或は時ならざる思念を{{r|出|い}}だす、如何にすべきや。――中心の憂愁をもて熱心と祈祷とを得るを自ら勤むべし、さらば神は汝に常にこれを得せしめん。不注意の為に{{r|自|おのず}}から生ずる所の遺忘は彼等を{{r|逐出|おひいだ}}すべし。清醒の賜は{{r|諸|もろもろ}}の思念の入るを許さゞるべく、もし入るあるも{{r|其|それ}}をして害を為さしめざるべし。神は願くは汝に清醒と不眠とを{{r|與|あた}}へん。 九十九、 自ら弱わるなかれ、{{r|尚|なほ}}時を有する間に練習すべく自ら謙遜すべし、順良なれ、服従せよ、さらば謙遜なる者に恩寵を與へ驕傲なる者に反対する神は汝に助けん〔[[ペテロの第一の手紙(口語訳)#5:5|ペートル前五の五]]〕。間断なくいふべし『<u>イイスス</u>や我に助けよ』と、さらば助け給はん。 百、 朝にはいさゝか心内に存すれども其後事は{{r|交々|こもごも}}汝を牽引し晩に及んで発見せらるゝは空虚なり昏迷なり及び失心なり、如何かすべき我れ亡びん。――汝は{{r|此|これ}}によりて{{r|望|のぞみ}}を絶つべからず。舵手は其舟の波にうたるゝ時救に望を絶たず{{r|湊|みなと}}に{{r|漕|こぎ}}よする迄は舟を{{r|御|ぎょ}}するなり。{{r|此|かく}}の如く汝も事に引誘せられて放心せしを見ば預言者と共にいふて己を{{r|其途|そのみち}}の始めに呼戻すべし、曰く『我れ言へり今始めたり』〔[[詩篇(口語訳)#77:10|聖詠七十六の十一]]、希伯来原文に依る〕。且又己が内部の行為より離れずして其の遇ふ所の事を{{r|&#x64bf;|け}}みしいかにこれを処理すべきを考ふべし。神の為めに慮るの配慮は霊魂の救に於て行ひ且遂ぐる所の霊神上の行為なり。己れに{{r|最|もっとも}}必要なる事をもて限りを定め区々たる小事の為に己を{{r|累|わづらは}}さゞらんことを及ぶ丈尽力すべし。聡明に己れに注意せよ、さらば神は汝に助けん。 百一、 願くは主は{{r|汝|なん}}ぢの諸の事に於て聡明に行ふを得んが為めに汝に霊智を與へ給はんことを。己の舌を空談より禁じ腹を{{r|嗜|し}}{{r|甘|かん}}より禁じて近者を怒るなかれ。{{r|過|か}}{{r|甚|じん}}なるなかれ、己を虚しきものと思ふべし、衆人に愛を守るべく、{{r|何時|いつ}}か神の面前に現はるべきを記憶して常に己の心に神を有すべし、〔[[詩篇(口語訳)#42:2|聖詠四十一の三]]〕此を守るべし。さらば汝の地は神に百倍の{{r|果|み}}を{{r|献|ささぐ}}らん。 百二、 己を{{r|虚|むなし}}うすとは{{r|如何|いか}}なる意か。――己を何人とも比べず善行に就ては我れこれを成せりといはざるを謂ふなり。すべてを失はざらんが為めに高慢を戒むべし。 百三、 我れいまだまろ{{ku}}{{sic}}の造物より己を{{r|卑|ひく}}く視るべき{{r|所以|ゆえん}}の者を有せず、されども己の良心を{{r|試|ため}}す時は己れもろ{{ku}}の造物より{{r|卑|ひく}}く見るに当る者なるを発見す。――今や汝は正路に入りぬ。これ{{r|最|もっとも}}真理なり。神は己を{{r|卑|ひく}}く{{r|視|み}}るの量に汝を導かん。 百四、 いかなる{{r|途|みち}}によりて{{r|速|すみやか}}に{{r|救|すくひ}}に達するを得べきか、労苦か{{r|将|は}}た謙遜か。――眞実の労苦は謙遜なしに成る能はず、けだし労苦は{{r|自|おの}}づから徒然に帰して無となるべければなり。聖書にいふ『我の謙遜と我の労苦とを{{r|眷|かへり}}みて我がすべての罪を赦し給へ』〔[[第四「カフィズマ」#24:18|聖詠二十四の十八]]〕。ゆゑに謙遜を労苦と{{r|合|がっ}}する者は{{r|速|すみやか}}に達せん{{註|目的を}}。謙遜と自卑{{註|外部の状態に於るの自卑}}とを有するものも亦達せん、けだし自卑は労苦に代るべければなり。されどたゞ一の謙遜のみを有する者はたとひ進歩すといへども左程速に達するにあらず。眞の謙遜を得んと願ふ者はいかなる場合に於て何を以てなりとも断じて己を尊視すべからず。眞実の謙遜は此に存す。 百五、 いかにして{{r|遺|い}}{{r|忘|ぼう}}より救はるべきか。――{{傍点|style=open circle|主が来りて地に投ずる所の火}}をうくる者は〔[[ルカによる福音書(口語訳)#12:49|ルカ十二の四十九]]〕遺忘と心の奪はるゝとを知らざらん、けだし常に此の火に触るればなり。{{r|試|こころみ}}に物体の火を例に取るべし。人は何物に占領せられたるにせよ其上に熱炭を投ずるあらば其の誘惑に{{r|止|とど}}まり居ることは{{r|最早|もはや}}少しも能はざらん。もし汝は心の奪はるゝと遺忘とより救はれんを欲せば己に霊火を得るの外にはその目的を達する能はざらん、けだしたゞ此の温煖によりて遺忘と心の奪はれとは消失すべければなり。されども此の火は神に向ふをもて得らるべし。もし汝の心が日夜哀痛して主を尋ぬるなくんば汝は{{r|大|おほい}}に発達することあたはざらん。されども若しすべて他事を{{r|擲|なげう}}ちて此れに従事するあらば此を達せん、<span style="border-bottom: dotted 2px">止まりて識れよ</span>〔[[詩篇(口語訳)#46:10|聖詠四十五の十一]]〕。 百六、 謙遜はいかなる場合に於ても何事の為めにも己を尊視するあらざると萬事に於て我意を絶つと人々に従順なると{{r|外|ほか}}より我れに及ぼす所の事を心を{{r|撹|みだ}}すなくして忍耐するとにあり。真実の謙遜はかくの如し、されば{{r|虚|きょ}}{{r|誇|こ}}は己に余地を見着けざらん。謙遜なる者は其の謙遜を言語に表するを要せず、彼の為めには『我を免るせよ或は我が為めに祈祷せよ』といふて足るなり。又謙遜なる者は下賤なる事を自から求めて為すを要せず、けだし彼れも此れも虚誇に導き進歩に妨げ益よりも害を生ずればなり、されども何か命せらるゝ所ある時は逆らはず聴従して行ふなり、これ大なる進歩に導くなり。自卑に二種類あり、一は心の自卑にして一は外よりうくる所の卑辱によりて生ずるの自卑なり。外よりうくる所の自卑は心の自卑より勝れり、けだし自ら己を{{r|卑|ひく}}うするは他よりうくる所の卑辱を忍耐するより{{r|易|たや}}すければなり、何となれば後者は更に大なる悲痛を心に生ずるによる。 百七、 {{註|人々の賞賛する時己を謙りて其れに抗言するは宜しきや否}}――沈黙することは更に益あり。けだしもし誰か答ふるあらば是れ即ち賞賛をうくるなり、これ{{r|最早|もはや}}高慢なり。彼れもし謙遜して答ふと思はんもそれだに最早高慢なり、けだし彼れもし自から己の事をいふ所の言を同く他人より聴くある時は堪ふるあたはざるべし。 百八、 言語及び交際の自由も腹を喜ばすことも心の悲痛あるなく清醒と涕泣あるなくんばこれを{{r|止|とど}}むる能はず。凡ての欲は人々が困苦して得る所の謙遜に{{r|克|か}}つなり。 百九、 哀哭は涙より生ぜずして涙は哀哭より生ず。もし人は他の罪に注意せずして独り己の罪を見るあらば哀哭を得ん。けだし此れに由りて彼の思念は収束せらるべく且かくの如くに収束しつゝ神に依るの悲哀を心に生ずべく〔[[コリント人への第二の手紙(口語訳)#7:10|コリンフ後七の十]]〕而して此の悲哀は涙を生ずるなり。 百十、 高慢するなかれ、何となれば此をもて己を害すればなり。諸父は己の思念に注意するが為めに時を定めたりき、言ふあり朝に自ら省みよ汝は夜をいかに過ごしゝやと、晩にも亦同く省みよ日をいかに過ごしゝやと。而して日中は諸の思念に煩はさるゝ時に自ら己を省察せよ。 百十一、 もし欲念の心に入るあらば何をもてこれを拒反すべきか、これに抵抗し或はこれに禁戒を発することを恰もこれに向つて怒るが如くするを以てすべきか、或は神に{{r|趨|はし}}りつき其前に{{r|俯伏|ふふく}}して己の弱きをあらはすを以てすべきか。――それ欲は憂に同じ。されば主はこれを区別せずしていへらく『汝ぢ憂の日に我を呼べよ我れ爾を脱れしめん、此を以て汝は我を讃栄せん〔[[詩篇(口語訳)#50:15|聖詠四十九の十五]]〕。是故にすべての欲に対して神の名を呼ぶより有益なるはあらじ。されども抵抗することは何れの人にも適するにあらずしてたゞ其の魔鬼が服従すべき所の神によりて有力なる者に適す。さればもし誰か無力にして抵抗すと。又魔鬼に対して権を有する大人の行も亦同く魔鬼に禁ずべし。諸聖人中魔鬼に禁ずること首天使ミハイルの如く権を有したるによりて此を成し遂げたる者果して多きか。されども我等荏弱なる者にありてはたゞ<u>イイスス</u>の名に{{r|趨|はし}}り{{r|附|つ}}くべきあるのみ、 けだし欲は既にいひしが如く即ち魔鬼なり、されば彼等は退かん{{註|此の名を呼ぶにより}}。 百十二、 己れに注意すべく誡命を行ふに百方尽力すべし。されど何に於てか勝たるゝある時は弱わるべからず、望を絶つべからず、更に起くべし、さらば神は汝に助けん。常に哀哭をもて主の仁慈の前に己を投ずべし、願くは汝を欲より{{r|脱|のが}}れしめん。 百十三、 多くの人に接して談話するを避けよ、けだし怠慢と薄弱と不従順と{{r|暴戻|ぼうれい}}とはこれより生ずればなり。 百十四、 思念は我れにつげていへらく沈黙は何よりも{{r|最|もっとも}}入用にして彼は我れに益ありと、思念がかくの如く我に勧むるは果して当を得るか。――それ沈黙とは{{r|與|あた}}ふべく又は受くべき所の者と美食又は其他これに類するの行為とより己の心を{{r|止|とど}}むるにあるに非ずや。主が{{r|賊|ぞく}}にかゝる者の{{r|譬|たとえ}}をもて学士を責め且問ひて誰か彼に近き者かといひし時学士は{{r|答|こた}}へて『彼れに{{r|矜恤|あはれみ}}を行ひし者是なり』といへり〔[[ルカによる福音書(口語訳)#10:37|ルカ十の三十七]]〕又聖書に主は『{{r|矜恤|あはれみ}}を欲して{{r|祭|まつり}}を欲せず』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#12:17|馬太十二の十七]]{{sic}}<ref>投稿者注:「馬太十二の十七」は「馬太十二の七」の誤りだと思われる。</ref>〕といへり。もし汝は{{r|祭|まつり}}よりも{{r|矜恤|あはれみ}}の勝るを信せば汝の心を{{r|矜恤|あはれみ}}に傾くべし。沈黙は人が自から得るある、即ち{{r|無&#x73b7;|むてん}}を得るに先だちて自慢に赴くの縁由を人に與ふるなり。真実の沈黙の位置を有するはたゞ人が最早十字架を負ふたる時にあるのみ。ゆゑに汝は憐む{{註|近者を}}あらば助けをうけん、されどもし汝の量を越て高く上らんと欲し己を憐みより止むるあらんには知るべし汝は有る所のものをも{{r|併|あはせ}}て失ふを。ゆゑに内部に於ても外部に於ても偏らずして{{r|其中|そのなか}}を{{r|執|と}}るべし『主の旨のいかなるを悟るべし、蓋し時悪ければなり』〔[[エペソ人への手紙(口語訳)#5:16|エフェス五の十六]]〕。 百十五、 内部に於ても外部に於ても偏らずして中を{{r|執|と}}れとは何を謂ふか。――是れ即ち人の為めに{{r|慮|おもんばか}}る配慮の中に在る時は沈黙を敢てせず又己れに怠慢ならざるを謂ふ。是れぞ墜落の危険あらざるの中道なる、沈黙によりて{{註|独り自ら居る時は}}謙遜を有すべし、されど配慮の中にある時は己れに{{r|&#x5106;醒|けいせい}}すべく己の思念を止むべし、而して是皆一定の時を以て限られざるなり、{{r|況|いはん}}や日を以てをや。 百十六、 己の思念を黙すべからず、けだし己の思念を隠す者は癒されずに存すべし、さればたゞ其の思念をしば{{ku}}神父に質問するによりて矯正せらるゝなり。 百十七、 誰か己の群{{註|思念}}を守ること<u>イアコフ</u>の如くするあらば睡眠は彼れより退かん、されば彼れいさゝか睡りかゝるあらんも彼の睡眠は他人の{{r|&#x5106;醒|けいせい}}に同しからん、けだし心の燃ゆる火は彼をして睡眠に耽るに至らしめざるべく彼は<u>太闢</u>と共に歌はん、曰く『我が目を明にして我を死の寝りに寝ねざらしめ給へ』〔[[第二「カフィズマ」#12:4|聖詠十二の四]]〕{{r|此|かか}}る程度に達して既にその甘味を嘗めたる者は言ふ所の事を了解せん、かゝる人は人の嗜好の眠りに熟睡せずしてたゞ天然の眠を利するなり。 百十八、 汝ぢ奉事の時に当りて神の為めに目を{{r|瞑|めい}}するあらんに汝の思念の集中するあらばたとひ汝と共に立つ所の兄弟等の為めに奇怪に思はるゝとも注意を向けるあるなかれ。 百十九、 先づ枝葉にて{{r|披茂|おほひしげ}}るべし、其後神が命ずるある時は果実をもあらはすべし。 百二十、 憂愁するなかれ、主の汝に助をあらはさゞる間は{{r|仆|たふ}}れつ起きつ失脚しつゝ又己を責めつゝあるべし、たゞ怠慢なるべからず、即ちたゞ自分の力に応じて己れに注意せよ、さらば神は汝を助けん。 百二十一、 心の{{r|擾|みだ}}れと共に何もいふべからず、何となれば悪は善を生まざればなり、汝の{{r|思|おもひ}}の静まる迄は忍耐せよ、而して静まる時に穏に{{註|匡正に要用なる所のものを}}いふべし。 百二十二、 驕傲と自義と浮誇とを戒めてこれに対するに謙遜と神を畏るゝの畏れと思慮とを以てすべし。汝の力に応じて此等の徳行を守るを{{r|努|つと}}めよ、さらば神は汝に助けん。 百二十三、 誰か己の思念につげて『我と神と即ち世に唯我等のみなり、さればもし彼の旨を行はずんば最早彼れに属するにあらずして他に属するなり』といふか神をいかに迎へんを記憶して日々に自ら体より出去るを待つか、――かくの如き者は救の路を探り得たるなり。 百二十四、 神を畏るゝの畏れを以て己れに注意せん、而してもし善心なる神の仁慈に依り我等に戦を緩減し給ふあらば其時にも油断あるべからず、けだし多くの人は既に援助をうけ己れに油断して{{r|倒|さかさ}}まに{{r|仆|たふ}}れたればなり。然れども我等は緩減をうけて神の我等を救ひしを{{註|記憶して}}感謝せん、又其の同じき欲にも他の罪にも再び陥らざらんが為めに祈祷に{{r|止|とど}}まらん。かくの如くもし誰か大食して胃脾或は肝臓の病にかゝるあらんに医の親切と知識とによりて癒さるゝあらば己に経たる危きを記憶してあしき容躰に再び帰らざらんが為めに最早自ら油断に{{r|耽|ふけ}}らざらん。主も其のいやせし者に告げて曰く『視よや汝は{{r|愈|いえ}}たり罪を犯すなかれ{{r|恐|おそら}}くは{{r|患|うれひ}}にかゝること前よりも{{r|甚|はなはだ}}しからん』〔[[ヨハネによる福音書(口語訳)#5:14|イオアン五の十四]]〕。よろしき兵士は常に平和の時に作戦の術を講ず、けだし戦時は{{r|戦|たたかひ}}の為めに欠く可らざる所の者を便宜に学ぶを許さゞればなり、言ふあり『{{r|備|そなへ}}あれば{{r|擾|みだ}}されず』〔[[詩篇(口語訳)#119:60|聖詠百十八の六十]]〕。人は最後の際に至るまで{{r|戦|たたかひ}}の配慮なくんばあるべからず、然らずんば姦猾なる敵、即ち『主が其口の気をもて我れより{{r|亡|ほろぼ}}すべき者』〔[[テサロニケ人への第二の手紙(口語訳)#2:8|ソルン後二の八]]〕の虜となるの運命に陥らん。老人のいひしを記憶せよ、曰くもし人は新天新地を造るありとせんに其時にも人は配慮なくんばあるべからず。 百二十五、 使徒<u>パウェル</u>は忍耐の力を論じて次の如く書せり、曰く『汝に要用なるものは忍耐なり、神の旨を行ふて約束のものをうけんが為めなり』〔[[ヘブル人への手紙(口語訳)#10:36|エウレイ十の三十六]]〕。<u>ハリストス</u>と共に十字架に上らんと欲する者は<u>ハリストス</u>と{{r|苦|くるし}}みを{{r|與|とも}}にする者となるべし。 百二十六、 {{r|遺|い}}{{r|忘|ぼう}}の事をいはん『我が呻吟の声により我が餅を食ふを忘るゝ』〔[[詩篇(口語訳)#102:5|聖詠百一の六]]〕に到りし者は敵たる{{r|遺|い}}{{r|忘|ぼう}}の勝つ所とならざらん。 百二十七、 もし困苦の為めに憂愁するあらずんば謙遜を得ん。而して謙遜を得る時は罪の{{r|赦|ゆるし}}をもうけん、けだしいふあり『我が謙遜と我が困苦とを顧みて我がすべての罪を赦し給へ』〔[[詩篇(口語訳)#25:18|聖詠二十四の十八]]〕。謙遜する時は恩寵をうけ而して恩寵は汝に助くるなり。希望をもて神の業に注意せよ、さらば神も汝の許可なしに汝の業を建てん。 百二十八、 長老に問ふを得ざる時はすべての事の為めに三たび祈祷すべし。さてかゝりし{{r|後|のち}}心が何方に傾くを毫末と{{r|雖|いへども}}{{r|察|さつ}}{{r|視|し}}すべく{{r|此|かく}}の如くにして行ふべし、けだし{{r|報道|しらせ}}は顕然と有るべくどうでも心は{{r|了會|りょうかい}}せらるゝあらん。 百二十九、 何をか偽知識{{註|偽称智慧}}といふか。――事は{{r|果|はた}}して我が{{r|意|おも}}ふ如くなれりと己の思念を信ずる是なり、此れより{{r|脱|だつ}}せんを願ふ者は何に於ても己の思念を信せず、すべてを其の長老に問ふべし。 百三十、 もし救はれんことを願はゞ悔改すべくすべて汝に死を蒙らしむる所のものを絶ち<u>{{r|太闢|ダウィド}}</u>と共にいふべし、曰く『今始めたり』〔[[詩篇(口語訳)#77:10|聖詠七十六の十一]]〕。故に今より我意と自義と傲慢と等閑とをすてゝこれに代へて謙遜と従順と温柔とを守るべし。全く己を卑しき者と思ふべし、さらば救はれん。 百三十一、 我意を絶つとは、善なる事に於ては我意を絶ちて聖者の意を行ひ悪なる事に於ては己れ自から悪を避くるにあり。 == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:きとうせいせいしゆう せいなるたいろうわるそのふいいおよひいおあんのきようくん3}} [[Category:祈祷惺々集|93]] qu0dtaoqipx9lzuktxbfsmwslrmtzd3 祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4) 0 39133 188216 179876 2022-08-05T11:09:28Z 村田ラジオ 14210 author:斐沃芳(フェオファン) wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|祈祷惺々集|hide=1}} {{header | title = 祈祷惺々集 | section = 聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4) | year = 1896 | 年 = 明治二十九 | override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|斐沃芳(フェオファン)]] (19世紀) | override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} | noauthor = | previous = [[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(3)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(3)]] | next = [[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5)]] | notes = *発行所:正教会編輯局 *屡〻、各〻の二の字点は屡々、各々に改めた。 }} <b>聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓</b> ::<b>祈祷と清醒の事</b> 百三十二、 {{註|淫行、醜事又は嫉妬等の如き其の微細なる思念と粗大なる思念とにつきて}}――微細なる思念に力を{{r|盡|つく}}して其の粗大なるを{{r|忽|たちまち}}にする者は{{r|恰|あたか}}も左の人に似たるあり、其の家不潔にして種々の{{r|砕片|さいへん}}を{{r|充|み}}て、中に細小の{{r|塵埃|じんあい}}もあらんに{{r|彼|か}}れこれを清潔にせんと{{r|思|おもひ}}{{r|立|た}}ちて{{r|先|ま}}づ家より細小の{{r|塵埃|じんあい}}を{{r|搬|はこ}}び{{r|出|いだ}}したれど石又は{{r|其|その}}{{r|他|た}}の{{r|躓|つま}}づきとなるべき物を{{r|遺|のこ}}しき。もし彼は細小の{{r|塵埃|じんあい}}をすべて{{r|搬|はこ}}び{{r|出|いだ}}すといへどもこれによりて其家は{{r|未|いま}}だ美麗を得ざるべし、されども石又は其他を{{r|搬|はこ}}び{{r|出|いだ}}す時は{{r|塵埃|じんあい}}も{{r|遺|のこ}}さゞらん、けだし彼れも{{r|醜|みにく}}きをなせばなり。 百三十三、 いかにせば神を畏るゝの畏れを我が{{r|頑|かたくな}}なる心に確として{{r|存|そん}}せしむることを{{r|得|う}}べきか。――すべてを畏るゝの畏れをもて行ふべし且此の畏れを賜はらんが為めに心を備へて{{註|己の力に及ぶ丈心を其れに向けて}}神を呼ぶべし。すべての事に於て此の畏れを己の目前に置くあらば此の{{r|畏|おそれ}}は我が心に確として動かざるものとならん。 百三十四、 神を畏るゝ畏れの我が記憶に{{r|来|きた}}るあらんに{{r|我|わ}}れ{{r|彼|か}}の審判を想起して直ちに感動すること数回これあり。我れ此事を如何に受用すべきか。――それ此事の汝が記憶に来る時、{{r|即|すなはち}}汝の{{r|識|し}}ると{{r|識|し}}らずして犯しゝ所の事を感動する時は{{r|汝|なんぢ}}{{r|宜|よろ}}しく注意すべし此れ{{r|魔鬼|まき}}の働きにより生じ{{r|愈々|いよいよ}}{{r|大|おほい}}なる定罪に至らしむるにあらざらんかと。されどいかにして真実の記憶を{{r|魔鬼|まき}}の働きによりて{{r|来|きた}}る所の記憶より弁別すべきかと問ふあらんか、{{r|宜|よろし}}く聴くべしかゝる記憶の汝に来るあらんに汝は{{r|匡正|きょうせい}}をあらはさんと実際に勤むるならばこれ真実の記憶にしてこれにより罪は赦さるゝなり。されど想起して{{註|神を畏るゝと審判とを}}感動するも其後再び同罪に陥り又は更にあしき罪に陥るを見るあらんにはかゝる記憶は敵者よりするものにして魔鬼が此を汝に入れて汝の{{r|霊|たましひ}}を定罪に付するものたることは汝に知られん。これ汝の為に二の明白なる途なり。ゆゑにもし汝は定罪を畏れんと欲せば魔鬼の行を避くべし。 百三十五、 朝時と暮時とを汝の思念を試みるが為めに適当の時とならしむべし。此の時に汝は己れに問ふべし、我れ夜又は昼を如何に送りしかと。而してもし汝は何の犯罪をか発見するあらば神の助けにより{{r|匡正|きょうせい}}に盡力すべし。 百三十六、 我が霊魂は多くの{{r|疵|きず}}を{{r|有|も}}ちながらいかんして痛哭せざるか。――誰か失ひし所を知らば其の為めに{{r|涕泣|ていきゅう}}す。又誰か願ふ所ある者は其の願ふ所の者を得んを期し多くの旅行をなして多くの患難を忍ぶなり。 百三十七、 或る他人の為にはあらずしてたゞ独一の神の為めに神に属するの{{r|業|わざ}}を為すを努めん。されどもし{{r|此|かく}}の如くならずんば汝の{{r|労|ろう}}は{{r|徒|と}}{{r|然|ぜん}}なるべし。{{r|故|ゆゑ}}に善を{{r|作|な}}して{{r|出来|でき}}る{{r|丈|だけ}}我が意志の為に{{r|其労|そのろう}}の無益となるを致さしめざらんやうに己れに{{r|儆醒|けいせい}}すべし。 百三十八、 聡明に{{r|且|かつ}}{{r|実着|じっちゃく}}に研究して何か汝の為めに善なるが如くに見ゆる所の事に於て{{r|浮誇|ふこ}}{{r|或|あるひ}}は動乱{{r|或|あるひ}}は其のこれに類するものを発見するあらば知るべしその善は神よりするに{{r|非|あらざ}}るを。けだし神の善は常に心の開明と謙遜とを増して人に安静を得しむるものなればなり。 百三十九、 もし善なるが如く見ゆる所のものにして{{r|試|こころみ}}を{{r|経|へ}}て悪なるものと認めらるゝ時はこれを{{r|抛棄|ほうき}}すること{{r|恰|あたか}}も{{r|誰|たれ}}か{{r|美味|びみ}}の如くに見ゆる所の食物を{{r|嘗|な}}めんに其の{{r|苦|にが}}きを覚えて直ちにこれを口より{{r|吐出|はきいだ}}すが如くすべし。 百四十、 天性自然なる思念の推動によりて善良なる者を思ふの場合も{{r|亦|また}}{{r|屡々|しばしば}}これあり、然れども此をも神に{{r|献|ささ}}ぐべし、けだし我等が天性は神の{{r|造|ぞう}}なればなり。されど我等が此れ{{註|即ち善良の思}}を仕遂げんことは神の誡命によらずんば能はざるを知るべし、即ち誡命を目前に置くある時は我等の心はこれによりて善良なる者を{{r|遂|とぐ}}るに固めらるゝなり。 百四十一、 汝もしすべて善なる{{r|行|おこなひ}}を成しすべて誡命を守りし時は{{r|思|おもひ}}を{{r|謙|へりくだ}}らんが為めに次にいふ所の{{r|言|ことば}}を記憶すべし、曰く『汝等すべて{{r|命|めい}}ぜられし事をなせし時もいふべし{{r|無|む}}{{r|益|えき}}の{{r|僕|ぼく}}、{{r|為|な}}すべき事をなせしのみなり』と〔[[ルカによる福音書(口語訳)#17:10|ルカ十七の十]]〕{{r|況|いはん}}や我等一の誡命を成すをも未だ得ざりし時に於てをや。かくの如く我等は常に思ひ善行に由りて己を責め且己れにつげていふべし我れ此の{{r|行|おこなひ}}の神に悦ばるゝや否を知らずと。神の旨に依りて作為するは大なる行なり、されども神の旨を成すは更に大なる行にしてこはすべての誡命を連合するなり。けだし神の旨に{{r|遵|したが}}ひて何なりとも作為するは神の旨を成すに比すれば個々なる且細小なる行なればなり。故に使徒もいへり『後にある者を顧みずして前にある者を望む』〔[[ピリピ人への手紙(口語訳)#3:13|フィリプ三の十三]]〕。それ彼は前進して及ばざる所幾ばくもなかりしといへども止まらずして常に己を見て不充分なるものと思へり、故にそれが為めに上達したりき。 百四十二、 もし誰か神を悦ばすの目的に依らずして善なる{{r|行|おこなひ}}を{{r|為|な}}すあらば此の善なる{{r|行|おこなひ}}は為す者の意志によりて悪なる者となるなり。{{r|人|ひと}}{{r|各々|おのおの}}常に善なる{{r|行|おこなひ}}を為すに力を{{r|盡|つく}}すべし。されば後来神の恩寵により其の{{r|行|おこなひ}}が{{r|最早|もはや}}神を畏るゝの畏れによりて成就すべきをも{{r|與|あた}}へらるゝなり。 百四十三、 {{r|汝|なん}}ぢ{{r|何|いづれ}}の善をか為したるある時は汝は此の神の{{r|賜|たまもの}}{{註|汝に與へられたる}}は神の仁慈に出づるを知るべし、けだし神は衆人を{{r|矜|あはれ}}めばなり。されば神より汝にあらはされ{{r|引|ひき}}て悉くの罪人にも及ばんとする{{r|矜恤|あはれみ}}を汝は己の弱きによりて{{r|亡|ほろぼ}}さゞらんが為めに自から己れに注意すべし。神より汝に善の為めに{{r|與|あた}}へられしものを悪によりて失ふことなかれ、されど此の{{r|賜|たまもの}}は汝が己を賞賛して汝に恩恵を施したる神を忘るゝある時は失はるゝなり。{{r|然|しかる}}のみならず汝は仁慈者たる神に感謝をさゝぐべき所の者を己れに帰するを{{r|敢|あへ}}てするや汝に定罪をも引くあらん。使徒はいへり『{{r|汝|なん}}ぢ{{r|何|いづれ}}のいまだ受けざりしものあるか、もしうけしならば{{r|何為|なん}}ぞいまだうけざる者の如く誇るや』〔[[コリント人への第一の手紙(口語訳)#4:7|コリンフ前四の七]]〕。故に汝は決して{{r|誘|いざな}}はれて善行の為めに汝を賞賛する所の思念に依頼するなかれ。一切の善は神に属す。 百四十四、 諸聖人は聖神を己れに有するを賜はりて聖神の{{r|殿|みや}}となるなり。聖書にいふあり『彼等に{{r|住|やど}}り且歩み給へり』〔[[コリント人への第二の手紙(口語訳)#6:16|コリンフ後六の十六]]〕。罪人等は此れより遠ざかる、所の如し、曰く『{{r|睿智|えいち}}は悪なる{{r|霊|たましひ}}に入らず』〔[[ソロモンの智慧 第一章|智慧書一の四]]〕。されど彼等は神の恩寵にて{{註|悔改の為めに}}守らるべし。 百四十五、 詩を{{r|唱|とな}}ふに{{r|方|あた}}り汝の心の高ぶらんとする時は録する所の{{r|言|ことば}}を{{r|憶|おも}}ふべし、曰く『叛逆する者に自から誇るなからしむ』〔[[詩篇(口語訳)#66:7|聖詠六十五の七]]〕。さて叛逆するするとは即ち神を畏るゝの畏れをもて聡明に歌はざるを意味するなり。詩を{{r|唱|とな}}ふに{{r|方|あた}}り汝の{{r|思|おもひ}}の{{r|浮戯|うか}}れざるや否を{{r|試|ため}}すべし、さらば汝は其の{{r|浮戯|うか}}るゝと又これに{{r|随|したがひ}}て神に叛逆するとを必ず発見せん。 百四十六、 詩を{{r|唱|とな}}ふに{{r|方|あた}}り思念の為めに{{r|苦|くるし}}められ{{r|将|は}}た{{r|其|そ}}れなくしても神の名を助けに呼ばんに敵は我に{{r|密|ひそか}}につげていへらく神の名を間断なく呼ぶは{{r|虚|きょ}}{{r|誇|こ}}に導くべし、けだし人は其時我れ善く行為すと思ふべければなりと、此の事をいかに思ふべきか。――それ病者の医と其治療とを常に要求し又漂流する者の{{r|溺没|できぼつ}}に{{r|遭|あ}}ふを免れんが為め{{r|断|た}}えず避難所に達するに急にするは我等の知る所なり、{{r|此|これ}}に由りて預言者も{{r|大|おほい}}に呼んでいふやう『主は世々に我等が{{r|避所|かくれが}}たり』〔[[詩篇(口語訳)#90:1|聖詠八十九の一]]〕又いふやう『神は我等が{{r|避所|かくれが}}と{{r|能力|ちから}}なり患難の時には、{{r|速|すみやか}}なる{{r|佑助|たすけ}}なり』〔[[詩篇(口語訳)#46:1|聖詠四十五の一]]〕。故に我等は患難の時に於て必ず緊要に{{r|矜恤|きょうじゅつ}}なる神を呼ぶを学ばん。されども神の名を呼ぶも{{r|思|おもひ}}にて誇らざるべし。愚者に{{r|非|あらざ}}るよりは{{r|誰|たれ}}か人より助けをうけて自ら誇るか。されば我等は神に必要を有する者として敵に対して神の名を助けに呼ばんにもし無智にあらずんば{{r|思|おもひ}}にて誇るべからざるなり、けだし必要によりて呼び{{r|憂|うれ}}ひて{{r|趨|はし}}り{{r|附|つ}}けばなり。{{r|然|しかる}}のみならず我等神の名を間断なく呼ぶはこれたゞ欲を殺すのみならず欲の働きをも殺す為の療法なるを我等は必ず知らざるべからず。医者が療法{{註|適当の}}{{r|若|もし}}くは{{r|膏薬|こうやく}}を求めて患者の疵に{{r|貼|は}}りて{{r|効|こう}}あらんに、病者は其の如何に行はるゝを知らざるが如く実に其の如く神の名も呼ばれてたとひ其の行はるゝ{{r|所以|ゆえん}}を我等は知らずといへども悉くの欲を殺すなり。 百四十七、 我が{{r|思|おもひ}}の{{r|静黙|せいもく}}して{{r|擾|みだ}}さるゝなく{{r|煩|わづら}}はさるゝなしと我が{{r|意|い}}に思はるゝあらんに其時も主宰<u>ハリストス</u>の名を呼ぶことを学ぶは宜しきや否や。けだし思念は{{r|我|わ}}れにつげていへらく今我等は平安に居れば此れに必要あるなしと。――我等己を罪人と認むる間は此の平安を有すと思ふべからず、けだし聖書にいふあり『罪人に平安ある無し』』〔[[詩篇(口語訳)#49:22|聖詠四十八の廿二]]〕。されば罪人に平安あるなくんば此の{{註|汝にあるの}}平安はいかなるものなるか。我等は恐る、けだし録していへるあり『人々平和安固なりといはん時{{r|忽|たちま}}ちにして滅亡は彼等を襲はん、妊婦に{{r|劬|く}}{{r|労|ろう}}の{{r|来|きた}}るが如く人々避くるを得ざるべし』〔[[テサロニケ人への第一の手紙(口語訳)#5:3|ソルン前五の三]]〕。されども亦神の名を呼ぶを廃せしめんが為に敵が狡計をもて心に暫時平穏を感ぜしむるの場合あり、けだし神の名を呼ぶによりて敵が無力にさるゝことは敵に知られざるにあらざればなり。此を知りて我等は神の名を助けに呼ぶをやめざらん、けだし是れ即ち祈祷なればなり、聖書にいふあり『間断なく祈祷せよ』と〔[[テサロニケ人への第一の手紙(口語訳)#5:18|ソルン前五の十八]]〕。さて間断なきものは終り有らざるなり。 百四十八、 {{r|唱詩|しょうし}}或は祈祷或は読経の時に当りあしき思念の生ずるあらばこれに注意し清き思念をもてこれに抵抗せんが為めに{{r|唱詩|しょうし}}祈祷或は読経を一時中止するを要するか。――これを{{r|軽賤|けいせん}}すべく{{r|唱詩|しょうし}}祈祷{{r|若|もし}}くは読経に更に子細に注意すべし、{{r|汝|なん}}ぢ{{r|誦|しょう}}する所の{{r|言|ことば}}より力を借らんが為なり。されどももし敵の思念を研究し始むるあらんには敵がすゝむる所の者に注意して何の善をも永く{{r|為|なし}}{{r|得|う}}るあらざらん。されば敵の狡猾が{{r|唱詩|しょうし}}祈祷或は読経をに妨ぐるを見るあらば其時彼れと競争するなかれ、何となれば此れ汝の力の能くする所にあらざればなり、神の名を呼ぶに盡力せよ、さらば神は汝に助けて敵の詭計を{{r|空|むなし}}うせん。 百四十九、 祈祷、読経及び{{r|唱詩|しょうし}}の時に感動をいかにして得べきか。――それ感動は間断なき想起より{{r|来|きた}}る。故に祈祷する者は己の行と又其これに類する行を為す者のいかに審判せらるゝを心に想起すべし、視よ{{r|彼|か}}の恐るべき声は左の如し曰く『{{r|詛|のろひ}}をうくる者は我を離れて永火に入れ』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#25:41|馬太二十五の四十一]]〕。さて読経と唱詩の時に当り感動の生ずるは人が其の心を起して{{r|誦|しょう}}する所の{{r|言|ことば}}に注意し其の言中に{{r|籠|こ}}もる所の力を己の霊中に受くるにかゝるなり、其の善なるものは善徳に熱心なる者とならしめんが為め又悪の為めの{{r|報|むくひ}}をいふものは悪を{{r|作|な}}す者に及ばんとするものを避けしめんが為めなるによる。されども此事を回想するを守りつるも其時にも{{r|所謂|いはゆる}}無感覚の{{r|尚|なほ}}汝に存するあらば弱わるなかれ、けだし我等が勉励をうくる所の神は仁慈に{{r|鴻恩|こうおん}}に{{r|且|かつ}}寛容なればなり。{{r|唱詩|しようし}}{{r|者|しや}}のいふ所を常に想起すべし、『我れ切に主を{{r|恃|たの}}むに主は我に傾けり』〔[[詩篇(口語訳)#40:1|聖詠三十九の一]]〕。此を学びて神の{{r|矜恤|あはれみ}}の{{r|速|すみやか}}に汝に来らんことを望むべし。 百五十、 我れ{{r|唱詩|しようし}}{{r|者|しや}}の{{r|言|ことば}}の{{r|旨|し}}{{r|趣|しゅ}}を子細に推究するを勤むる時に{{r|其|その}}{{r|言|ことば}}よりして悪なる意思に移ること屡々これあり。――敵が唱詩の言に{{r|因|ちな}}み汝に{{r|向|むかひ}}て{{r|戦|たたかひ}}を挑むに工夫を{{r|凝|こら}}せるを{{r|汝|なん}}ぢ察見する時に特別の勉励をもて詩の言の力に{{r|思|おもひ}}を潜むるを勤めんは無用なるべし。注意と共に{{r|誘|いざな}}はれずしてこれを読むべし、けだし汝はたゞ詩の言を唱ふのみなるも敵は其の言の力を知りて汝に敵する能はざればなり、さればかゝる唱詩は汝の為に神に祈願するに{{r|代|かは}}りて敵に勝つに{{r|資|たす}}けん。 百五十一、 {{r|唱詩|しようし}}に練習するの間或は又人々と会見の時に{{r|諸|もろもろ}}の思念が汝を動揺せしむるあらんに我れ口にて神を呼ぶの便利あらずして心にて呼び或はたゞ神を想起するのみなる時は{{r|豈|あに}}此れ我を助くるに不充分なるか。――それ唱詩の時にあたり或は人々と共にする時に汝に神を呼ぶべき場合あらんに汝は口づから発するなくんば神を呼ばざるものゝ如く思ふなかれ、彼は察心者にして心を見る者なるを記憶して汝の心中に於て彼を呼ぶべし。是れ聖書に{{r|述|のぶ}}る所なり、曰く『{{r|爾|なんぢ}}の{{r|戸|と}}を閉ぢて{{r|隠|いん}}{{r|微|び}}にある汝の父に祈祷せよ』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#6:6|馬太六の六]]〕。されば我等は口を閉ぢ心中に於て彼れに祈らん、けだし口を閉ぢて神を呼び或は己の心中に於て彼れに祈祷する者はこれこれを命ずる所の誡命を行ふなり。されども心中に神を呼ばずしてたゞ神を想起するのみならばこは更にいよ{{ku}}迅速{{註|便利}}なるべし而してこは汝を助くるに充分なりとす。 百五十二、 常に心に神を思念し或は{{r|言|ことば}}の助けを{{r|假|か}}らず中心に於て神に祈祷するは{{r|宜|よろし}}きや否や。或時我れ此事を練習し我が{{r|思|おもひ}}の散乱に陥り{{r|宛|さなが}}ら夢中の妄想に在るが如きに遭遇したることあり。――智識の正を失はず放心或は妄想に{{r|力|つと}}めて陥らざるは是れ即ち己の智識を統御し常に神を畏るゝの畏れによりてこれを保つを得る所の完全者の行なり。されども神の為めに恒なる清醒を有する能はざる者は舌にも教訓を{{r|與|あた}}ふべし{{註|即ち舌を以ても神に祈るの言を復誦せしむべし}}此れに類するの事を我等は海を{{r|游|およ}}ぐ者に於ても見るなりそれ{{r|彼|か}}の練達者は游泳の術を善く学び得たる者をば海の{{r|溺|おぼ}}らす能はざるを知りて{{r|敢|あへ}}て自ら己を海中に投ず。されども此の術を学び始むる所の者は{{r|最早|もはや}}深處にあるを知りて溺れんを恐るゝにより急ぎて深處より岸上に游ぎ来り而して{{r|暫|しばら}}く休息して再び身を深處に投ず、かくの如くに練習するはこれ己れより先き既に此を学び得たる者の段に達せざらん迄は此の術を完全に{{r|識|し}}らんが為なり。 百五十三、 多くの事件の為めに祈祷する時は其の事件を各々祈祷に於て記憶すべきや否。――{{r|汝|なん}}ぢ許多の事件の為に祈祷せんと欲せば神は我等何に於て必要を有するを知るにより左の如く祈祷すべし、主宰主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>よ汝の旨に{{r|循|したがひ}}て我を教へ給へと。されども欲の為めなる時はいふべし汝の旨に{{r|循|したがひ}}て我を教へ給へと。誘惑の為めなる時はいふべし汝は我れに有益なる者を知る、我が弱きを助けて我れに汝の旨に{{r|循|したがひ}}て誘惑より救はるゝを得しめ賜へと。 百五十四、 祈祷に於てはすべてを全能なる神の旨に托するやうに特に留心すべし、而して其の祈祷の目的は我等が願ふ所をして神の旨の如くならしめんことを要すべし。 百五十五、 読経の為め又は手工の為めに坐して祈祷せんと欲するに思念が我に勧めて東に向はしめんとするあらば我れいかに為すべきか。――坐するか将た行くか将た何に従事するか将た食ふか或は身体の需要の為に他の何事をか為しあらんに東に、否西に向ふべきの場合ありとも祈祷するに躊躇するなかれ、けだし我等は間断なく又いづれの時にもこれを行ふべしとの誡命をうけたればなり。たゞこれを行ふに軽忽を以てせざらんやうに留心すべし。 百五十六、 思念は我等に勧めていふやう汝はすべてに於て罪を犯す、故に毎言毎行毎思念につきていふべし我は罪を犯せりと、けだしもし我れ罪を犯せりといはざるならば是れ即ち己を罪を犯さゞりし者と思ふなりと。――我等は{{r|言|ことば}}に於ても{{r|行|おこなひ}}に於ても{{r|思|おもひ}}に於てもすべて罪を犯すとの{{r|篤信|とくしん}}を常に有すべし、されども{{r|何|いづ}}れの場合にも我れ罪を犯せりといふことは能はざるなり。{{r|是|こ}}れ我等を{{r|失心|しっしん}}に{{r|擠|お}}さんとする{{r|摩鬼等|まきら}}の{{r|勧|すす}}むる所なり。されば我等が{{r|毎行|まいぎょう}}{{r|此|かく}}の如くにいはずんば我等は己を罪を犯さゞりし者とするものゝ如く我等に勧むるなり。然れども我等は伝道の書にいふ所を記憶す曰く『言ふに時あり黙するに時あり』〔[[伝道の書(口語訳)#3:7|伝道書三の七]]〕。されば朝には{{註|過ぎし}}夜の為め{{r|又晩|く}}れには昼の為めに我等が祈祷に於て痛悔と共に主宰たる神につげていはん、主宰よ汝の聖なる名の為めにすべてを我れに赦し給へ、{{傍点|style=sesame|我が霊を愈し給へ我れ汝に罪を得ればなり}}と〔[[詩篇(口語訳)#41:4|聖詠四十の五]]〕。されば汝は此れ{{r|猶|なほ}}{{r|誰|たれ}}か常なる{{r|債主|さいしゅ}}を有して彼より金を{{r|各|かく}}{{r|時|じ}}に借らんに{{r|毎々|まいまい}}{{r|彼|か}}れと{{r|精確|せいかく}}に決算し{{r|得|う}}べき{{r|有|あ}}らずして一度に{{r|清還|せいかん}}するものに似たり、{{r|此處|ここ}}に於てもかくの如くするなり。 百五十七、 唱詩の時に当り智識の迷ふある時は如何にすべきか。――もし放心によりて{{r|思|おも}}ひ{{r|錯|あや}}まるある時は{{r|回帰|ひきかへ}}りて前に置く所の詩の我が記憶に存する言より始めよ。されども一度二度三度{{r|回帰|ひきかへ}}りて汝の{{r|誦読|しょうどく}}が{{r|断|たた}}れたる所の言を想起し難きあり或は想起したるも誦読を続くべき場所の見付け難きある時は同詩を最初より始めよ。敵の目的は忘るゝをもて頌讃に{{r|妨|さまたげ}}を為すにあり。前に置く所の詩を順序によりて読むは頌讃なり、されども此の時に放心せざることはたゞ其の清き心情を有する者にのみ能くすべし、さりながら我等は{{r|尚|なほ}}薄弱なり。されば我等は己の放心を認むるある時は読む所を理解せんが為めに{{r|醒心|せいしん}}を回復せん、然らずんば頌讃は我等の為めに定罪とならん。 百五十八、 さて祈祷中智識の{{r|牽|ひ}}かるゝある時はいかに為すべきか。――神に祈祷して智識の{{r|牽|ひ}}かるゝある時は放心なくして祈祷するに至る迄は苦戦すべく{{r|又|また}}{{r|牽|ひ}}かれざらんやうに汝の智識を醒ますべし。されども此事の長く続く時はたとひ祈祷の終りに至るとも内に己を責め感動をもていふべし、曰く主よ我を{{r|矜|あはれ}}み給へ我れに我が悉くの罪を赦し給へと。さらば汝は悉くの罪に於て{{r|赦|ゆるし}}をうけ祈祷の時に生じたる放心に於ても赦をうけん。 百五十九、 兄弟の詩をよむ時我等が思の時として平安に存するあり又時として{{r|牽|ひ}}かるゝあり。我れいかに為すべきか。――汝が思の平安に存して兄弟の誦読により感動をうくるを見る時は此の行を固く執るべし。されども汝の智識が他の思に{{r|誘|いざな}}はるゝを見る時は己を責むべく{{r|且|かつ}}己れをして兄弟の讃頌に心を{{r|留|と}}めしむべし。されどもし智識の重ねて{{r|誘|いざな}}はるゝを見る時は重ねてこれに禁ぜよ、而して{{r|三次|さんたび}}に至る迄はかく為すべし。さりながら智識が存し{{r|止|とど}}まる{{註|此れに}}時はこれを誦読より誘引すべし、されどもこれを閑散に置くなかれ、審判と永苦とを思はしむべく{{r|且|かつ}}神の聖なる名に祈祷していふべし、曰く主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>よ我等を{{r|矜|あは}}れみ給へ。 百六十、 もし誰か兄弟と共に唱詩に立ちて兄弟が読む所の詩を知らざるあらんにこれを聴くは己れに益あるか或は己の知る所の者をよむは更に益あるか。――兄弟が読む所の詩を知らざる者はこれを聴くに代へて自から知る所の者を読むと更に益あり、けだし放心は聴くと{{r|混|こん}}ずればなり。 百六十一、 運動は{{註|悪念に対するの}}は{{sic}}あしき思念に傾かず又これに同意せずして{{r|穏|おだやか}}に神に{{r|趨|はし}}り{{r|就|つ}}くにあるべし。故に思念の入るあらば動揺するなかれ、思念の何を為さんと欲するを調査し{{r|穏|おだやか}}に主を呼びてこれに敵すべし。主は{{二重線|イウデヤ}}の地に来り、即ち人心に来りて悪魔を{{r|逐|お}}はん。故に彼れに呼ぶこと門徒の如くなるべし、曰く『主や我等を救ひ給へ我等{{r|亡|ほろ}}びん』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#8:25|馬太八の二十五]]〕さらば彼は{{r|醒|さ}}め{{r|起|お}}きて思念の風に禁じて{{r|風|かぜ}}{{r|穏|おだやか}}ならん、けだし彼れの{{r|力|ちから}}と{{r|栄|さかえ}}とは世々にあればなり。 {{DEFAULTSORT:きとうせいせいしゆう せいなるたいろうわるそのふいいおよひいおあんのきようくん4}} [[Category:祈祷惺々集|94]] 3ibirimqzut1i0jzwt4kx0iz2zsquje 188217 188216 2022-08-05T11:16:06Z 村田ラジオ 14210 147:』』ダブリを修正 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|祈祷惺々集|hide=1}} {{header | title = 祈祷惺々集 | section = 聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(4) | year = 1896 | 年 = 明治二十九 | override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|斐沃芳(フェオファン)]] (19世紀) | override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} | noauthor = | previous = [[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(3)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(3)]] | next = [[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5)|聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(5)]] | notes = *発行所:正教会編輯局 *屡〻、各〻の二の字点は屡々、各々に改めた。 }} <b>聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓</b> ::<b>祈祷と清醒の事</b> 百三十二、 {{註|淫行、醜事又は嫉妬等の如き其の微細なる思念と粗大なる思念とにつきて}}――微細なる思念に力を{{r|盡|つく}}して其の粗大なるを{{r|忽|たちまち}}にする者は{{r|恰|あたか}}も左の人に似たるあり、其の家不潔にして種々の{{r|砕片|さいへん}}を{{r|充|み}}て、中に細小の{{r|塵埃|じんあい}}もあらんに{{r|彼|か}}れこれを清潔にせんと{{r|思|おもひ}}{{r|立|た}}ちて{{r|先|ま}}づ家より細小の{{r|塵埃|じんあい}}を{{r|搬|はこ}}び{{r|出|いだ}}したれど石又は{{r|其|その}}{{r|他|た}}の{{r|躓|つま}}づきとなるべき物を{{r|遺|のこ}}しき。もし彼は細小の{{r|塵埃|じんあい}}をすべて{{r|搬|はこ}}び{{r|出|いだ}}すといへどもこれによりて其家は{{r|未|いま}}だ美麗を得ざるべし、されども石又は其他を{{r|搬|はこ}}び{{r|出|いだ}}す時は{{r|塵埃|じんあい}}も{{r|遺|のこ}}さゞらん、けだし彼れも{{r|醜|みにく}}きをなせばなり。 百三十三、 いかにせば神を畏るゝの畏れを我が{{r|頑|かたくな}}なる心に確として{{r|存|そん}}せしむることを{{r|得|う}}べきか。――すべてを畏るゝの畏れをもて行ふべし且此の畏れを賜はらんが為めに心を備へて{{註|己の力に及ぶ丈心を其れに向けて}}神を呼ぶべし。すべての事に於て此の畏れを己の目前に置くあらば此の{{r|畏|おそれ}}は我が心に確として動かざるものとならん。 百三十四、 神を畏るゝ畏れの我が記憶に{{r|来|きた}}るあらんに{{r|我|わ}}れ{{r|彼|か}}の審判を想起して直ちに感動すること数回これあり。我れ此事を如何に受用すべきか。――それ此事の汝が記憶に来る時、{{r|即|すなはち}}汝の{{r|識|し}}ると{{r|識|し}}らずして犯しゝ所の事を感動する時は{{r|汝|なんぢ}}{{r|宜|よろ}}しく注意すべし此れ{{r|魔鬼|まき}}の働きにより生じ{{r|愈々|いよいよ}}{{r|大|おほい}}なる定罪に至らしむるにあらざらんかと。されどいかにして真実の記憶を{{r|魔鬼|まき}}の働きによりて{{r|来|きた}}る所の記憶より弁別すべきかと問ふあらんか、{{r|宜|よろし}}く聴くべしかゝる記憶の汝に来るあらんに汝は{{r|匡正|きょうせい}}をあらはさんと実際に勤むるならばこれ真実の記憶にしてこれにより罪は赦さるゝなり。されど想起して{{註|神を畏るゝと審判とを}}感動するも其後再び同罪に陥り又は更にあしき罪に陥るを見るあらんにはかゝる記憶は敵者よりするものにして魔鬼が此を汝に入れて汝の{{r|霊|たましひ}}を定罪に付するものたることは汝に知られん。これ汝の為に二の明白なる途なり。ゆゑにもし汝は定罪を畏れんと欲せば魔鬼の行を避くべし。 百三十五、 朝時と暮時とを汝の思念を試みるが為めに適当の時とならしむべし。此の時に汝は己れに問ふべし、我れ夜又は昼を如何に送りしかと。而してもし汝は何の犯罪をか発見するあらば神の助けにより{{r|匡正|きょうせい}}に盡力すべし。 百三十六、 我が霊魂は多くの{{r|疵|きず}}を{{r|有|も}}ちながらいかんして痛哭せざるか。――誰か失ひし所を知らば其の為めに{{r|涕泣|ていきゅう}}す。又誰か願ふ所ある者は其の願ふ所の者を得んを期し多くの旅行をなして多くの患難を忍ぶなり。 百三十七、 或る他人の為にはあらずしてたゞ独一の神の為めに神に属するの{{r|業|わざ}}を為すを努めん。されどもし{{r|此|かく}}の如くならずんば汝の{{r|労|ろう}}は{{r|徒|と}}{{r|然|ぜん}}なるべし。{{r|故|ゆゑ}}に善を{{r|作|な}}して{{r|出来|でき}}る{{r|丈|だけ}}我が意志の為に{{r|其労|そのろう}}の無益となるを致さしめざらんやうに己れに{{r|儆醒|けいせい}}すべし。 百三十八、 聡明に{{r|且|かつ}}{{r|実着|じっちゃく}}に研究して何か汝の為めに善なるが如くに見ゆる所の事に於て{{r|浮誇|ふこ}}{{r|或|あるひ}}は動乱{{r|或|あるひ}}は其のこれに類するものを発見するあらば知るべしその善は神よりするに{{r|非|あらざ}}るを。けだし神の善は常に心の開明と謙遜とを増して人に安静を得しむるものなればなり。 百三十九、 もし善なるが如く見ゆる所のものにして{{r|試|こころみ}}を{{r|経|へ}}て悪なるものと認めらるゝ時はこれを{{r|抛棄|ほうき}}すること{{r|恰|あたか}}も{{r|誰|たれ}}か{{r|美味|びみ}}の如くに見ゆる所の食物を{{r|嘗|な}}めんに其の{{r|苦|にが}}きを覚えて直ちにこれを口より{{r|吐出|はきいだ}}すが如くすべし。 百四十、 天性自然なる思念の推動によりて善良なる者を思ふの場合も{{r|亦|また}}{{r|屡々|しばしば}}これあり、然れども此をも神に{{r|献|ささ}}ぐべし、けだし我等が天性は神の{{r|造|ぞう}}なればなり。されど我等が此れ{{註|即ち善良の思}}を仕遂げんことは神の誡命によらずんば能はざるを知るべし、即ち誡命を目前に置くある時は我等の心はこれによりて善良なる者を{{r|遂|とぐ}}るに固めらるゝなり。 百四十一、 汝もしすべて善なる{{r|行|おこなひ}}を成しすべて誡命を守りし時は{{r|思|おもひ}}を{{r|謙|へりくだ}}らんが為めに次にいふ所の{{r|言|ことば}}を記憶すべし、曰く『汝等すべて{{r|命|めい}}ぜられし事をなせし時もいふべし{{r|無|む}}{{r|益|えき}}の{{r|僕|ぼく}}、{{r|為|な}}すべき事をなせしのみなり』と〔[[ルカによる福音書(口語訳)#17:10|ルカ十七の十]]〕{{r|況|いはん}}や我等一の誡命を成すをも未だ得ざりし時に於てをや。かくの如く我等は常に思ひ善行に由りて己を責め且己れにつげていふべし我れ此の{{r|行|おこなひ}}の神に悦ばるゝや否を知らずと。神の旨に依りて作為するは大なる行なり、されども神の旨を成すは更に大なる行にしてこはすべての誡命を連合するなり。けだし神の旨に{{r|遵|したが}}ひて何なりとも作為するは神の旨を成すに比すれば個々なる且細小なる行なればなり。故に使徒もいへり『後にある者を顧みずして前にある者を望む』〔[[ピリピ人への手紙(口語訳)#3:13|フィリプ三の十三]]〕。それ彼は前進して及ばざる所幾ばくもなかりしといへども止まらずして常に己を見て不充分なるものと思へり、故にそれが為めに上達したりき。 百四十二、 もし誰か神を悦ばすの目的に依らずして善なる{{r|行|おこなひ}}を{{r|為|な}}すあらば此の善なる{{r|行|おこなひ}}は為す者の意志によりて悪なる者となるなり。{{r|人|ひと}}{{r|各々|おのおの}}常に善なる{{r|行|おこなひ}}を為すに力を{{r|盡|つく}}すべし。されば後来神の恩寵により其の{{r|行|おこなひ}}が{{r|最早|もはや}}神を畏るゝの畏れによりて成就すべきをも{{r|與|あた}}へらるゝなり。 百四十三、 {{r|汝|なん}}ぢ{{r|何|いづれ}}の善をか為したるある時は汝は此の神の{{r|賜|たまもの}}{{註|汝に與へられたる}}は神の仁慈に出づるを知るべし、けだし神は衆人を{{r|矜|あはれ}}めばなり。されば神より汝にあらはされ{{r|引|ひき}}て悉くの罪人にも及ばんとする{{r|矜恤|あはれみ}}を汝は己の弱きによりて{{r|亡|ほろぼ}}さゞらんが為めに自から己れに注意すべし。神より汝に善の為めに{{r|與|あた}}へられしものを悪によりて失ふことなかれ、されど此の{{r|賜|たまもの}}は汝が己を賞賛して汝に恩恵を施したる神を忘るゝある時は失はるゝなり。{{r|然|しかる}}のみならず汝は仁慈者たる神に感謝をさゝぐべき所の者を己れに帰するを{{r|敢|あへ}}てするや汝に定罪をも引くあらん。使徒はいへり『{{r|汝|なん}}ぢ{{r|何|いづれ}}のいまだ受けざりしものあるか、もしうけしならば{{r|何為|なん}}ぞいまだうけざる者の如く誇るや』〔[[コリント人への第一の手紙(口語訳)#4:7|コリンフ前四の七]]〕。故に汝は決して{{r|誘|いざな}}はれて善行の為めに汝を賞賛する所の思念に依頼するなかれ。一切の善は神に属す。 百四十四、 諸聖人は聖神を己れに有するを賜はりて聖神の{{r|殿|みや}}となるなり。聖書にいふあり『彼等に{{r|住|やど}}り且歩み給へり』〔[[コリント人への第二の手紙(口語訳)#6:16|コリンフ後六の十六]]〕。罪人等は此れより遠ざかる、所の如し、曰く『{{r|睿智|えいち}}は悪なる{{r|霊|たましひ}}に入らず』〔[[ソロモンの智慧 第一章|智慧書一の四]]〕。されど彼等は神の恩寵にて{{註|悔改の為めに}}守らるべし。 百四十五、 詩を{{r|唱|とな}}ふに{{r|方|あた}}り汝の心の高ぶらんとする時は録する所の{{r|言|ことば}}を{{r|憶|おも}}ふべし、曰く『叛逆する者に自から誇るなからしむ』〔[[詩篇(口語訳)#66:7|聖詠六十五の七]]〕。さて叛逆するするとは即ち神を畏るゝの畏れをもて聡明に歌はざるを意味するなり。詩を{{r|唱|とな}}ふに{{r|方|あた}}り汝の{{r|思|おもひ}}の{{r|浮戯|うか}}れざるや否を{{r|試|ため}}すべし、さらば汝は其の{{r|浮戯|うか}}るゝと又これに{{r|随|したがひ}}て神に叛逆するとを必ず発見せん。 百四十六、 詩を{{r|唱|とな}}ふに{{r|方|あた}}り思念の為めに{{r|苦|くるし}}められ{{r|将|は}}た{{r|其|そ}}れなくしても神の名を助けに呼ばんに敵は我に{{r|密|ひそか}}につげていへらく神の名を間断なく呼ぶは{{r|虚|きょ}}{{r|誇|こ}}に導くべし、けだし人は其時我れ善く行為すと思ふべければなりと、此の事をいかに思ふべきか。――それ病者の医と其治療とを常に要求し又漂流する者の{{r|溺没|できぼつ}}に{{r|遭|あ}}ふを免れんが為め{{r|断|た}}えず避難所に達するに急にするは我等の知る所なり、{{r|此|これ}}に由りて預言者も{{r|大|おほい}}に呼んでいふやう『主は世々に我等が{{r|避所|かくれが}}たり』〔[[詩篇(口語訳)#90:1|聖詠八十九の一]]〕又いふやう『神は我等が{{r|避所|かくれが}}と{{r|能力|ちから}}なり患難の時には、{{r|速|すみやか}}なる{{r|佑助|たすけ}}なり』〔[[詩篇(口語訳)#46:1|聖詠四十五の一]]〕。故に我等は患難の時に於て必ず緊要に{{r|矜恤|きょうじゅつ}}なる神を呼ぶを学ばん。されども神の名を呼ぶも{{r|思|おもひ}}にて誇らざるべし。愚者に{{r|非|あらざ}}るよりは{{r|誰|たれ}}か人より助けをうけて自ら誇るか。されば我等は神に必要を有する者として敵に対して神の名を助けに呼ばんにもし無智にあらずんば{{r|思|おもひ}}にて誇るべからざるなり、けだし必要によりて呼び{{r|憂|うれ}}ひて{{r|趨|はし}}り{{r|附|つ}}けばなり。{{r|然|しかる}}のみならず我等神の名を間断なく呼ぶはこれたゞ欲を殺すのみならず欲の働きをも殺す為の療法なるを我等は必ず知らざるべからず。医者が療法{{註|適当の}}{{r|若|もし}}くは{{r|膏薬|こうやく}}を求めて患者の疵に{{r|貼|は}}りて{{r|効|こう}}あらんに、病者は其の如何に行はるゝを知らざるが如く実に其の如く神の名も呼ばれてたとひ其の行はるゝ{{r|所以|ゆえん}}を我等は知らずといへども悉くの欲を殺すなり。 百四十七、 我が{{r|思|おもひ}}の{{r|静黙|せいもく}}して{{r|擾|みだ}}さるゝなく{{r|煩|わづら}}はさるゝなしと我が{{r|意|い}}に思はるゝあらんに其時も主宰<u>ハリストス</u>の名を呼ぶことを学ぶは宜しきや否や。けだし思念は{{r|我|わ}}れにつげていへらく今我等は平安に居れば此れに必要あるなしと。――我等己を罪人と認むる間は此の平安を有すと思ふべからず、けだし聖書にいふあり『罪人に平安ある無し』〔[[詩篇(口語訳)#49:22|聖詠四十八の廿二]]〕。されば罪人に平安あるなくんば此の{{註|汝にあるの}}平安はいかなるものなるか。我等は恐る、けだし録していへるあり『人々平和安固なりといはん時{{r|忽|たちま}}ちにして滅亡は彼等を襲はん、妊婦に{{r|劬|く}}{{r|労|ろう}}の{{r|来|きた}}るが如く人々避くるを得ざるべし』〔[[テサロニケ人への第一の手紙(口語訳)#5:3|ソルン前五の三]]〕。されども亦神の名を呼ぶを廃せしめんが為に敵が狡計をもて心に暫時平穏を感ぜしむるの場合あり、けだし神の名を呼ぶによりて敵が無力にさるゝことは敵に知られざるにあらざればなり。此を知りて我等は神の名を助けに呼ぶをやめざらん、けだし是れ即ち祈祷なればなり、聖書にいふあり『間断なく祈祷せよ』と〔[[テサロニケ人への第一の手紙(口語訳)#5:18|ソルン前五の十八]]〕。さて間断なきものは終り有らざるなり。 百四十八、 {{r|唱詩|しょうし}}或は祈祷或は読経の時に当りあしき思念の生ずるあらばこれに注意し清き思念をもてこれに抵抗せんが為めに{{r|唱詩|しょうし}}祈祷或は読経を一時中止するを要するか。――これを{{r|軽賤|けいせん}}すべく{{r|唱詩|しょうし}}祈祷{{r|若|もし}}くは読経に更に子細に注意すべし、{{r|汝|なん}}ぢ{{r|誦|しょう}}する所の{{r|言|ことば}}より力を借らんが為なり。されどももし敵の思念を研究し始むるあらんには敵がすゝむる所の者に注意して何の善をも永く{{r|為|なし}}{{r|得|う}}るあらざらん。されば敵の狡猾が{{r|唱詩|しょうし}}祈祷或は読経をに妨ぐるを見るあらば其時彼れと競争するなかれ、何となれば此れ汝の力の能くする所にあらざればなり、神の名を呼ぶに盡力せよ、さらば神は汝に助けて敵の詭計を{{r|空|むなし}}うせん。 百四十九、 祈祷、読経及び{{r|唱詩|しょうし}}の時に感動をいかにして得べきか。――それ感動は間断なき想起より{{r|来|きた}}る。故に祈祷する者は己の行と又其これに類する行を為す者のいかに審判せらるゝを心に想起すべし、視よ{{r|彼|か}}の恐るべき声は左の如し曰く『{{r|詛|のろひ}}をうくる者は我を離れて永火に入れ』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#25:41|馬太二十五の四十一]]〕。さて読経と唱詩の時に当り感動の生ずるは人が其の心を起して{{r|誦|しょう}}する所の{{r|言|ことば}}に注意し其の言中に{{r|籠|こ}}もる所の力を己の霊中に受くるにかゝるなり、其の善なるものは善徳に熱心なる者とならしめんが為め又悪の為めの{{r|報|むくひ}}をいふものは悪を{{r|作|な}}す者に及ばんとするものを避けしめんが為めなるによる。されども此事を回想するを守りつるも其時にも{{r|所謂|いはゆる}}無感覚の{{r|尚|なほ}}汝に存するあらば弱わるなかれ、けだし我等が勉励をうくる所の神は仁慈に{{r|鴻恩|こうおん}}に{{r|且|かつ}}寛容なればなり。{{r|唱詩|しようし}}{{r|者|しや}}のいふ所を常に想起すべし、『我れ切に主を{{r|恃|たの}}むに主は我に傾けり』〔[[詩篇(口語訳)#40:1|聖詠三十九の一]]〕。此を学びて神の{{r|矜恤|あはれみ}}の{{r|速|すみやか}}に汝に来らんことを望むべし。 百五十、 我れ{{r|唱詩|しようし}}{{r|者|しや}}の{{r|言|ことば}}の{{r|旨|し}}{{r|趣|しゅ}}を子細に推究するを勤むる時に{{r|其|その}}{{r|言|ことば}}よりして悪なる意思に移ること屡々これあり。――敵が唱詩の言に{{r|因|ちな}}み汝に{{r|向|むかひ}}て{{r|戦|たたかひ}}を挑むに工夫を{{r|凝|こら}}せるを{{r|汝|なん}}ぢ察見する時に特別の勉励をもて詩の言の力に{{r|思|おもひ}}を潜むるを勤めんは無用なるべし。注意と共に{{r|誘|いざな}}はれずしてこれを読むべし、けだし汝はたゞ詩の言を唱ふのみなるも敵は其の言の力を知りて汝に敵する能はざればなり、さればかゝる唱詩は汝の為に神に祈願するに{{r|代|かは}}りて敵に勝つに{{r|資|たす}}けん。 百五十一、 {{r|唱詩|しようし}}に練習するの間或は又人々と会見の時に{{r|諸|もろもろ}}の思念が汝を動揺せしむるあらんに我れ口にて神を呼ぶの便利あらずして心にて呼び或はたゞ神を想起するのみなる時は{{r|豈|あに}}此れ我を助くるに不充分なるか。――それ唱詩の時にあたり或は人々と共にする時に汝に神を呼ぶべき場合あらんに汝は口づから発するなくんば神を呼ばざるものゝ如く思ふなかれ、彼は察心者にして心を見る者なるを記憶して汝の心中に於て彼を呼ぶべし。是れ聖書に{{r|述|のぶ}}る所なり、曰く『{{r|爾|なんぢ}}の{{r|戸|と}}を閉ぢて{{r|隠|いん}}{{r|微|び}}にある汝の父に祈祷せよ』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#6:6|馬太六の六]]〕。されば我等は口を閉ぢ心中に於て彼れに祈らん、けだし口を閉ぢて神を呼び或は己の心中に於て彼れに祈祷する者はこれこれを命ずる所の誡命を行ふなり。されども心中に神を呼ばずしてたゞ神を想起するのみならばこは更にいよ{{ku}}迅速{{註|便利}}なるべし而してこは汝を助くるに充分なりとす。 百五十二、 常に心に神を思念し或は{{r|言|ことば}}の助けを{{r|假|か}}らず中心に於て神に祈祷するは{{r|宜|よろし}}きや否や。或時我れ此事を練習し我が{{r|思|おもひ}}の散乱に陥り{{r|宛|さなが}}ら夢中の妄想に在るが如きに遭遇したることあり。――智識の正を失はず放心或は妄想に{{r|力|つと}}めて陥らざるは是れ即ち己の智識を統御し常に神を畏るゝの畏れによりてこれを保つを得る所の完全者の行なり。されども神の為めに恒なる清醒を有する能はざる者は舌にも教訓を{{r|與|あた}}ふべし{{註|即ち舌を以ても神に祈るの言を復誦せしむべし}}此れに類するの事を我等は海を{{r|游|およ}}ぐ者に於ても見るなりそれ{{r|彼|か}}の練達者は游泳の術を善く学び得たる者をば海の{{r|溺|おぼ}}らす能はざるを知りて{{r|敢|あへ}}て自ら己を海中に投ず。されども此の術を学び始むる所の者は{{r|最早|もはや}}深處にあるを知りて溺れんを恐るゝにより急ぎて深處より岸上に游ぎ来り而して{{r|暫|しばら}}く休息して再び身を深處に投ず、かくの如くに練習するはこれ己れより先き既に此を学び得たる者の段に達せざらん迄は此の術を完全に{{r|識|し}}らんが為なり。 百五十三、 多くの事件の為めに祈祷する時は其の事件を各々祈祷に於て記憶すべきや否。――{{r|汝|なん}}ぢ許多の事件の為に祈祷せんと欲せば神は我等何に於て必要を有するを知るにより左の如く祈祷すべし、主宰主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>よ汝の旨に{{r|循|したがひ}}て我を教へ給へと。されども欲の為めなる時はいふべし汝の旨に{{r|循|したがひ}}て我を教へ給へと。誘惑の為めなる時はいふべし汝は我れに有益なる者を知る、我が弱きを助けて我れに汝の旨に{{r|循|したがひ}}て誘惑より救はるゝを得しめ賜へと。 百五十四、 祈祷に於てはすべてを全能なる神の旨に托するやうに特に留心すべし、而して其の祈祷の目的は我等が願ふ所をして神の旨の如くならしめんことを要すべし。 百五十五、 読経の為め又は手工の為めに坐して祈祷せんと欲するに思念が我に勧めて東に向はしめんとするあらば我れいかに為すべきか。――坐するか将た行くか将た何に従事するか将た食ふか或は身体の需要の為に他の何事をか為しあらんに東に、否西に向ふべきの場合ありとも祈祷するに躊躇するなかれ、けだし我等は間断なく又いづれの時にもこれを行ふべしとの誡命をうけたればなり。たゞこれを行ふに軽忽を以てせざらんやうに留心すべし。 百五十六、 思念は我等に勧めていふやう汝はすべてに於て罪を犯す、故に毎言毎行毎思念につきていふべし我は罪を犯せりと、けだしもし我れ罪を犯せりといはざるならば是れ即ち己を罪を犯さゞりし者と思ふなりと。――我等は{{r|言|ことば}}に於ても{{r|行|おこなひ}}に於ても{{r|思|おもひ}}に於てもすべて罪を犯すとの{{r|篤信|とくしん}}を常に有すべし、されども{{r|何|いづ}}れの場合にも我れ罪を犯せりといふことは能はざるなり。{{r|是|こ}}れ我等を{{r|失心|しっしん}}に{{r|擠|お}}さんとする{{r|摩鬼等|まきら}}の{{r|勧|すす}}むる所なり。されば我等が{{r|毎行|まいぎょう}}{{r|此|かく}}の如くにいはずんば我等は己を罪を犯さゞりし者とするものゝ如く我等に勧むるなり。然れども我等は伝道の書にいふ所を記憶す曰く『言ふに時あり黙するに時あり』〔[[伝道の書(口語訳)#3:7|伝道書三の七]]〕。されば朝には{{註|過ぎし}}夜の為め{{r|又晩|く}}れには昼の為めに我等が祈祷に於て痛悔と共に主宰たる神につげていはん、主宰よ汝の聖なる名の為めにすべてを我れに赦し給へ、{{傍点|style=sesame|我が霊を愈し給へ我れ汝に罪を得ればなり}}と〔[[詩篇(口語訳)#41:4|聖詠四十の五]]〕。されば汝は此れ{{r|猶|なほ}}{{r|誰|たれ}}か常なる{{r|債主|さいしゅ}}を有して彼より金を{{r|各|かく}}{{r|時|じ}}に借らんに{{r|毎々|まいまい}}{{r|彼|か}}れと{{r|精確|せいかく}}に決算し{{r|得|う}}べき{{r|有|あ}}らずして一度に{{r|清還|せいかん}}するものに似たり、{{r|此處|ここ}}に於てもかくの如くするなり。 百五十七、 唱詩の時に当り智識の迷ふある時は如何にすべきか。――もし放心によりて{{r|思|おも}}ひ{{r|錯|あや}}まるある時は{{r|回帰|ひきかへ}}りて前に置く所の詩の我が記憶に存する言より始めよ。されども一度二度三度{{r|回帰|ひきかへ}}りて汝の{{r|誦読|しょうどく}}が{{r|断|たた}}れたる所の言を想起し難きあり或は想起したるも誦読を続くべき場所の見付け難きある時は同詩を最初より始めよ。敵の目的は忘るゝをもて頌讃に{{r|妨|さまたげ}}を為すにあり。前に置く所の詩を順序によりて読むは頌讃なり、されども此の時に放心せざることはたゞ其の清き心情を有する者にのみ能くすべし、さりながら我等は{{r|尚|なほ}}薄弱なり。されば我等は己の放心を認むるある時は読む所を理解せんが為めに{{r|醒心|せいしん}}を回復せん、然らずんば頌讃は我等の為めに定罪とならん。 百五十八、 さて祈祷中智識の{{r|牽|ひ}}かるゝある時はいかに為すべきか。――神に祈祷して智識の{{r|牽|ひ}}かるゝある時は放心なくして祈祷するに至る迄は苦戦すべく{{r|又|また}}{{r|牽|ひ}}かれざらんやうに汝の智識を醒ますべし。されども此事の長く続く時はたとひ祈祷の終りに至るとも内に己を責め感動をもていふべし、曰く主よ我を{{r|矜|あはれ}}み給へ我れに我が悉くの罪を赦し給へと。さらば汝は悉くの罪に於て{{r|赦|ゆるし}}をうけ祈祷の時に生じたる放心に於ても赦をうけん。 百五十九、 兄弟の詩をよむ時我等が思の時として平安に存するあり又時として{{r|牽|ひ}}かるゝあり。我れいかに為すべきか。――汝が思の平安に存して兄弟の誦読により感動をうくるを見る時は此の行を固く執るべし。されども汝の智識が他の思に{{r|誘|いざな}}はるゝを見る時は己を責むべく{{r|且|かつ}}己れをして兄弟の讃頌に心を{{r|留|と}}めしむべし。されどもし智識の重ねて{{r|誘|いざな}}はるゝを見る時は重ねてこれに禁ぜよ、而して{{r|三次|さんたび}}に至る迄はかく為すべし。さりながら智識が存し{{r|止|とど}}まる{{註|此れに}}時はこれを誦読より誘引すべし、されどもこれを閑散に置くなかれ、審判と永苦とを思はしむべく{{r|且|かつ}}神の聖なる名に祈祷していふべし、曰く主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>よ我等を{{r|矜|あは}}れみ給へ。 百六十、 もし誰か兄弟と共に唱詩に立ちて兄弟が読む所の詩を知らざるあらんにこれを聴くは己れに益あるか或は己の知る所の者をよむは更に益あるか。――兄弟が読む所の詩を知らざる者はこれを聴くに代へて自から知る所の者を読むと更に益あり、けだし放心は聴くと{{r|混|こん}}ずればなり。 百六十一、 運動は{{註|悪念に対するの}}は{{sic}}あしき思念に傾かず又これに同意せずして{{r|穏|おだやか}}に神に{{r|趨|はし}}り{{r|就|つ}}くにあるべし。故に思念の入るあらば動揺するなかれ、思念の何を為さんと欲するを調査し{{r|穏|おだやか}}に主を呼びてこれに敵すべし。主は{{二重線|イウデヤ}}の地に来り、即ち人心に来りて悪魔を{{r|逐|お}}はん。故に彼れに呼ぶこと門徒の如くなるべし、曰く『主や我等を救ひ給へ我等{{r|亡|ほろ}}びん』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#8:25|馬太八の二十五]]〕さらば彼は{{r|醒|さ}}め{{r|起|お}}きて思念の風に禁じて{{r|風|かぜ}}{{r|穏|おだやか}}ならん、けだし彼れの{{r|力|ちから}}と{{r|栄|さかえ}}とは世々にあればなり。 {{DEFAULTSORT:きとうせいせいしゆう せいなるたいろうわるそのふいいおよひいおあんのきようくん4}} [[Category:祈祷惺々集|94]] 9wzdrxtiuqss544zczsg8r0gbsk258e Index:Kokubun taikan 07.pdf 252 40094 188196 186565 2022-08-04T20:04:50Z CES1596 4425 proofread-index text/x-wiki {{:MediaWiki:Proofreadpage_index_template |タイプ=図書 |書名=[[:Category:国文大観|國文大觀]]第七編歷史部壹四鏡 |言語=jpn |巻号= |著者=監修:本居豐穎 (1834-1913),木村正辭 (1827-1913),小杉榲邨 (1835-1910),井上賴圀 (1839-1914),落合直文 (1861-1903),編纂:丸岡桂 (1878-1919),松下大三郞 (1878-1935) |訳者= |編者= |挿絵= |教育機関= |出版者=板倉屋書房 |所在地= |年=1903 |Key= |ISBN= |OCLC= |LCCN= |BNF_ARK= |ARC= |底本=pdf |画像=2 |進捗=MS |ページ=<pagelist 1=- 2=扉 3=- 4=目次 5=- 6=大鏡 7=2 202=水鏡 203=2 290=今鏡 291=2 526=増鏡 527=2 /> |分冊= |注釈={{Page:Kokubun taikan 07.pdf/4}} |Width=4800 |Css= |Header= |Footer= }} trqpqfxgjaphyb2v8dt5jn2x4xjblh1 188200 188196 2022-08-04T21:48:12Z CES1596 4425 proofread-index text/x-wiki {{:MediaWiki:Proofreadpage_index_template |タイプ=図書 |書名=[[:Category:国文大観|國文大觀]]第七編歷史部壹四鏡 |言語=jpn |巻号= |著者=監修:本居豐穎 (1834-1913),木村正辭 (1827-1913),小杉榲邨 (1835-1910),井上賴圀 (1839-1914),落合直文 (1861-1903),編纂:丸岡桂 (1878-1919),松下大三郞 (1878-1935) |訳者= |編者= 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187920 2022-08-04T23:09:26Z CES1596 4425 /* 検証済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="4" user="CES1596" /></noinclude>を對照すれば、其歸着する所一にして、彼此共に{{傍点|酷だ笑ふ<!--底本「ふ」が欠落-->べき}}ものあるを見ず。唯だ米國人は贈遺する所の物品を重しとし、日本人は贈遺をなすの精神を重しとするの差あるのみ。  日本人の有する禮の觀念の、凡て其擧止態度の末節に現はるゝが故に、其輕きを擧げて儀型とし、以て禮の本義を批判せんとするは曲論なり、妄斷なり。問者あり、禮と食と孰か重きやと。孟子答へて、『取{{三}}食之重與{{二}}禮之輕{{一}}而比{{レ}}之、{{r|奚<!--底本「爰」-->|なんぞ}}{{r|翅|たゞ}}食重』と曰ひ、金の羽よりも重しとは、豈に一鉤金と一輿羽との謂な<!--底本「な」が欠落-->らんや。方寸の木を取つて岑樓の上に置く、誰か之を以て岑樓よりも高しと謂はんやと曰ふ。試みに日本人に向ひ、誠を語ると、禮を守ると孰か重きやと問はゞ、彼れ必<noinclude></noinclude> 3i6wil2g9ko2i6ooaua3sudi4sooit3 Page:Bushido.pdf/111 250 41743 188204 187910 2022-08-04T23:10:00Z CES1596 4425 /* 検証済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="4" user="CES1596" /></noinclude>ずや、全く米人に相反するの辭を以て答とせんと云ふものあり。其說の當否は姑らく之を置き、次章『至誠』を說くの項下に於て之に論及するものあらん。 {{nop}}<noinclude></noinclude> 1mgehp09ihtm6kzpkl0euw7c154uj26 Page:Bushido.pdf/112 250 41744 188205 187911 2022-08-04T23:11:07Z CES1596 4425 /* 検証済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="4" user="CES1596" /></noinclude><span id="chapter7"></span> {{left|{{resize|110%|第七章 至誠<small>信實</small>}}|5em}}  禮若し誠を缺かば諧謔<!--底本「諧譃」-->となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『禮に過ぐれば、諂<!--底本「謟」-->となる』と。又た菅公が誡の歌に、 {{left/s|3em}} 心だに誠の道にかなひなば、<br>    祈らずとても神や守らん。 {{left/e}} とあるは、ポロニヤスが、 {{left/s|3em}} 自から已に誠なるべし、<br> さらば人に誠無き能はず。 {{left/e}} との訓言に比するに義太だ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を歸し、而も殆ど其力を神明と同視<noinclude></noinclude> pl8rso4cyih7yjwr2qansl88e6dnvcu 祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(5) 0 41749 188213 188015 2022-08-05T06:02:23Z 村田ラジオ 14210 203章で入力完了です。 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|祈祷惺々集|hide=1}} {{header | title = 祈祷惺々集 | section = イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(5) | year = 1896 | 年 = 明治二十九 | override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|斐沃芳〔フェオファン)]] (19世紀) | override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} | noauthor = | previous = [[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(3)|イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(4)]] | next = [[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)|克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)]] | notes = *発行所:正教会編輯局 }} <b>{{du|イェルサリム}}の司祭{{ul|イシヒイ}} {{ul|フェオドル}}に{{r|與|あた}}ふる書</b> <b>{{r|清醒|せいせい}}の事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教</b> 百七十、 知る所の事は書に由りて{{r|傳|つた}}ふべく路を過ぎて見たる所の事はその之を望むものに証すべし、もし汝等に言ふ所を汝等うけんと欲せば亦其の如くせん。主は自らいへらく『人もし我れに居らざれば離れたる枝の如く外に{{r|棄|す}}てられて枯る。人もし我れに居り我れ亦かれに居らば多くの実を結ぶべし』〔[[ヨハネによる福音書(口語訳)#15:5|イオアン十五の五、六]]〕。それ太陽は光なくしては{{r|照|てら}}す能はざるが如く心も<u>イイスス</u>の名を呼ぶなくんば有害なる思念の{{r|汚|お}}{{r|穢|わい}}より{{r|潔|きよ}}めらるゝ能はず。もし是れ実に我が見る所の如くならば<u>イイスス</u>の名を用ふること己が呼吸の如くせん。けだし彼れ{{註|<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>の名}}は光にして此れ{{註|汚穢なる思念}}は暗なり。而して彼れ{{註|呼ばるゝ所の}}は神及び主宰にして此は悪魔の僕なり。 百七十一、 智識の守りは光を生ずる者と名づけられ、又電気を生ずる者、光を放つもの及び火を発する者と名づけらるゝこと{{r|固|もと}}より{{r|當然|とうぜん}}なり、けだし実にいはんに最大なる身体上の徳行を誰か{{r|幾何|いくばく}}有するあらんも彼は独り超越するなり。故に此の徳行より生ずる所の明{{r|赫々|かくかく}}たる光の為め彼れには{{r|最|いと}}尊貴なる名をもて名づけんことを要す。無用なる、{{r|汚|お}}{{r|穢|わい}}なる、無学なる、無思慮なる及び不義なる罪人中此の徳行を至愛する者あらば彼等は<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>の力によりて義なる者となり有用なる者となり聖潔なる者となり又賢明なる者となるべし、而してたゞに是れのみにあらず彼等は奥義を悟覚して神学を講ずるを始めん。さらば既に悟覚者となりて彼等は一の至潔なる無限の光に転住し言ふ{{r|可|べか}}らざるの関係をもて彼に関係して彼と共に生き且働くなり、何となれば{{傍点|style=open circle|彼等は主の善の如何}}を{{r|味|あじは}}ひしによる、けだし此等の首天神には神の<u>{{r|太闢|ダウィド}}</u>の{{r|言|ことば}}の応ずること{{r|疑|うたがひ}}なし、曰く『然り義者は{{r|爾|なんぢ}}の名を讃栄し{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}の者は汝が顔の前に居らん』〔[[第十九「カフィズマ」#139:14|聖詠百三十九の十四]]〕。実に彼等はたゞ{{r|一|ひと}}り直に神を呼び神を讃栄し{{r|併|あはせ}}て神を愛しつゝ神と常に談話するをも愛さん。 百七十二、 外部に属する者の為めに内部に属する者に{{r|禍|わざはひ}}あり、けだし内部の人は外部の感覚の為めに多く忍耐すべければなり。されども彼は忍耐する所ありて此等外部の感覚に対し{{r|鞭撻|べんたつ}}を加ふるを要す。生活の実験上に属するものを仕遂げたる者は形而上に属するものをも{{r|最早|もはや}}{{r|了會|りょうかい}}し始むるなり。 百七十三、 もし我等内部の人にして清醒するあらば諸神父の説の如く外部に属するものを守ることをも能くすべし。さて諸神父の説に依るに我等と悪者たる魔鬼とは{{r|両々|りょうりょう}}交通して罪を犯すなり、彼等は思念{{r|或|あるい}}は妄想の図画によりたゞ心上にのみ欲する如くに罪を描くといへども我等は思念即ち内部に於ても罪を想像し又実際外部に於ても罪を犯す。{{r|魔鬼|まき}}は{{r|肥体|ずうたい}}を有するにあらずしてたゞ思念に由り{{r|詭|き}}{{r|計|けい}}と{{r|誑惑|きょうわく}}とを{{r|搆造|こうぞう}}して自己にも又我等にも{{r|苦|くるし}}みを備ふるなり。されども此の{{r|最|いと}}淫蕩なる者にしてもし{{r|肥体|ずうたい}}を{{r|奪|うば}}はれざりしならんか彼等は無法を行はんと欲するの悪意を常に己れに{{r|懐|いだ}}きて不断実行を以ても罪を犯さむるすならん。 百七十四、 然れども専心一意なる{{註|主に対して熱心なる}}祈祷は彼等を粉砕し彼等が{{r|誑惑|きょうわく}}を{{r|追散|おいちら}}さん。けだし我等が不断に怠らずして呼ぶ所の<u>イイスス</u>神及び神の子は罪即ち所謂附着と名づくる所の者を我等に入るゝことだも断じて彼等に{{r|容|ゆる}}さゞればなり、又其の思想の鏡によりて彼れに何の形像を見せしむることをも心中に於て何の談話を言ひ始めしむることをも{{r|容|ゆる}}さゞればなり。されども心中に何の形像も押入ることなくんば我等が{{r|已|すで}}にいひし如く心は思念を離れて虚しきを得ん、けだし{{r|魔鬼|まき}}は通常思念に由り{{r|密|ひそか}}に談話してこれを悪に教へ{{r|導|みち}}びくなり。 百七十五、 故に不断の祈祷により我等が心中の空気は{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|黒暗|こくあん}}なる雲又は風より清くならん。されば心の空気の清まる時は<u>イイスス</u>の神たる光の彼れに照るに妨ぐるもの一もあらざるなり、もしたゞ我等{{r|虚誇|きょこ}}と自負と展示の望みとをもて自ら尊大なることなくんば及び難きの事に{{r|疾|しつ}}{{r|馳|し}}するあらざるべく又それが為め<u>イイスス</u>の助けを奪はるゝことあらざるべし、何となれば<u>ハリストス</u>は謙遜の標準たりつゝすべてかくの如きものを憎み給へばなり。 百七十六、 故に祈祷と謙遜とをつとめん、此の二の武器は炎劒たる清醒と{{r|合|がつ}}して心の戦士が魔鬼に対して武装する所のものなり。もしかくの如く己の生命を導く時は毎日毎時喜ばしき{{r|佳|か}}{{r|節|せつ}}を奥密に心に有するを得ん。 百七十七、 罪なる思念の一切の範囲を包括してあらゆる罪念を生出する所の{{r|首|おも}}なる思念{{r|八|や}}つあり、彼等はみな心の門に近づき智識の{{r|捍衛|かんえい}}するあらざるを見ておの〳〵適時に{{r|交|かはる}}〳〵彼れに入らんとす。此等{{r|八|やつ}}の思念中{{r|何|いづれ}}の思念か心に対し起りてこれに入る時は不潔なる思念の全群を{{r|自|みづ}}から{{r|携|たづさ}}へて入るべし、かくて智識を{{r|暗|くら}}まして身体を{{r|爛|ただ}}らしこれを誘ふて耻づべき{{r|行|おこなひ}}を成さしむるなり。 百七十八、 然れども{{r|蛇|へび}}の{{r|首|かしら}}{{註|附着}}に用心し{{r|忿然|ふんぜん}}{{r|捍禦|かんぎょ}}して{{r|罵詈|ばり}}の{{r|言|ことば}}を発し敵の面を{{r|撲|う}}つこと{{r|恰|あたか}}も拳を以てするが如くなる者はこれをもて{{r|戦|たたかひ}}を絶つべし、けだし彼は首を用心して悪なる思念と{{r|最|いと}}{{r|悪|あく}}なる行為とを避くればなり。かゝりし後は彼れの{{r|思|おもひ}}は{{r|最早|もはや}}波を{{r|起|おこ}}さずして平穏なるべし、何となれば神は彼れが思念に対するの{{r|儆醒|けいせい}}をうけてそれが為め彼に報ゆるに{{r|曉|ぎょう}}{{r|知|ち}}を賜ふていかにして其敵を征服すべきと又いかにして其内部の人を汚す所の思念より心を潔うすべきとを知らしむべけれなり、主<u>イイスス</u>のいふが如し曰く『心より出づるものは悪念……奸淫……これ人を汚すなり』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#15:19|馬太十五の十九]]〕。 百七十九、 かくの如くなれば霊魂は主によりて其の己の殊色と美麗と公明とに留まるを得ること最初神をもて{{r|至|いと}}{{r|美|うる}}はしく且{{r|正直|せいちょく}}なるものに造られしが如くなるを{{r|得|う}}べく神の{{r|大|おほい}}なる僕<u>アントニイ</u>が言ふ所の如くなるを{{r|得|う}}べし、曰く『霊魂に於て智識が天性のまゝあるべき如くにして存する時は徳行はおのづから整備せん』。<u>アントニイ</u>又いへらく『霊魂の為に正しとは智識を其の造られし如く天然の形状のまゝ霊魂に有すといふに同じ』。彼れ又次でいへり『我等は智識を潔うせん、けだし我れ信ず智識が百方潔うせられて其の天然の形状に帰りなば{{r|其|その}}{{r|賦與|ふよ}}せられたる主の啓示を己れに有し透明なる者となりて魔鬼を{{r|大|おほい}}に且遠く見ることを得ん』、とこれ有名なる<u>アントニイ</u>のいへる{{r|言|ことば}}にして大<u>アファナシイ</u>が<u>アントニイ</u>の一代記中に録する所のものなり。 百八十、 もろ〳〵の思念は或る五官を{{r|楽|たのし}}ましむる所の形像を智識に再現せしむるなり、けだし{{二重線|アッシリヤ}}人{{註|敵}}が自から智力を有して誘惑するを得るは他物を{{r|仮|か}}るに非ずして我等の為めに習慣となれる五官を楽ましむる所の者を利用するのみ。 百八十一、 我等かくの如き人は大気に{{r|駕|が}}して羽翼あるの鳥と競走し又は鳥の如くに飛ぶ能はず、何となればこれ吾人の性に適せざればなり、かくの如く清醒にして断えざる祈祷なくんば無形なる魔鬼の思念に勝ち{{r|若|もし}}くは我が智識の目を張りて神に向はしめむことは我等に能はざるなり。もし汝にこれ無くんば汝は地に依りたゞ地上の物の為めに追逐せんのみ。 百八十二、 もし眞に{{r|耻|はぢ}}をもて思念を{{r|掩|おほ}}ひ{{r|當然|とうぜん}}に静黙を守り労なうして心を清醒ならしめんと欲せば<u>イイスス</u>の祈祷を汝の呼吸に{{r|貼|つ}}くべし、さらば汝は数日ならずしてこれを実際に見ん。 百八十三、 文字は空気に書すべからず彫刀にてこれを或る堅硬なる物体に{{r|鐫|ほ}}るべし、永く守らるゝを得んが為なり、かくの如く我等も己が{{r|艱辛|かんしん}}なる清醒を<u>イイスス</u>の祈祷と配合せしむべし、これ清醒の至美なる徳が<u>イイスス</u>と共に我等に於て完然なるものとなり且彼れに{{r|頼|よ}}り永遠奪ふべからざるものとなりて我等に存せんが為めなり。 百八十四、 既にいひしが如く己の行為を主に{{r|托|ゆだ}}ねよ、さらば恩寵を{{r|獲|え}}んこれ汝と共に我等にも{{r|左|さ}}の預言者の{{r|言|ことば}}の関係せざらんが為めなり、曰く『主よ彼等の口は汝に近づけどもその腹は汝に遠ざかる』〔[[エレミヤ書(口語訳)#12:2|イェレミヤ十二の二]]〕。遠く相{{r|隔|へだ}}たる者{{註|即ち神性と人性と}}を己れに配合したる<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>の{{r|外|ほか}}は{{r|何人|なんびと}}も汝の心を情欲より堅く鎮静せしめざるなり。 百八十五、 思念と共に談する心中内部の会話も外部の問答又は閑話も{{r|同|おなじ}}く霊魂を{{r|昏|くら}}ますなり。故にすべて有害なるものを己の心より除くことに尽力する者は彼れ是れ閑話を愛する者をも思念及び人々をも神に於る最貴重すべきの理由により愛惜する所なくして{{r|逐|お}}ふべし、これ即ち智識の{{r|昏|くら}}まされて清醒に弱わらざらんが為めなり、けだし遺忘の為めに{{註|会話により}}{{r|昏|くら}}まされて我等常に智識を失へばなり{{註|何を始め何を思ひ何を為すを知らざるべし}}。 百八十六、 すべての注意をもて心の清きを守る者は立法者たる<u>ハリストス</u>即ち其の旨を奥密に人に{{r|語|つ}}ぐる所の者をもてこれが師となさん。『主神が我れにいふ所をきかん』〔[[詩篇(口語訳)#85:8|聖詠八十四の九]]〕とは是れ<u>{{r|太闢|ダウィド}}</u>の此を指していひしなり。さて彼れ一方には心中作戦の事に於て智識の自己に注視するを{{r|象|かたど}}り又一方には神の彼れに於る代身的保護を{{r|象|かたど}}りつゝまづ最初に敵を見し時は言ひ始めて曰く『時に人いはん義者は誠に果報あり』〔[[詩篇(口語訳)#58:11|聖詠五十七の十二]]〕。然して其後彼れと此れとにつき厳重の熟思によりて成れる所の決定をあらはしこれに加へて曰へり『故に審判を彼等に即ち悪鬼に我が心の{{傍点|style=open circle|地に行ふの神あり}}』と〔前同〕彼れ又他篇に於ていへらく『彼等は不義を尋ね{{r|屡|しばしば}}探りて人の{{r|中|うち}}情と心の深き処に至る、然れども神は矢を以て彼等を射ん彼等{{r|忽|たちまち}}{{r|傷|きずつ}}けられんとす』〔[[詩篇(口語訳)#64:6|聖詠六十三の七、八]]〕されば彼等はかくの如きものとせられんとす。 百八十七、 <u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>と{{r|神父|かみちち}}の力と神の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}とを{{r|断|た}}えず呼吸しこれをもて『智慧の心を{{r|獲|え}}せしむるもの』〔[[詩篇(口語訳)#90:12|聖詠八十九の十二]]〕として常に己を導かん。されどもし何か偶然の事により放下して此の智慧なる業事に怠るあらば翌朝更に善く我が智識の腰に帯しめん、而して此を行ふあらずんば{{傍点|style=sesame|善を行ふを知る}}の我等に何の称義もあるなかるべきを知りいよ〳〵堅く此に従事せん。 百八十八、 毒になる食物は体にうけられて体中に{{r|速|すみやか}}に病の{{r|騒擾|そうじょう}}を{{r|醸|かも}}さん。されどももしこれを嘗めし者にして毒を感ずるや{{r|速|すみやか}}に何の薬によりてかこれを外に{{r|出|い}}だすときは無害にして存せん、かくの如く智識も其のうくる所の<u>イイスス</u>の祈祷により直ちにこれを外に{{r|吐|はき}}{{r|出|い}}だし己れより遠くこれを{{r|抛擲|ほうてき}}する時は此れに{{r|頼|よ}}りて彼等より来るもろ〳〵の害毒を避けんこと{{r|猶|なほ}}神の仁慈により他の教訓と共に己の実験をもて清醒者に{{r|前程|まえほど}}の事を了曉せしむるが如くならん。 百八十九、 清醒して<u>イイスス</u>の祈祷を汝の呼吸と{{r|合|がつ}}すべし、或は死の間断なき思念と謙遜とを{{r|合|がつ}}すべし、彼れと是れとは{{r|大|おほい}}なる益を{{r|與|あた}}へん。 百九十、 主はいへらく『我が心は温柔謙遜なり汝我れに学べ汝の{{r|霊|たましひ}}に安きを得させん』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#11:27|馬太十一の廿七]]〕。 百九十一、 主は又いへり『此の小児の如く謙遜なる者は天国に於て{{r|大|おほい}}なり』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#18:4|馬太十八の四]]〕『自から{{r|高|たか}}うする者は{{r|卑|ひく}}くなる』〔[[ルカによる福音書(口語訳)#18:14|ルカ十八の十四]]〕。且言ふ『我れに学べ』と。{{r|汝|なん}}ぢ見るか学ぶは{{r|即|すなはち}}謙遜なるを。主の誡命は永遠の生命なり然るを此の誡命は即ち謙遜なり。故に謙遜ならざる者は生命より堕落せるなりされば{{r|彼処|かしこ}}に於て変じてこれに反対するものとならんこと必せり。 百九十二、 もろ〳〵の徳行は霊と体とに於て作為せらるべくして我等の{{r|已|すで}}にいひし如くもろ〳〵の徳行の{{r|由|より}}て以て組成せらるゝ所の霊と体とは神の造る所の者ならば我等霊と体とを飾るに他の装飾を以てして自ら尊大にし自ら高慢する時は是れ{{r|豈|あに}}極めて狂愚にあらざるか。而して驕傲に依頼すること{{r|蘆葦|ろい}}に依頼するが如くして己を威徳の無限なる神に反対に立たしめかゝる至極の愚と無智とをもて神の{{r|最|いと}}{{r|怖|おそ}}るべき不愛を己が頭上に{{r|引来|ひききた}}さんことは{{r|豈|あに}}{{r|復|ま}}た殊に狂愚にあらざるか、けだし『主は驕傲の者を{{r|斥|しり}}ぞくるなり』〔[[ヤコブの手紙(口語訳)#4:6|イアコフ四の六]]〕。我等は謙遜に於て主に{{r|傚|なら}}ふべきに{{r|易|か}}へて高慢驕傲なる偽智をもて主の{{r|最|いと}}狂暴の敵たる驕傲なる魔鬼と親睦を為す。是故に使徒はいへり『何の未だ受けざる者あるか』と〔[[コリント人への第一の手紙(口語訳)#4:7|コリンフ前四の七]]〕。{{r|豈|あに}}汝は自から己を造りしや。されどもろ〳〵の徳行の由りて以て組成せらるゝ所の体と霊とは{{r|汝|なん}}ぢこれを神より受けしなば『何ぞ受けざる者の如くに{{r|矜|ほこ}}るか』〔前同〕。けだし主は此の一切を汝に{{r|賜|たま}}ひしなり。 百九十三、 心を清うすることも又それが為めの謙遜もすべて{{r|上|うへ}}より{{r|降|くだ}}る所の善も我等に於て{{r|位地|いち}}を有するは他にあらず{{r|窺|き}}{{r|偷|ちゅう}}する{{註|窺い盗む(*投稿者注)}}所の思念の心に入るを断じて許さゞるにあるのみ。 百九十四、 神の助けにより独一の神の為めに行為する智識の守りは{{r|先|ま}}づ霊魂に堅立して神に依るの苦行を{{r|修|おさ}}めしめんが為に智識に聡明を{{r|與|あた}}ふるなり、{{r|然|しか}}のみならず智識の守りは{{r|亦|また}}{{r|其|そ}}のこれを領する者の為めに非難すべからざるの思慮をもて外部の{{r|行|おこなひ}}と{{r|言|ことば}}とを{{r|同|おなじ}}く{{r|亦|また}}神に依りて建てしめんが為めに才能を給するなり。 百九十五、 旧約に於て司祭長の特飾{{註|胸間にかくる純金の版にして主の聖物と題するものなり、出埃及記廿八の三十六}}は中心の清きに{{r|擬|ぎ}}したるものにして我等をして吾が心の版の罪によりて黒くならざりしや否に注意せしむるなり、これ{{註|もし黒くなれりと思ふ時は}}我等の涙と痛悔と祈祷とをもて急にこれを清めんが為めなり。我等が智識は軽きもの{{註|動き易きもの}}なり、これを罪の記憶より{{r|止|とど}}めんこと難し。{{r|但|ただし}}いふべし彼は悪なる想像の為めにも又善なる想像の為めにもひとしく従ひ易きものなりと。 百九十六、 心中に{{r|断|た}}えず<u>イイスス</u>を呼び{{r|思|おもひ}}にて<u>イイスス</u>の祈祷に貼着すること空気の我が体に密接するが如く{{r|将|は}}た{{r|焔|ほのお}}の{{r|蝋燭|ろうそく}}に於るが如くなる者は実に{{r|福|さいわひ}}なり。太陽は地上を経過して一日を生ず、さりながら主<u>イイスス</u>の聖なる尊崇せらるゝ名は断えず智識に照り輝きて太陽の如くなる思念の無数の多きを生ず。 百九十七、 {{r|雲|くも}}散ずる時は空気清く澄みてあらはる、されば義の太陽なる<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>により欲念の散ずる時は<u>イイスス</u>をもて中心の空気を{{r|照|てら}}すが故に常に心に於て光の如くなる又は星の如くなる思念生ずるなり。けだし智者はいへり『主を恃む者は真理を{{r|暁|さと}}り愛によりて主に忠なる者となる』。 百九十八、 或る聖人のいひけるは魔鬼を怨み怨めよ而して常に肉体に敵し敵せよと。肉は{{r|狡獪|こうかい}}の友なり、満足を{{r|與|あた}}ふる程は彼れいよ〳〵強き{{r|戦|たたかひ}}を起す。かゝれば{{r|速|すみやか}}に肉体に敵し腹と{{r|戦|たたかひ}}を始むべし。 百九十九、 {{r|右|みぎ}}{{r|殆|ほとん}}ど二百章を成すに於いて我等は智識の聖なる静黙の苦行を{{r|著|あら}}はしてたゞに其の結果を尋ぬる一己の捜索をあらはせるのみならず神智を得たる諸父の神出なる言説が智識の清きに関して我等をいかに教ふるをもあらはせりき。今亦智識を守るの益を示さんが為めに少しく言ひて説教を{{r|終|お}}へん。 二百、 ゆゑに来りて我れに従ひて{{r|汝|なん}}ぢいかなる者たりとも智識の幸福なる守りを得るを致すべし、汝は霊に於て{{傍点|style=sesame|{{r|長寿|ながら}}へて幸福を見んと欲する者}}なり〔[[第五「カフィズマ」#33:13|聖詠三十三の十三]]〕されば余はもろ〳〵聡明なる力の明白なる行為と其の生活とを主によりて汝に教へん。天使等は造物主を讃揚して{{r|飽|あ}}かず、彼等と専ら競争する所の智識も{{r|亦|また}}{{r|飽|あ}}かざらん。されば非物体なる者は飲食の事を{{r|慮|おもんばか}}らざるが如く物体にして非物体なる者も智識の静黙が天に昇らん時は飲食の事を慮らざるなり。 二百一、 天軍は富の事又は獲るの事を心に掛けざるが如く清浄にして徳行{{註|清醒の}}に練習を得たる心霊の目も悪鬼の{{r|怒|いかり}}を{{r|惹|ひ}}くの事に掛念せざるべし。されば彼等の為めに神に近づくに上進するの富は明白なるが如く此等の人の為にも神を渇望すると愛すると神に属する事に向進登上することは{{r|疑|うたがひ}}なきなり。且彼等は{{r|飽|あ}}かざる{{r|大|おほい}}なる願望をもて愛の無限なる大悦{{註|エクスタス}}に導く所の属神の事を味ひしが為めに向進上昇して<u>セラフィム</u>に達せざらん間は止まらざるなり、即ち彼等は我が主<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>の為めに天使とならざらん間は心を清醒にすること{{r|大|おほい}}に願望して上昇することとを{{r|休|きゅう}}せざるなり。 二百二、 毒は毒蛇と{{r|蜥蝎|とかげ}}の毒に過ぎたるはなく悪は自愛の悪に過ぎたるはなし。さて自愛の子は左の如し心中の自慢、自適、貪食、淫行、浮誇、怨恨及び萬悪の最たる驕傲即ちたゞに人類のみならず天使をも{{r|能|よ}}く天より堕落せしめ光に{{r|易|か}}へて{{r|暗|やみ}}にて{{r|掩|おほ}}ふ所の者是なり。 二百三、 それ<u>フェオドル</u>よ静黙と同名{{註|即「イシヒイ」}}たる余は実際は静黙者にあらずといへども汝に{{r|書|しょ}}しぬ。顧ふに余は我等に属する所の皆すべて書したるにはあらず、然れども要するにこは凡そ有智なる天性即天使と人と又言ふ可らざる造物主独一の神に造られたる萬物とより父と子と聖神の名に於て讃美頌揚せらるゝ神が{{r|與|あた}}へし所のものなり、{{r|願|ねがは}}くは彼の光明なる国は至聖なる神母と我等が{{r|克肖|こくしょう}}なる諸神父の祈祷によりて我等も{{r|受|うく}}るに{{r|堪|た}}へんことを。彼れ及ぶ可らざる神に永遠の光栄は帰す、あみん。 {{DEFAULTSORT:きとうせいせいしゆう いえるさりむのしさいいしひい ふえおとるにあたふるしよ5}} [[Category:祈祷惺々集|65]] lfxo0f72q2w4cf61lhu5p5zdfm3idn5 Page:Bushido.pdf/113 250 41750 188206 187935 2022-08-04T23:14:03Z CES1596 4425 /* 検証済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="4" user="CES1596" /></noinclude>す。『誠者、物之終始、不{{レ}}誠無{{レ}}物。是故君子誠之爲{{レ}}貴』と曰ひ、且つ流麗快達の辯を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動せずして變じ、無爲にして成すと說く。其旨の深玄にして神祕の妙域に聘するより、人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトー學說の『ロゴス』<small>({{r|道|ことば}})</small>に比儔せんとすることあり。  虛言、遁辭は共に之を賤めて怯懦なりとせり。武士は社會に高位を占むるよりして、從つて誠實を標榜すること、商賈農民の輩に優りて高大なるを要すとしたり。{{傍点|style=circle|武士の一言}}とは――獨逸語にてアイン、リツテルヴオルト(Ein Ritterwort)と云ふと、其義を一にす――即ち其言語の信實を確證<noinclude></noinclude> f9tzqqf5l0zrlsobc48acw5t508wfd6 Page:Bushido.pdf/114 250 41751 188207 187931 2022-08-04T23:16:34Z CES1596 4425 /* 検証済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="4" user="CES1596" /></noinclude>するものにして、武士は一諾を重んじて二言無く、武士の一言は千鈞よりも重し。されば、人と約するに必ずしも文書を要せず、又た敢て或は違ふことあらず。若し夫れ證文を以て約するが如きは頗る武士の威嚴を毀損するものとせり。世には武士たるものが、二言の罪を償ふに、死を以てしたる、多くの悲慘なる物語すら、之を傳ふるにあらずや。  誠を標置すること斯の如く高く、而して基督敎徒の槪ね、『爾曹盟ふ勿れ』との敎主の簡明なる戒を破り、毫も『スウエア』<small>(誓言)</small>するを憚らざるとは大に異り、眞個の武士は誓詞起證を以て名譽を毀損するものなりとして之を賤めたり。固より神明に誓ひ、刀に盟ふの事ありたりと雖、未だ彼の歐米に於けるが如く其起證の流れて妄語となり、又た神を侮<noinclude></noinclude> 1l4pulagssic8jq2ba8u75rl1y4l15q 中華人民共和国外交部声明 0 41845 188210 188187 2022-08-05T05:20:15Z 鐵の時代 8927 -{{PD-CNGov}} wikitext text/x-wiki <!-- 削除についての議論が終了するまで、下記部分は除去しないでください。 --> <dl style="font-size:smaller;border:solid #999 1px;width:75%;background:#eff;padding:1ex 1em;margin:0 auto 1em;"> <dt style="text-align:center;font-size:130%">'''削除提案中'''</dt> <dd style="float:left;width:50px;margin:0;padding-bottom:10px">[[Image:Icono_aviso_borrar.png|50px|]]</dd> <dd style="margin:0 0 0 60px"><p>現在、この項目の一部の版または全体について、[[Wikisource:削除の方針|削除の手続き]]に従って、削除が提案されています。</p> <p>削除についての議論は[[Wikisource:削除依頼#{{#if:|{{{1}}}|{{FULLPAGENAME}} - ノート}}|削除依頼の該当のセクション]]で行われています([[{{TALKPAGENAME}}|このページのノート]]も参照してください)。削除の議論中はこのお知らせを'''除去しないで'''ください。</p> </dd> <dd style="margin:0;clear:left">'''この項目の執筆者の方々へ''': まだ削除は行われていません。削除に対する議論に参加し、[[Wikisource:削除の方針|削除の方針]]に該当するかをどうか検討してください。</dd> </dl>__NOINDEX__ [[Category:削除依頼中の記事]] <!-- 削除についての議論が終了するまで、上記部分は除去しないでください。 --> {{Copyrights}} {{header | title = 中華人民共和国外交部声明 | noauthor = 中華人民共和国外交部 | notranslator = | section = | previous = | next = | year = 2022 | notes = | category = | portal = }} ocb6k7q76ns0zupb8s0c2kt80cari3z 中国弾道ミサイル発射について 0 41847 188189 2022-08-04T16:38:56Z Johnson.Xia 35403 ページの作成:「{{Header | title = 中国弾道ミサイル発射について | 年 = 2022 | 月 = 8 | 日 = 4 | category = 防衛省 }} # 中国は、本日15時頃から16時過ぎにかけて9発の弾道ミサイルを発射した模様です。そのうち5発が我が国の排他的経済水域(EEZ)内に落下したものと推定されます。詳細以下のとおり。 ① 14時56分頃、福建省沿岸から発射し、約350km…」 wikitext text/x-wiki {{Header | title = 中国弾道ミサイル発射について | 年 = 2022 | 月 = 8 | 日 = 4 | category = 防衛省 }} # 中国は、本日15時頃から16時過ぎにかけて9発の弾道ミサイルを発射した模様です。そのうち5発が我が国の排他的経済水域(EEZ)内に落下したものと推定されます。詳細以下のとおり。 ① 14時56分頃、福建省沿岸から発射し、約350km程度飛翔。 ② 14時56分頃、中国内陸部から発射し、約700km程度飛翔。 ③ 15時14分頃、中国内陸部から発射し、約550km程度飛翔。 ④ 15時57分頃、浙江省沿岸から発射し、約350km程度飛翔。 ⑤ 15時57分頃、浙江省沿岸から発射し、約650km程度飛翔。 ⑥ 16時05分頃、福建省沿岸から発射し、約500km程度飛翔。 ⑦ 16時05分頃、福建省沿岸から発射し、約550km程度飛翔。 ⑧ 16時08分頃、福建省沿岸から発射し、約500km程度飛翔。 ⑨ 16時08分頃、福建省沿岸から発射し、約550km程度飛翔。 # ①については、中国が公表していた与那国島の北北西に設定されている訓練海域内の我が国EEZ外に、⑤から⑨については、中国が公表していた波照間島の南西に設定されている訓練海域内の我が国EEZ内に落下したものと推定されます。さらに、⑥から⑨については、台湾本島上空を飛翔したものと推定されます。 # なお、②及び③については、中国が公表していた台湾南西に設定されている訓練海域に、④については、中国が公表していた台湾北部に設定されている訓練海域に落下したものと推定されます。 # 我が国のEEZを含む我が国の近海に設定された訓練海域に弾道ミサイルが落下しており、我が国の安全保障及び国民の安全に関わる重大な問題であり、強く非難します。 # 防衛省・自衛隊としては、引き続き、情報の収集・分析や警戒監視等に全力をあげてまいります。 [[ファイル:防卫省公布的弹道.jpg|中央|フレームなし]] 31x8kop0ity98iy1jotlb29zi09s899 188208 188189 2022-08-04T23:26:01Z Johnson.Xia 35403 wikitext text/x-wiki {{Header | title = 中国弾道ミサイル発射について | 年 = 2022 | 月 = 8 | 日 = 4 | category = 防衛省 }} # 中国は、本日15時頃から16時過ぎにかけて9発の弾道ミサイルを発射した模様です。そのうち5発が我が国の排他的経済水域(EEZ)内に落下したものと推定されます。詳細以下のとおり。 <br>① 14時56分頃、福建省沿岸から発射し、約350km程度飛翔。 <br>② 14時56分頃、中国内陸部から発射し、約700km程度飛翔。 <br>③ 15時14分頃、中国内陸部から発射し、約550km程度飛翔。 <br>④ 15時57分頃、浙江省沿岸から発射し、約350km程度飛翔。<br>⑤ 15時57分頃、浙江省沿岸から発射し、約650km程度飛翔。 <br>⑥ 16時05分頃、福建省沿岸から発射し、約500km程度飛翔。 <br>⑦ 16時05分頃、福建省沿岸から発射し、約550km程度飛翔。 <br>⑧ 16時08分頃、福建省沿岸から発射し、約500km程度飛翔。 <br>⑨ 16時08分頃、福建省沿岸から発射し、約550km程度飛翔。 # ①については、中国が公表していた与那国島の北北西に設定されている訓練海域内の我が国EEZ外に、⑤から⑨については、中国が公表していた波照間島の南西に設定されている訓練海域内の我が国EEZ内に落下したものと推定されます。さらに、⑥から⑨については、台湾本島上空を飛翔したものと推定されます。 # なお、②及び③については、中国が公表していた台湾南西に設定されている訓練海域に、④については、中国が公表していた台湾北部に設定されている訓練海域に落下したものと推定されます。 # 我が国のEEZを含む我が国の近海に設定された訓練海域に弾道ミサイルが落下しており、我が国の安全保障及び国民の安全に関わる重大な問題であり、強く非難します。 # 防衛省・自衛隊としては、引き続き、情報の収集・分析や警戒監視等に全力をあげてまいります。 [[ファイル:防卫省公布的弹道.jpg|中央|フレームなし]] myam0tjmaxnab655r1le9bvm0v927nc トーク:中国弾道ミサイル発射について 1 41848 188190 2022-08-04T16:40:14Z Johnson.Xia 35403 ページの作成:「{{Textinfo|source=[https://www.mod.go.jp/j/press/news/2022/08/04d.html]|contributors=~~~|progress=50%}}」 wikitext text/x-wiki {{Textinfo|source=[https://www.mod.go.jp/j/press/news/2022/08/04d.html]|contributors=[[利用者:Johnson.Xia|Johnson.Xia]] ([[利用者・トーク:Johnson.Xia|トーク]])|progress=50%}} b1fh8empxozai958ljz719ssoc05c34 Page:Kokubun taikan 07.pdf/521 250 41849 188191 2022-08-04T19:51:42Z CES1596 4425 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>へをとりて、人の心を進め給ふなどきこえ給ふも、文珠の化身とこそは申すめれ。佛も譬喩經などいひてなき事を作り出だし給ひて說きおき給へるは、虛安ならずとこそは侍るなれ。女の御身にて、さばかりのことは作り給へるは、たゞ人にはおはせぬやうもや侍らむ。妙音觀音など申すやんごとなきひじりたちの、女になり給ひて、法を說きてこそ人を導き給ふなれ」」といへば、供に具したるわらはの聞きていふやう、「「女になりて導きたまふことは、淨德夫人のみかどを導きて、佛のみもとにすゝめなどし給ひ、勝鬘夫人の親にふみかはして、佛をほめ奉りて、世の末までも傳へなどし給ふこそ、普門の示現などもおぼえめ。これはをとこ女のえんなることをげにげにとかきあつめて、人の心にしめさせむ、なさけをのみ盡さむことは、いかゞは、たふときみのりとも思ふべき」」といへば、「「誠に然はあれども、事ざまのなべてならぬ、めでたさの餘りに思ひつゞけ侍れば、物語などいひて、ひと卷ふた卷のふみにもあらず、六十帖などまで作り給へるふみの、少しあだにかたほなることもなくて、今も昔もめでもてあそび、みかどきさきよりはじめて、えならずかきもち給ひて、御寳物とし給ひなどするも世にたぐひなく、また罪ふかくおはすると世に申しあへるにつけても、なかなかあやしくおぼえてこそ申し侍れ。罪ふかきさまをもしめして、人に佛のみなをも唱へさせ、とぶらひ聞こえむ人の爲に、導き給ふはしとなりぬべく、なさけある心ばへをしらせて、うき世に沈づまむをも、よき道に引きいれて、世のはかなき事を見せて、あしき道を出だして佛の道にすゝむ方もなかるべきにあらず。其の有樣、思ひつゞけ侍るに、あるは別れをい<noinclude></noinclude> owsezym1ky2jevcbr7ypl1vzy4otvbv 188202 188191 2022-08-04T23:04:36Z CES1596 4425 proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>へをとりて、人の心を進め給ふなどきこえ給ふも、文珠の化身とこそは申すめれ。佛も譬喩經などいひてなき事を作り出だし給ひて說きおき給へるは、虛妄ならずとこそは侍るなれ。女の御身にて、さばかりのことは作り給へるは、たゞ人にはおはせぬやうもや侍らむ。妙音觀音など申すやんごとなきひじりたちの、女になり給ひて、法を說きてこそ人を導き給ふなれ」」といへば、供に具したるわらはの聞きていふやう、「「女になりて導きたまふことは、淨德夫人のみかどを導きて、佛のみもとにすゝめなどし給ひ、勝鬘夫人の親にふみかはして、佛をほめ奉りて、世の末までも傳へなどし給ふこそ、普門の示現などもおぼえめ。これはをとこ女のえんなることをげにげにとかきあつめて、人の心にしめさせむ、なさけをのみ盡さむことは、いかゞは、たふときみのりとも思ふべき」」といへば、「「誠に然はあれども、事ざまのなべてならぬ、めでたさの餘りに思ひつゞけ侍れば、物語などいひて、ひと卷ふた卷のふみにもあらず、六十帖などまで作り給へるふみの、少しあだにかたほなることもなくて、今も昔もめでもてあそび、みかどきさきよりはじめて、えならずかきもち給ひて、御寳物とし給ひなどするも世にたぐひなく、また罪ふかくおはすると世に申しあへるにつけても、なかなかあやしくおぼえてこそ申し侍れ。罪ふかきさまをもしめして、人に佛のみなをも唱へさせ、とぶらひ聞こえむ人の爲に、導き給ふはしとなりぬべく、なさけある心ばへをしらせて、うき世に沈づまむをも、よき道に引きいれて、世のはかなき事を見せて、あしき道を出だして佛の道にすゝむ方もなかるべきにあらず。其の有樣、思ひつゞけ侍るに、あるは別れをい<noinclude></noinclude> 0t0sh4e3alvjn2scn2vu0jzl1wsa80w Page:Kokubun taikan 07.pdf/522 250 41850 188192 2022-08-04T19:58:31Z CES1596 4425 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>たみて優婆塞の戒をたもち、あるは女のいさぎよき道を守りていさめごとに違はず、この世を過ぐしなどし給へるも、人の見ならふ心もあるべし。又みかどの覺えかぎりなくてえならぬ宿世おはすれども、夢まぼろしの如くにてかくれ給へるなど、世のはかなきことを見む人思ひしりぬべし。又みかどの位をすてゝ、おとうとに讓り給ひて、西山の麓に住み給ふなども、佛の道に入りたまふ、深きみのりにもかよふ御有樣なり。提婆品に說かれ給へる、昔のみかどの御有樣も思ひ出でられさせ給ふ。ひとへに、をとこ女のことのみやは侍る。おほかたは智惠をはなれては、間にまどへる心をひるがへす道なし。惑ひの深きによりて、うき世の海のそこひなきにはたゞよふわざなりとぞ、世親菩薩のつくり給へる文のはじめつ方にものたまはすなれば、ものゝ心を辨へ、悟りの道にむかひて、佛のみのりを廣むる種として、あらきことばもなよびたる詞も、第一義とかにもかへしいれむは佛の御志なるべし。かくは申せども、濁りにしまぬ法のみことならねば、露霜とむすびおき給へることの葉もおほく侍らむ。のりのあさ日によせて、たれもたれもなさけ多く、おはしまさむ人は、もてあそばせ給はむにつけても、心にしめておぼさむによりても、とぶらひ聞こえたまはむぞいとゞ深きちぎりなるべき」」などいひつゞけ侍るに、行く末も忘れてなほきかまほしく、なごり多く侍りしかども、日くれにしかばたち別れ侍りにきいかでか又あひ奉らむずる。「「來む世にうゑきのもとに佛となりて、これがやうにのり說きて、人々に聞かせ奉らばや」」など申しゝこそ唯人とも覺え侍らざりしか。その程と申しゝ所尋ねさせ侍りしかども、え又もあはでなむ。人を<noinclude></noinclude> qevt8694s9swbm4wf01exbusztu1c6q Page:Kokubun taikan 07.pdf/523 250 41851 188193 2022-08-04T20:02:18Z CES1596 4425 /* 校正済 */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude>つけてたしかに見おかせでと、悔しくのみおぼえてこそすぎて侍れ。 {{resize|120%|今鏡}}{{small|終}}<noinclude></noinclude> 1ojbfe6ugdf82p4hcw5n1wumk226qr8 Page:Kokubun taikan 07.pdf/524 250 41852 188194 2022-08-04T20:03:24Z CES1596 4425 /* テキストなし */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="0" user="CES1596" /></noinclude><noinclude></noinclude> nn8y6zz94qowwpt5t2djmwkj1uwp4lv Page:Kokubun taikan 07.pdf/525 250 41853 188195 2022-08-04T20:03:38Z CES1596 4425 /* テキストなし */ proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="0" user="CES1596" /></noinclude><noinclude></noinclude> nn8y6zz94qowwpt5t2djmwkj1uwp4lv 今鏡 (國文大觀) 0 41854 188197 2022-08-04T20:10:04Z CES1596 4425 ページの作成:「{{other versions|今鏡}} {{header | title = 今鏡 (國文大觀) | section = 國文大觀 歷史部壹 四鏡 | year = | 年 = | author = | noauthor = | previous = | next = | notes = }} <pages index="Kokubun taikan 07.pdf" from="290" to="523"/> {{PD-old-auto-1923|deathyear=1935}} {{DEFAULTSORT:いまかかみこくふんたいかん}} [[Category:国文大観]]」 wikitext text/x-wiki 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